『死に至る病』 キュルケゴール 岩波文庫

 本書、キュルケゴール(キルケゴール)の『死に至る病』やゲーテの『若きウェルテルの悩み』、あるいは有島武郎『生まれ出ずる悩み』といった書名を聞くと、若き“青春”の頃が思い出されて、「何を今さら中年オヤジが」という気がしないでもない(笑)。しかし実をいうと“青春”のころは逆に「何を青臭いものを」とか思って敬遠してしまい、これまで読んだことが無かったのだ。だいぶん前に知り合いの方から、読んでみたら感想を聞かせて欲しいと言われていたのだが、生来のなまけぐせで随分と日が経ってしまい申し訳ない。キリスト教信仰そのものには興味はあるが、信仰告白の場合はちょっと説教臭いイメージがあって...。(単なる食わず嫌いですな。/苦笑) まあ、あっちこっち遊び歩く気ままなお気楽読書なので、気が向くまでなかなか手がでない性分と思ってご勘弁いただきたい。
 本書を読んでみてまず驚いたのは、書かれたのが19世紀半ば(1849年)だという事。こんなに新しい本だとは知らなかった。“キリスト教信仰と人生についての本”という程度にしか予備知識が無かったので、てっきり昔に書かれたアナクロな本だとばかり思い込んでいた。1849年と言えば日本では幕末の開国から明治維新のころにあたり、欧州に目を転じればマルクスが『共産党宣言』を書いて万国の労働者に団結を呼びかけ、一方アジアではイギリスとの阿片戦争に敗れた清が傾きかけていた。そんな激動の時代。そんな頃にわざわざ「教化と覚醒とを目的とする一つのキリスト教的=心理的論述」を書いたキュルケゴールは、時代遅れのアナクロニズムどころかまさに確信犯だったのだ。
 そういえば日本でも明治期には有名なクリスチャン思想家が輩出した。たとえば“Jesus”(ジーザス/キリスト教信仰)と“Japan”(日本/日本人としてのアイデンティティ)という「2つのJ」のはざまで思い悩んだ内村鑑三や、その内村に「モンク(修道士)」とあだ名を付けられた新渡戸稲造などなど。時代が大きく変化する時には、不安な心の拠り所を宗教に求める人が多く現れるのだろうかね。
 さて前置きはこれくらいにして、本書の中身について。全体は前後2つのパートに分かれた構成になっている。まず前半部にあたる第一編では「死に至る病とは絶望のことである」と題して、人が陥るさまざまな絶望のケースをキリスト教的な観点から分析。次に第二編では「絶望は罪である」と称し、同じくキリスト教的な観点から絶望の克服についての考察を繰り広げている。先ほども書いたように本書執筆の目的は「教化と覚醒」なわけだから、著者の主眼はどちらかと言えば分析そのものよりも、「いかに信仰を通じて絶望を克服するか?」の考察にあるようだ。
 全編を通して特徴的なのは、何と言っても自己認識についての精緻な分析と、それとは対照的なあまりに盲目的ともいえる彼の信仰とのギャップだろう。近代的な知識に裏打ちされた分析の前提になっているのは、キリスト教への全幅の信頼と教義の全面的な受け入れ。本人の中では何の違和感もなく溶け合っているであろうこれら二つの価値観は、自分からすれば水と油のようにも思えて正直戸惑ってしまう。しかしそれが却って本書の面白さだったりもするから、一筋縄ではいかないわけだが。(笑)

 なお、最初のうち少し理解に手間取ったのは、本書における「絶望」という言葉の持つ意味が普通と違っていた点。キーワードのひとつであるにも関わらずその点についてきちんとした註釈もないので、本書をこれから読まれる方は気を付けた方が良いかもしれない。
 本書における「絶望」とはいったい何かというと、「未来に希望が持てないこと」ではなく「自己(アイデンティティ)の統合における分裂状態のこと」であるらしい。別の言い方では「永遠なるものを喪失すること」とも書かれている。(*)
 著者のアイデンティティはあくまでもキリスト教信仰に基づき形成されたものであるため、拠りどころとなる信仰を失って自己の分裂に直面することがすなわち「絶望状態」ということになるのだろう。

