『霊魂の城』 アビラの聖女テレサ 聖母文庫

 16世紀に生きたキリスト教の神秘家が書いた、神への信仰と祈りについての本。寡聞にして全く知らなかったのだが、“そちら”の世界ではかなり有名な人物のようだ。普通の書店で見つけることが出来なかったので、最終的には東京へ出張した時にたまたま見かけたキリスト教用品の販売店で購入。
 なぜこれまで聞いたこともない本を、そこまでして探して読もうと思ったのかというと、自分が好きなR.A.ラファティという作家の最新長編『第四の館』において、作品の重要な元ネタ(のひとつ)になっているという話を聞いたから。不謹慎にも“予習”のつもりで読み始めたというわけだ。
 だがいざ読み始めてみたところ、これはこれで中世ヨーロッパのキリスト教神秘思想の実践の書として面白い。購入までの苦労と合わせて、おかげでなかなか得難い経験ができてよかった。(もちろん引き続いて『第四の館』も読了。作品の土台に本書がどのように使われているかを味わいながら、こちらも愉しく読み終えることが出来た。)
 ではさっそく聖女テレサの神秘思想について簡単に紹介をしてみよう。

 キリスト教の世界観では人間には魂(本書では霊魂)があるとされ、肉体が滅んでも魂は不滅と考えられている。生前に心正しき人生をおくった者たちは、死んだのちに最後の審判を経て天国で永遠の安らぎを得る。しかし罪を犯したものたちは煉獄で悔い改める日々をおくるか、もしくは地獄で永遠の責め苦に苛まれることになる。
 本書は様々な罪や怠惰の誘惑にくじけそうな“弱い”人間が、いかにして清らかな心を保ち正しいキリスト者として生きていくべきかを、修道僧たちを対象に説いたもの。神によって導かれるべき霊魂を、たくさんの部屋(住まい)をもった「城」に喩え、信仰に無自覚で獣のような生活を送る段階から城(館)の中に入り、苦しみ悩みながらも城の中心にある第七の住まい(=神の御許)まで信仰を深めていくことの大切さが説かれている。
 キリスト教独特の価値観や考え方が興味深い。例を挙げると、一般の人が苦しむのは悪魔の誘惑に騙されて悪しきことをしたから。しかし敬虔な信徒が故なき苦しみを味わうのは、(仏教のように因果応報ではなく)神による「気まぐれな試し」によるものなのだそう。まさに『ヨブ記』の世界そのものだ。
 また先に書いたように、ベースにある霊魂と身体を完全に分ける考え方についてもしっかり述べられている。心身二元論はデカルトにより提唱されたものと思っていたが、その基本形はすでにキリスト教の信仰のなかにほぼ完成形に近い状態で組み込まれていたわけだ。(現実世界の苦しみに背を向け、霊魂による来世の救済を重んじる思想のこと。後にニーチェによって“ルサンチマンの思想”と非難されたものがここにある。)
 テレサは「神の御意志との一致」こそがすべての救いの源と説くが、不完全な人間からすれば「神の御意志」は計り知れないものであって、だとすれば人間が考えた「御意志」は所詮は“仮想の目標”にすぎないだろう。
 だとすれば、それを絶対的な価値と決めてしまったところに、「御意志」以外の価値の否定が始まる原因があったのではなかろうか。自らを「神の下僕」と断じることで、(神の前にはすべての民は平等かもしれないが、)自然界における階層は認めてしまう事になる。すなわち逆に絶対的なヒエラルキーの存在を認めることになるわけだ。平等が差別の元になるという、まさに観念の堂々巡りといえそう。

