『知の考古学』 ミシェル・フーコー 河出文庫

 ※今回は長くて申し訳ない。

 M・フーコーはいわゆる「ポストモダン」という言葉で括られる思想家のなかでも、デリダやドゥルーズらと並ぶビッグネーム。(もっとも彼ら自身は「ポストモダン」と呼ばれるのをとても嫌ったそうだが。)
 そして本書は彼の著作のなかでも重要作のひとつに数えられる一冊。なにしろ彼の著書である『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『言葉と物』『監獄の誕生』『性の歴史』などはどれも、全てがハードカバーでしか出ておらず値段も結構なもの。しがないサラリーマンの小遣いでは、気軽に買えるものではない。そんな中、本書が文庫化されるというニュースを聞いた時はとても嬉しかった。これまで河出文庫からはフーコーの『ピエール・リヴィエール』や、ドゥルーズ/ガタリの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』なども出されており、哲学思想系の供給源として重宝している。(河出は哲学思想系だけでなく海外文学の分野でも面白い作品を出していて、イキのいい出版社のひとつ。本読みにとっては良い本を出してもらうことが、何よりも元気の源。その意味で大変に有り難いことです。^^)

 さて前置きはこれくらいにして、さっそく本書の中身について。
 原著の出版は1969年で、時期的には『狂気の歴史』(1961)、『臨床医学の誕生』(1963)、『言葉と物』(1966)という初期重要著書の後にあたる。内容としては、それらの著書で実践した自らの思索の方法について、詳細な分析を施したもの。その方法というのが題名にもあるように「知の考古学」というわけだ。
 主著と呼ばれるものを殆ど読んでいないので偉そうなことは言えないのだが、これまでフーコーに対する印象は、他の“ポストモダン思想家たち”(本人は嫌っているが面倒なのでこの言葉を使わせてもらう)に対するものとは違っていた。本のテーマを見る限りでは、監獄に狂気に医学と何だか脈絡が無い感じで、彼の提唱する“思想”というものがいまひとつ掴みきれなかったのだ。本書を読んだ結果、そのあたりが氷解したことはとても嬉しい。
 本書による彼の「思想」のポイントをひと言でまとめてしまうと、「過去の思想を研究するために開発された新たな技法」とでもいう感じ。思索方法に対する思索とでも言えば良いのかな。つまり『狂気…』『臨床医学…』『言葉…』の3冊は、取り上げられたテーマそのものに研究の主眼がある訳ではなかったのだ。(フーコー自身も、それらを研究対象に選んだのは“たまたま”という趣旨のことを述べている。)
 具体的にはどんな方法かというと、狂気や臨床医学や文法の概念(*)が成立する過程について、当時そのままの姿で様々な事象の関係性を明らかにしていこうというもの ――といってもわかり難いねえ。思想に対する思想、つまりは「メタ思想」の一種なので少しややこしいものなあ。本書の流れに沿って順に説明していこう。

   *…正確にいえばフーコーは「概念」ではなく「言説」という別の定義をもつ言葉を
     使っている。しかしとりあえずここでは“概念”としておく。

 これまで為されてきた一般的な「歴史」の研究では、たとえば世紀や時代など、「時間」の流れを尺度に世界を区切る。一方「思想史」の研究の場合は時間ではなく、海路や穀物といった個々の概念や出来事をある基準で切り取り、「○○の歴史」として再構築することが多い。ついでに言っておくと、その際に問題にされるのは過去の記録/ドキュメントが真実であったかどうかではなく、当時そのように信じられたり語られていたのは何故か?ということ。そしてその結果、どのような世界が形作られたのかについて考えるわけだが、そうすることで全体的な社会の動きを漠然と見ているだけでは見えてこないような、新しい概念が見えてくるのだ。(**)

  **…個々の事案を考えた場合、それらに共通のモノサシは存在しない。したがって概念
     の数だけ複数の「歴史」が語られることになる。例えば科学の概念(≒パラダイム)
     の変遷や、文学や美術の分野において集団に共通する特徴を取り上げて「○○派」と
     いうひと括りで扱う方法は、研究においてかなり有効な手段といえるだろう。