   *…キュルケゴールによれば、「絶望」とは肉体的な病と違って、現実の各瞬間に
     “経験し続ける”ものなのだそうだ。自分などは“ずっと続く絶望”などと聞くと
     ついニーチェの永劫回帰を連想してしまうのだが、あちらは人生のあらゆる一瞬を
     肯定し続けるという建設的なものだったはず。どこかで両者を比較した文章があれ
     ば、ぜひ読んでみたい気もする。(言うばかりで自分では何らこれ以上分析もせず
     に、あくまでも他力本願に徹するのがお気楽読者のお気楽読者たる所以。/笑)

 ちなみに本書の説明によれば、「絶望」とは外部から襲い掛かってくるものではなく、あくまでも自分の心の中から発生するものだそう。「絶望」と「眩暈」の類似についても説明されているが、「眩暈」は実際に外界が揺れているわけではなく主観の問題なので、同じく主観的である「絶望」とは確かに似ているかも知れない。(ただしその主観の原因がどこからやってきたのかといえば、結局は外界によるものではあるのだが。このあたりはヨーロッパ哲学の伝統である心身二元論の考えを受け継いでいるところかも。)

 先ほども述べたように、キリスト教の教えからすれば肉体と魂を分けて考えるので、肉体的な死は本当の死(=魂の死)ではない。外部から肉体に与えられる死の恐怖は、敬虔なクリスチャンである著者にとって本当の「絶望」ではないということになる。キュルケゴールが恐れているのも、肉体的な分裂や喪失(つまり「絶望」)ではなくて、信仰に関わる喪失(絶望)であるというわけ。心を病んで身体が衰弱しながらもすぐに死に至ることはなく、絶望の過程を延々と体験し続けるという無限地獄。これはこれで辛いものかも知れない。無限に続く絶望状態を引きずるくらいなら自ら死を選ぶような気もするのだが、キリスト教ではそれもまた罪であるとされる。本書では書いてないが、それはもしかしたら(自分をこの世に生み出した)神の意志よりも自分(人間)の意思の方を優先することになり、すなわち神の否定につながるという事だからだろうか?
 以上のようにキュルケゴールの言いたい事は解らないでもない。しかし例えばナチスの絶滅収容所や満州の七三一部隊を考えた場合はどうだろう。“物”として扱われ、最期には粉砕されつくしたひとつの命が直面したであろう絶望。圧倒的な力で外部から襲い掛かる虚無に対しては、果たして抗う術はあるのだろうか。信仰による救済は本当に有り得たのだろうか。平和ボケしている自分には想像もつかない。
 キュルケゴールがその生涯の殆どを過ごしたコペンハーゲンの地で、僅か42歳で早逝したのは1855年のこと。ヨーロッパが体験する初めての絶滅戦争であった第一次世界大戦(1914年)まではまだ半世紀以上、第二次大戦に至っては100年近くの間がある。彼がもしその時代のような事態に直面したら一体どのように考えただろうか。気になるところではある。

 話を戻そう。「絶望」とは信仰の欠如により引き起こされる“ある種”の状態ということができる。そして著者によれば、「絶望」の状態には2種類が存在するらしい。まずひとつ目は、神による祝福に気づかず、無為に人生を送っている人間の状態。(更に細かくいえば自らが「絶望状態」にあることを自覚すらしていない最悪の状態と、自覚だけはしている多少ましな状態があるらしい。)
 もうひとつの「絶望」とは、有限なるもの(=自己)が無限なるもの(=神)を希求した場合に引き起こされる状態のこと。著者によれば“想像力/ファンタジー”とは、自らを無限に内省するための源泉であるそうだ。想像力が働くことによって、人間の持つ感情/認識/意志という三つの精神活動が世俗を離れ信仰にふさわしい「空想的」な状態になるわけだが、その程度が強すぎる自己そのもの「空想的」になってしまう。その結果として待ち受けるのは、自己の拠り所を失いふらつくことで陥る「絶望」状態。これを避けるには、ひたすら無限(神)を希求するのは止め、神の中に有限(自己)を位置付ける必要がある。そうすることで魂は解放され、“健康”な状態になれるのだそうだ。
 どうやら本書の思索の大前提に置かれているのは「自己は相互に止揚しあう有限性と無限性の統合である」ということらしい。有限性と無限性のどちらが欠けても、またどちらかに偏り過ぎても、最終的には自己喪失による「絶望」へと至る。極端ではなくバランスのとれた信仰こそが、絶望から逃れる唯一の道であるというのが、どうやら第一編の結論のようだ。(まあ当たり前といえば当たり前の結論だね。)