 閑話休題。本書で挙げられている心の七つの住い(館)についての説明に戻ろう。それぞれの特徴をまとめると、おおよそ次のとおりだ。
【城の外】
 信仰心のかけらもない獣のような世界。
【第一の住い】
 祈りと黙祷で霊魂の城(自己の信仰)の中に入ったばかり。まだ充分な信仰に目覚めていなくて目も耳も塞がった状態なので、却って「毒虫(≒信仰の妨げ)」に悩まされることがない。
【第二の住い】
 少しレベルがあがり、それがゆえ悪魔の攻撃(誘惑)に心さらされて苦しむ段階。まだ容易に無信仰に引き戻されてしまう。ただひたすら自らの知性や感覚に従って神への信仰を意識すべき段階。
【第三の住い】
 本人が後戻りさえしなければ、救いの確かな道に入り始める段階。しかしまだ容易に不安に苛まれるため、安らぎは無い。その悩みすら神が自分にあたえた試練と思って、ただひたすら信仰に邁進すべき時期とされる。
【第四の住い】
 いよいよ救いの道も本格的に。ここで注意すべきは、ここまで来たら「第二の住い」の時のように思考や知性には頼らないこと。ただひたすら謙遜し、「救いを求める事」すら意識しないように潜心の祈りに没頭すべきとされる。特に女性信者への注意として、祈りに没頭することで忘我の状態(宗教的エクスタシー?)になるのを戒める話も。これは「喜びへの浸し(アロバミエント)」ではなく「愚かなこと(バミエント)」と呼ばれる。
【第五の住い】
 霊魂は肉体のすべての作用から引き離され、ただ(神を)愛する状態になっている。(注:聖職者のレベルだろうかか?)この段階までくると知性は全く働いていない。また、神による啓示やそれによる転向の様子も語られている。蚕が繭を作って死ぬことで絹を(人間のために)作るという奇蹟が語られ、人もそれにならって信仰の中に自らの霊魂を完全に捨てさるることで、白い蝶(カイコガ)に生まれ変われるのだと説く。そしてそのためにはひたすら従順であれと。(しかし神による霊魂の救済がなされなかった人々は、死んで絹を奪われる蚕のように他の人への恩恵として使われるそうだ。なんてひどい。/苦笑)
 この「第五の住い」は花婿(イエス)との霊的結婚のための出会いの段階であり、自らを差出すことで主を喜ばせたいという思いしか持たぬ状態だそう。(いわゆる「神の喜びの機械」というやつか。)
【第六の住い】
 神の花婿しか迎えまいと固く決心した女性に降りかかる多くの危難。あまりにも信仰に熱心過ぎるが故の周囲の無理解(注:しかしこれって狂信的ということでは?)、そして自分に対する自信の欠如(注:神の前に自分を捨て去ることを善しとしているための必然か)、頻繁におこる大病(注:極端な信仰生活で体を壊したのでは?)、聴罪司祭による告解者の断罪...etc.これらの妨げによって、信仰を持つ者たちは神経症に陥り精神的な危機(メランコリー)に見舞われるが、突然の啓示という神秘体験と強烈な多幸感で救われる。このくだりは信仰告白の記録として貴重な物かも。(でも今なら新興宗教にどっぷりはまっている人の、心の内面を見せられているような感じに近いかも。/苦笑)
 ここにある「聴罪司祭を主の代理としてみなすように」という教えは、教団による体制化の仕組みとして面白い。しかし「神に対して理性を働かせてはならない」というのはすごいよなあ。
【第七の住い】
 「霊魂の城」の中心に位置するこの場所は主イエス自身の住いであって、信者が完全な「霊的結婚」をする前に導かれるところ。そこでは三位一体・三つのペルソナが霊魂の前に示され、神の愛の交わりを実感する(はずだ、という事になっている。…というのは、著者自身がまだその境地に至っていないから。)ここに至った霊魂にもまだ苦しみは存在するが、それが主の望むことと確信しているので信仰そのものに対する不安はない。嵐の中の平安のような精神状態がずっと続くとのこと。迫害されればされるほど喜びが深くなるとあるから、殉教者の境地であろうか。