 ただし従来から行われてきたこの研究方法にも欠点はある。いくら研究者が客観的に判断しようとしても、如何せん過去の出来事。多くの記録が失われてしまっており、分析に必要な情報が充分に手に入るわけではない。そうなると研究者は自らが知る(もしくは知りたいと思う)事実にのみ依拠しがちで、研究者のもつ仮説や概念が先行した形になりかねない。知らず知らずのうち今の感覚による色眼鏡でみてしまう恐れもある。(フーコーいわく、歴史学が行っているのは「ドキュメントをモニュメントに変換する」作業ということらしい。)
 自分が思うにこの「概念」というものは、捉えどころのない実世界について考える際、大きな皿(世界全体)から自分の食べやすい量だけ小さな皿に取り分けることに近い。そうなるとモデル化やパターン化やそれに伴う簡略化といった一連の作業は、さしずめ食事の時に使うナイフやフォークと言えるのかも。(当然のことながら、道具には卵の殻むき器みたいに他に使い道のない特殊なものあれば、ハンティングナイフのように様々な用途に使える万能な道具もある。また“切り分け方”(研究者の技量)によって料理の質が変わったり、見た目の美しさと実際の“味”(納得できる結論かどうか)が違うのも同じ。
 ふむ。してみるとモデル化/パターン化というのは、人間が世界を認識する上で大変便利で強力な道具ではあるが、同時に認識を誤らせるウィークポイントにもなり得るということかな。
 これらの課題を踏まえ、フーコーは過去の思想を研究する上で別の方法をとることにした。それは記録に残されたありとあらゆる出来事(正確には「語られた概念/アルシーヴ」)を出来る限り洗い出して、それらの関係性について調べるというやり方だ。
 例えば「臨床医学」というそれまで無かった新しい言説(≒概念)が形成するにあたっては、1.病院/2.民間医療(注:当時は病院治療よりこちらの方が盛んだった)/3.研究所(注:大学や個人の研究機関)/4.図書館あるいはドキュメント類…といった様々な関連領域が関与する。これらの領域は当時の社会において微妙に関連しつつも独自の発達を遂げていたわけだが、フーコーはこれらの領域の実態について、当時の文献や記録といった“状況証拠”を丹念に積み上げることで明らかにしていく。そしてそれらが複雑に絡み合うことで、それまで存在していなかった「臨床医学的言説」というものがこの世に誕生することに。その過程を示したのが『臨床医学の誕生』だったという訳。フーコーも言っているように、「臨床医学」は死体解剖など当時実践されていた即物的な技術の延長から生まれた物ではないのだ。(それはそうだよな。ちょっと考えただけでも、器官としての身体の“発見”だとか、都市化の進行と伝染病の流行や衛生観念の浸透など、色々な要素が頭に浮かんでくるもの。)
 著者に言わせれば「言説は、互いに区別された諸々の場所のひとつのフットワークが繰り広げられる外在性の空間なのだ」そうだ。話はそれるが、社会で規範とされる「理念」というものも同様で、誰かがある日突然作り出したものではなく、このようにして出来上がってきたのだろうな。
 なおこれらの作業で気を付けなければいけないのは、近年に成立した概念のカテゴリー区分をそのまま過去の時代に適用してしまわない事。仮に似た単語が用いられていたにせよ意味が違う可能性だってあるし、当時なかった概念が新たに付与されることだって考えられる。(考え方の基準が異なるものを今の基準で判断することの問題については、「パラダイム」という概念の提唱者であるクーンツも指摘していたはず。)
 こうして過去の思想を「考古学」の視点で改めて見つめ直すことで、歴史上の「概念の“非連続点”(=パラダイムの変化が起こった時点)」は、ひとつの時代の終わりや節目としてではなく、逆に新たな言説の誕生の瞬間、すなわち歴史が分別されていく重要な点として注目されるようになる。(フーコーはそれを「言説の可能な回折点」と呼んでいる。)

 以上、分かりにくくて申し訳ないが、フーコーが提唱した「(知の)考古学」と従来の歴史学・思想史学との違いが、何となく理解頂けただろうか。繰り返しになるが、重要なのはそれぞれの区分(アルシーヴ)の絶対的な価値基準を決めることではなく、区分それぞれの相対的な違いを明確にしていくこと。(余談だがこのような視点に立つと、ヘーゲルに見られる世界意識の統一といった、包括的な歴史認識は成り立たないよね。)

