『〈性〉と日本語』 中村桃子 NHKブックス

 これは面白い本だった。ひとことで言うと「日本語における“女ことば”と“男ことば”について分析した本」という事になろうが、話はそれに収まらない。我々が何気なく使っている言葉の端々に見え隠れする様々な社会意識を浮かび上がらせて、なかなか刺激的な内容となっている。
 例えば主語ひとつとっても、“I”ひとつで済ませてしまう英語に比べて日本語では「おれ/ぼく/自分/わたし/わたくし」など、はっきりと性別や年齢による使い分けがなされている。“YOU”でも同じ。「おまえ/きみ/あなた」など多種多様な言い回しを使い分けているのが日本語の特徴だ。問題は単に「男」ないし「女」という違いだけでなく、そこに「強さ」と「弱さ」や上下関係といった社会的・文化的な意味付けまでなされているという点にある。
 このあたりの事はこれまでも自分で何となく考えた事はあった。しかし本書ではもっと事細かく幅広い分析がなされている。本書の「ことばがつくる女と男」という副題が示すように、社会的・文化的な性差は実は言葉によって作り出されるものなのだ。

 本書によれば、ある人が持つアイデンティティが、その人の行う言語行為(話すこと)の“原因”だとする考えを「本質主義」と呼ぶらしい。例えば中年の男性や若い女性がそれぞれ特徴的な言葉を使うのは、それが「中年の男だから」もしくは「若い女だから」という考え方だ。
 それとは逆に、アイデンティティは言語行為の“結果”であるという考えもある。すなわちその時々の場面において選びとられる言葉が、やがてその人のアイデンティティを作り上げていくという考え方であって、それを「構築主義」と呼ぶらしい。ある種の言葉を習慣的に使用して、特定のアイデンティティ(性別や年齢、社会属性など)を繰り返し表現し続けることで、「自分は○○という人物である」というセルフイメージ(あるいは幻想)が出来上がるというわけだが、本書がテーマにしている「女ことば」と「男ことば」なんてまさにその典型といえるだろう。(ついでに「本質主義」と「構築主義」のどちらが正しいかについては、もちろん後者の方である事は明らかだ。)
 また、このようにTPOによって使い分けられる「言葉の特質」に特に着目した場合、それを「言語資源」と呼ぶそう。そしてこの「言語資源」は、テレビやラジオ、出版物といったマスメディアによって広まり定着するという側面を持つそうだ。(*)本書ではそれらの「構築主義に基づく言語資源」という観点から、小説や漫画やテレビドラマといった様々な題材における、言葉の選択について分析を進める。以下、具体的な例を挙げていこう。

   *…そういえば博士が「わしは○○じゃ」などという言葉を使う事は現実にはありえない
     が(笑)、これなどは『鉄腕アトム』のお茶の水博士によって定着したイメージ
     なのかも知れない。

 “男らしさ”を表現する場合に使われる言葉は時代とともに変化するらしい。明治期には書生が使う「君、僕」が男らしさを表すのに最も適した表現として定着していた。しかし60~70年ごろになり新たに用いられるようになったのは、スポ根マンガや青春ドラマに代表される「おれ、おまえ」といった表現。(これは同時に両者の上下関係やそれに基づく親密さを表すものでもある。)
 そして現在では再び「きみ、僕」に戻っているらしい。また、傷つくことをおそれて親密な人間関係を築かない人が増え、それとともに仲間同士でも敬語を使い合ったり、さらなる親密さを示すために語尾に「~さ」とか「○○っス」といった表現を付けるようにもなっているのだとか。
 このくだりを読んで思い当たったことがある。外国文学で昔の翻訳に目を通していて時に読みにくく感じることがあるが、これは上記のような呼称について無意識のうちに違和感を感じていたからなのかも。

 以上のように、本書をいちいち納得しながら読んでいくと、更に重要な指摘がなされていて衝撃的だった。それは何かというと、日本語においてこれら“男らしさ”“女らしさ”が強調された結果、現在の日本語にはデフォルトで「異性愛規範」が組み込まれているということ。つまり日本語をつかって“正しい”表現をしようとすると、自ずから「たくましく上位に立つ男」と「やさしく控えめである女」であることを強調せざるを得ないのだ。それはすなわち男と女というふたつの性を前提にしたものであり、日本語を使う以上はそこから自由であることは出来ないのだ。(本書では同性愛の人々の使う言葉や、少女がなぜ「わたし」ではなく「ぼく」という“男ことば”を使うのかについて考察がなされているが、ここでは省略する。)
 このあたりまでくるとセクシュアリティとも絡む問題なので、かなり奥が深い。これら言葉の使い方に関する価値観の事を、本書では「言語イデオロギー」と呼んでいるが、まさにある種の立場を表明したものであるのは間違いない。