 以上が信仰の階梯を描いた、霊魂の城における七つの住い(館)の全貌。こうまでして至高の存在への絶対的な帰依や信仰を求める熱情は、いったいどこからくるのだろうか。不信心な自分にとってはどうも理解できない不思議な感じだ。絶対に実現する事の無い観念を追い求めるがゆえに、精神の「結晶化作用」によってさらに熱情は燃え上がるということなのだろうか。だとすれば恋愛と同じことかもしれないね。(文中ではイエスとの「霊的結婚」の比喩もよく使われているし。)ともかくも本書を読んで、キリスト教においては「我らをお導きください」と他力本願で祈るのが良くないということは分かった。「すべてを御手のままに。従います」という主体的な全面降伏こそが良しとされる。なるほど、だからこそキリスト教徒は自分たちを「聖隷」と呼ぶわけなんだな。
 実をいうと本書は後半から最後の第七の住いに近くなるにつれ、まるでダンテ『神曲』の<天国篇>を読んだ時のような「つまらなさ」が徐々に増えていった。自己完結して満足しきった信仰者の告白は、キリスト教に限らずどれもこのようなものなのかも知れない。全体を通しての印象はある種の「自己啓発書」を読んだという感じ。いうなれば読むものを鼓舞し勇気づけ導くフィクションなわけだが、書き手自身がそれを信じきっている点が、ビジネス書とは違う点かもしれない。だってビジネス書の著者は自分で書いている事なんてこれっぽっちも信じていないだろうから。(ちょっと辛辣だったかな?/笑)

<追記>
 せっかくだから、本書を読むきっかけになった『第四の館』についても少し書いておこう。(以下ネタバレになるので未読の方は要注意。)
 題名にある『第四の館』とは本書にある「第四の住い」に等しいわけだが、訳者あとがきによれば「第四」とは人間が神に初めて出会う段階であるとのこと。本書を読む限りでも、確かにそれまでの段階(住まい)のように知識や理屈による頭でっかちな信仰ではなく、心からの純粋な信心に目覚めるのがここからのようだ。ラストで主人公のぼんくら新聞記者フレディ・フォーリーが「皇帝」に選ばれるエピソードが、”ユダヤの王たるイエス”を暗示しているのだとすれば、世界に隠れて生きる4種の不思議な”怪物たち”がそれぞれ「大蛇/ヒキガエル/アナグマ/鷹」と呼ばれるのは、「霊魂の城」の場内に足を踏み入れることすら叶わぬ獣たちであるから。(このあたりの世界観は『霊魂の城』に見事に符合している。)
 覚醒したフレディというこの世の神にまみえた我々人類は、ラストで「第四の住い(館)」へと進むことができた。(このあたりは進化SFとして読めなくもない。)しかしその先に待つのが第五の住まいへの更なるステップアップなのか、はたまた元の木阿弥となり城外へと逆戻りしてしまうのか、分からぬまま物語はその幕を閉じる。このあたりの”意地悪さ”がラファティのラファティたる所以、すなわち一筋縄でいかないところと言えるのかもしれない。(それがまた魅力でもあるのだけれどね。/笑)
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すごいです~

舞狂小鬼さんこんばんは。

「第四の館」のためにこの本を読んじゃうなんて、すごいです~!
しかも「聖母文庫」とか(笑) すごい入手困難感(笑)
神秘思想とか、良くわかりませんがあのラファティが深く傾倒していたのかと思うとおもしろいですね。
こんな敬虔な内容の本から、あの狂騒的な本が書かれたと思うと。

「第五の住まい」とか「第六の住まい」とかに対する、舞狂小鬼さんのツッコミも面白かったですww

>「神に対して理性を働かせてはならない」というのはすごいよなあ。

確かに(笑)!!!

あと、別記事ですが私も「第四の館」を読んで「ベスターの『ゴーレム100』っぽいなあ」と感じていたので嬉しかったです。

イザク様

ご訪問ならびにコメントありがとうございます。

>こんな敬虔な内容の本から、あの狂騒的な本が書かれたと思うと。

そうですよね。ラファティ本人はとても敬虔なクリスチャンだったそうですが、それが何故あのような作品になるのか不思議で仕方ありません(笑)。

キリスト教はその根本にあるのが「すべてをなげうって神の御業(=聖書に書かれていること)を丸ごと信じなさい」という考えですから、どうしてもこうなってしまうんでしょうね。

また、『ゴーレム100』と同じような印象を持たれたとのこと。我が意見にご賛同いただけてとても嬉しいですw
読者をポンと放り出す感じが似ていると思うのですが、ベスターの場合はそれをたまらなくカッコいいと感じ、ラファティの場合はギャグに感じてしまうのかな?という気もしないでもないです。
もっともラファティはどの作品もユーモアのつもりでは書いていなかったりして…(苦笑)

いずれにせよユニークな作家ですよね。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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