 本書で面白いのは、彼の基準があまりにも厳しすぎて、世の中には絶望状態ではない人間はごく僅かしかいない事になってしまっていること。しかし自らを幸福と感じている人を捕まえて、わざわざ「あなたは実は不幸なんです。絶望的なんです」というのが果たして良い事なのだろうか。ましてやその幸福な状態を「理念的な愚鈍」と呼ぶに至っては...(苦笑)。
 ところで本書のように“完全なる異教徒”よりも“キリスト教内の異教徒(=いわゆる異端)”に対してより厳しい判断が下されるのは、異端審問の時代からの「お約束」ともいえるわけだが、こうしてみるとクリスチャンであるのもなかなか大変そうだ。男女の違いによる絶望の違いを比較するくだりで「女性の本質は献身である」という表現が出てくるのも引っ掛かりがあるし、キュルケゴールの思想にはちょっと賛同しかねるところがあるのは事実。
 宗教家の人にはだいたい禁欲的で倫理観が強い人物が多いが、ここらへんのストイックさにきっと彼の思想のポイントがあるのだろう。この教条的なストイックさは、ある種の人(例えば思春期の若者など)にとっては麻薬的な魅力を伴って映るのかもしれない。しかし年取ってしまったオッサンには無理だ。これはまだ「大きな物語」が信じられていたころの思想だからかなのかなあ。どうか“幸せな異教徒”はこのままそっとしておいてほしい気がする。

 またまた脱線してしまった。
 あれこと文句は付けたが、基本的に第一編の論旨自体は嫌いではない。“無限性(≒神性)”と“有限性(≒人間性)”、“必然性(≒現在の自分)”と“可能性(≒未来の自分)”といった項目ごとに精緻な分析を行い、それらのベクトルが互いに逆向きに影響(相克)しあうことで自己が生まれるとした考察などは(キリスト教的な価値観に同意するかどうかは別にして)とても面白い。また余りに苦しみが大きくて救済の手を差し伸べられるのが遅かった場合には、苦しみに何らかの意味を見出そうとして救済を拒否する心理が働く場合もある等、かなりの深さをもった分析といえる。一方で、次々と繰り出される分析結果が全て絶望へとつながっていく展開は、感心するとともに思わず笑ってしまうほど。例えばこんな風だ。
 ――“有限性(人間性)”を欠いた極端な“無限性(神性)”の追求や、“必然性(現在)”を欠いた極端な“可能性(未来)”の追求は、果てしのない自分探しの旅という「魔境」へと人々を誘いやがて絶望に至る。逆に“可能性”がゼロで“必然性”しかなく、あるがままの自分を保ちつづける先に待つのもまた絶望。“可能性”には細かく分けると憧憬(希望)と不安(憂愁)の2種類があるが、そのいずれが強すぎても絶望。さらにはそんな事を一切考えず幸せな日常性と俗物性に埋没していても、ちょっとしたことで絶望的な状況にあることを自覚してひどい絶望へと至る。
 まだある。
 かようにして自分が置かれた状況そのもの(つまり地上的なるもの)に対する絶望と、そこから逃れられない自分(つまり永遠的なるものを持つ己)に対する絶望が発生すると、人はそこから逃れるため無関心(つまり日常性)への逃避を図る。あるいは永遠なるものに同一化しようとして、まるでイカルスのように無謀な試みを行う。しかしこれらは全て絶望の状態の一形式に他ならない。――
 以上、絶望に至る様々な例を紹介してみた。まあ結論からすると、どちらを向こうが何をしようが道は最終的に絶望へと通じるということ。彼に言わせればあらゆる営みは絶望へと通じ(**)、そこから救済されるには信仰の道しかない。有限たる自己の宿命から逃れるには、神が示す無限の可能性ことが救済であるのが結論となる。ちなみに次の言葉はとても有名だ。
 “誰かが絶望せんとしている場合には「可能性を創れ! 可能性を創れ!」と我々は叫ぶであろう、可能性だけが唯一の救済者なのである。”

  **…絶望へと至る道筋を示す著者の腕は冴えに冴えわたっている。もしかしてこの人は
     絶望について考えるのを愉しんでいるんじゃないの?という気すらしてくる。読ん
     でいるうち、苦笑しつつも秘かに著者に対して「絶望先生」なる名前を献上してし
     まった。(笑)