 次に著者は「ピチレモン」や「ジュノン」といった少女向けのファッション雑誌における、見出しの表現方法について分析する。例えば直接話しかけるような親しみのある語尾(例えば「~たよね!」)の使用や、“みんな(=読者)”からの声を「大好き!」というようにカギ括弧つきで引用すること。あるいは(当時)新しく流行した髪型の名前である「シャギー」といった新しい言葉や「大人の顔」といった特殊な用語を駆使すること等々について。
 これらの分析を通して見えてくるのは、「話し手/雑誌」と「受け手/読者」の一体感を演出しようとする思惑だ。それら見出しの表現が想定している“読者”は、実際にその雑誌を買って読んでいる実在の少女たちとは違う。またそれらのメッセージの“発信者”も、実際に文章を書いている編集者やライター達とは違う。実は“読者”も“発信者”も、どちらも想像上の設定でしかないのだ。読者は想像上の“読者”に自分を仮託して誌面を読み、送り手も想像上の”読者”に対して語りかける姿勢を貫く。著者はこれらの集団を「雑誌共同体」と呼んでおり、まるでベネディクト・アンダースンの「想像の共同体」を思わせる。(そういえばわざとジャーゴン/業界用語を多用して仲間意識を作り出す手法は、色々な政治的グループが得意とするものでもあった。)ちなみに少女雑誌の「雑誌共同体」が実現しようとしているのは、上下関係がなく全員が横並びの仲良しクラブといった感じの、いかにも女性らしいグループ意識の醸成であるという。
 それでは一方、メンズノンノに代表されるような男性ファッション誌ではどうだろうか。結論をいってしまえば、こちらは仲間意識ではなく勝ち負けを強調していて、男性社会に特有の軍隊的な上下関係とそれに伴う親密さを強く意識した誌面つくりになっている。そして誌面は「お友達からのお薦め商品」ではなく、「勝つために必要なすべての知識」を網羅する百科事典的なカタログ方式なのだそうだ。(自分は読んだことが無いので、詳しくは本書をどうぞ。/笑)

 これらの考察を通して見えてくるのは、現代において「異性愛規範」がますます強固なものになっているという事実。それは資本主義社会/消費社会により積極的に利用(バレンタインデーやホワイトデーの狂騒、ダイエット産業やアパレル業界の隆盛など)されているからであり、その根本にあるのは、「異性愛規範」を隠しつつ強要する「日本語」という言語がもつ仕組みそのものなのだ。
 本書は後半さらに話を広げ、日本語と日本文化の関係についても言及していく。昨今の政治家や雑誌にみられる視点として、日本語を「伝統」の礎もしくは「日本固有」の文化としてみるものがある。例えば万葉~源氏物語の時代から「大和ことば」として長く伝えられてきたというものだ。これなどはまさに日本語を「日本という国家」(=想像の共同体)の象徴と見做しているといっていい。
 しかしこれはある意味、危険な考え方でもある。「日本語」を「教科書に載っている言葉(=標準語)」であるとする考え方からは、標準語は優れていて方言は劣ったものであるという立場が透けて見えてくる。(昔に比べると良くなって来てはいるが、まだまだ訛りを恥ずかしいと思う意識は根強いようだ。)また性的マイノリティの人たちが「異性愛規範」の言語である日本語を使うたびに、日々感じる違和感や苦痛は計り知れないものがあるだろう。(**)

  **…「正常」であることを重視する社会意識は、「異常」を排除しようとする動きに
     直結する。ツイッターで話題の「はるかぜちゃん」こと子役タレントの春名風花
     さん(現在中学1年生)が用いる「ぼく」という一人称や、彼女独特の「はるかぜ
     ちゃん語」における“言葉の乱れ”に対して、(一部の)大人が行った声高な非難
     が象徴しているのは、まさにそのような事だ。しかし何が正常で何が異常かの判断
     基準は、時代とともに変わる相対的なものでしかないことを肝に銘じておくべき
     だと思うよ。

 「日本語は日本人の守るべき伝統であって日本固有の文化である」という考え方にはあまり固執しない方が良い。そこにばかり固執していると、(意識的か無意識的かとは無関係に)「良い/悪い」という判断の強要に結びつくおそれが多分にあるから。日本語を「守るべきもの」として固定してしまうのは、社会変化に伴う新たな抑圧を作り出すことにもなりかねない。その結果、却って日本語の持つ可能性を奪うことになりはしないだろうか。そう考えると、むしろ変化こそが重要なのかも知れない。もちろん何でもかんでも変えれば良いというわけでも無いが、大切なのはそういった事に「自覚的」であるという事なのだと思う。
 一気呵成に読んでしまったが、非常に良い本だった。

<追記>
 著者によれば、最近の若者(もしくは女性、あるいは日本人)の言葉遣いが乱れてきているという意見は、源氏物語の時代から記録に残っているものなのだそう。つまり日本語は源氏物語の頃からずっとズレ続けてきたのだし、現在でもズレ続けているというわけ(笑)。太古の昔からずっと変わらずにいた「ザ・日本語」なんてものは、はなから存在していないのだ。その文章を読んだ時、何だか気分がすっと軽くなった。要はどこに基準を置くか?というだけの事に過ぎないのだよね。

<追記2>
 書き忘れていたことがひとつあった。日本語から性別の影響を取り払うとどうなるか知りたければ、一度ツイッターでおしゃべりを楽しんでみると良い。自分の性別を明かしていないアカウントの方と話をすることも多いが、ちょっと読んだくらいでは性別なんて全く判別できない。(日頃から言葉の端々にまで注意を払っていれば、時折つぶやかれる言葉をヒントにして分かる時もあるが。)
 それはツイッターに140字という字数制限があるため、極力飾りを除いた最低限の言葉しか述べられていないからだ。宙ぶらりんで不安になる事もあるかもしれないが、敢えて男とも女とも判断を下さず続けていくと、セクシャリティの虚飾を外したその人の“素”の姿が見えてくるはず。
 男女のどちらとも取れるペンネームを使っている作家のエッセイを読んでみるのも良いだろう。思わず足元をすくわれることもあるかもしれないが、普段いかに憶断をもって人に接しているかが良く分かる。
 以上、どちらも最近自分が意識して愉しんでいることなので、ご参考まで。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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