 さて、次は本書後半部にあたる第二編。ここからは絶望と罪についての考察がなされるとともに、いよいよ著者の信仰告白が全開となる。ここを「面白い」と感じるか「付いていけない」と感じるかによって、本書の評価は分かれるような気がする。なんせ冒頭いきなり「罪とは人間が神の前に(ないし神の観念を抱きつつ)絶望的に自己自身であろうと欲しないことないし絶望的に自己自身であろうと欲する事の謂いである。」なんて記述が出てくるのだ。要するに人間が様々な理由で絶望に至るのは仕方ない、しかしそれを克服するため神への帰依を拒否するのは「罪」なのだと言っているわけ。(他にも「あらゆる罪は神の前で起こる」とか「罪の反対は(徳ではなく)信仰である」という言葉があって印象がいきなり強烈。)
 ここをきっかけにして、キリスト教における「罪」とは何か?という考察が順になされていく。例えばソクラテスの「罪は無知である」といった定義を参照したり論駁したり。そして最終的には、「罪とは何か?」を顕わにするためには、「神による啓示が不可欠」との結論が導き出される。キリスト教において罪は「神から一方的に与えられる」ものであって、本人が欲するかどうかは関係ない。ウンもスンもなく啓示されるものなのだそうだ。
 「罪があるから人間は神による救済を求めなければならない」そして「罪とは神から一方的に示されるものである」。一見トートロジーにも似た感じもするが、この前提さえ丸ごと呑み込んでしまえば、あとは第二編も論理的に話が進む。この論旨はユダヤ/キリスト/イスラムと続くセム系一神教の伝統なのだろうか。彼らの信仰はまず無条件にヤハウェの神を受け入れるところから始まるから。
 ひとつ電気工学に喩えるならば、キリスト教的な絶対神の存在というのは「理想的なアース(地絡)」のようなものにあたるわけだろう。どれほどの急激な電流変化に際してもアースが常に0ボルトを保つように、人間の営みが作り出すねたみ・そねみ・うらみ・つらみ・喜び・悲しみといった感情の全てを受け止めて微動だにしない。神とはいわば絶対の安心感と信頼感の源のようなもの、という事ではないのだろうか。
 さらに考えてみると、自己(アイデンティティ)という観念自体がキリスト教的思考の産物なのかもしれない。絶対的な唯一神と対峙するにはちっぽけで有限なる自己がないといけないから。自己をもつことがキリスト教的な価値観から生まれたものであるとしたら、現代社会に蔓延する様々な病理もまた、キリスト教的な価値観によって生み出されたものであるのかもしれない。(たしか似たようなアイデアが伊藤計劃氏の小説『ハーモニー』の中にあったような気がする。)
 第二編における著者の考察をまとめると、「罪(倫理)の弁証法」と「思弁(論理)の弁証法」を対立させた上で、前者をとって後者を否定するという流れをとっている。結局のところ彼にとって大事なのは論理じゃなくて倫理、思想じゃなくて信仰なんだよね。そして最終的には「抽象論を捨てて個々の人間を神と対峙させるべき」という結論に。神は全能であってこの世のあらゆる隅々まで心を配ることができるから、全ての人々に対してカスタマイズされた対応が可能なのだ。だからこそ人は永遠にして絶対的な神に完全に身を任せることにより、神から直接的に罪を宥(ゆる)されることが初めて可能となる。これがキュルケゴールの考える、キリスト教思想の根本原理ということになるわけだ。これら「神と個人の関係」については佐藤優もかつて何かの本で述べていたと思うが、キュルケゴールが第二編で展開したのはまさにその点に尽きるといえそう。

 以上が本書を読んだ雑駁な感想。全体を通して感じたのは、近代社会が抱えた様々な軋轢を真摯に考え、信仰にその解決方法を求めた人物がいたということ。そしてそれらの問題は現代に至っても解決するどころかますます深刻になっているということだ。
 近代になってヨーロッパ諸国の人々が世界中の異質な文化に触れた時、それまで唯一無二と思われていた神に対する考え方が揺さぶりをかけられることになった。これは勝手な想像だが、そうなった場合にとれる方法としては、世界を全てキリスト教的な神の思想で埋め尽くすか、もしくは神という“特異点”に一切頼らない思想を作り出すことで神の信仰を守るしかない。そして後者を選択した人々によって近代の哲学が始まったのではないのだろうか。もしそうだとしたら、近代的理性を用いて神と人間の関係を極めようとしたキュルケゴールの思想は、哲学者たちにとっては超えていかなくてはならないメルクマール(道標)であったといえるのかもしれないね。
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