 次にフーコーはこの手法を「臨床医学」や「狂気」といった狭い領域ではなく、「科学」「経済学」「哲学」「文学」といったもっと大きな尺度の対象にも適用し、その有効性について検討する。対象をこのように大きな学問領域にした場合は、また違った分析要素が必要になるようだ。それは(従来の歴史学で用いられていたような)「時間」という視点。ある時代に生まれた諸概念が、次の時代に新たな文脈で捉え直されるのを踏まえた分析だ。(当然、時代遅れで廃棄される思想も、逆に復活する思想もあるだろう。)
 「科学の歴史」や「経済学の歴史」といった様々な「○○の歴史」の間にはたしてどのような関係性が成り立つのか。そしてそれらが互いに関係しあってどのような「一般的歴史」が成立していくのか。フーコーが本書で構想するのは、新たな歴史の創出とでもいうべきとても壮大な内容。(もっとも本書執筆の時点では、それらの詳しい分析方法についてフーコーにもまだ全体像が見えてきてはいないようで、大まかな方向性が示されているだけとなっている。)
 ここでは「博物学」を例に、宇宙論/地球史/哲学/聖書釈義/数学などの学問分野との関係性を見ている。結果、同じ「博物学」であっても16世紀と19世紀では全く異なる様子が示される。確かにそうだ。進化の流れを示す「樹形図」のように、それまで無かった新しい表現方法が開発されることで新たな学説が生まれる事だってあるわけだしね。
 なお本書のキータームである「言説」については、「概念」とほぼ同義、という説明しかこれまでしてこなかった。ここでは詳しい説明がなされているのでついでに説明しておこう。
 フーコーによれば言説を生み出す4つのシステム(≒諸規則/方向性)というのが存在する。それは何かというと「諸々の対象」「言表行為」「概念」「理論的選択」というものだそう。これらが互いに作用しあうことで、言説が生み出される前提が準備されるようだ。(例えば経済学においてなら、よく言われるような「重商主義的選択」か「効用主義的選択」という二者選択ではなく、背景にある4つのシステムの相互作用でもって次代の資本主義経済が生まれてきたという感じ。)―― うーん、わかり難いね。どう説明したらいいものかな…。フーコーはデリダやドゥルーズに比べればまだ分かりやすいとは言え、このあたりはメタ構造についての抽象的な議論がずっと続くので論旨が追いにくい。ま、これら4つのシステムによって区別をつけられる境界のことを「言説」と呼んでいる、という程度の理解で取りあえずは良しということで。(笑)

 フーコー自身ももっとちゃんと説明しておく必要があると思ったのか、第3章「言表とアルシーヴ」に入るとひたすら記号論的な分析が続く。ここでは「言説」を形成する要素である「言表」とは何か?とか、文法および文章の意味や位置づけや、語る主体と「言表」の関係性とは何か?など、記号論的な詳しい分析が行われていて読み進むのに少し時間がかかる。本書を読み通すにはここが一番のヤマかも知れない。(ものすごく簡単に要約すると、「ひとつの言表を成り立たせるのは、その周囲にある他の言表との意味的な差異である」というのが結論みたい。なんだかソシュールの言語理論みたいなんだけど。/笑)
 ちなみに先ほど挙げた言説形成のための4つのシステム「対象/行為/概念/選択」は、言表機能が作用するために必要な“領域”となる「座標系」「主体」「関連領野」「物質性」の4つにそれぞれ対応しているとのことだが…やっぱり良く分からんですね。説明が下手ですいません。興味のある方は本書に当たって頂くという事で。(^^;)

 気を取り直してもう一度ざっとまとめてみたい。
 フーコーが「言表」と名付けた、種々の意味を持つ“言語データ(文法や語彙の集合)”を分析すると、ある時代や地域などに特徴的に表れる、「言説」と名付けられたひとつの“概念の集合体”が立ち上がってくる。それはフーコーが自ら実践したもので言えば「臨床医学」や「狂気」といった、心理的や社会的または経済的な区分において独特な意味を持つ、ひとかたまりの規則である「アルシーヴ」なのだ。そしてそれを解き明かしていくのが、彼がいうところの「考古学(アルケオロジー)」の取組みなのだとか。(えーと。こんなところで合っているのかな?)

 記号論的な考察による準備を経て、次の第4章「考古学的記述」ではいよいよ思想史家としてのフーコーの本領発揮。(いや思想史家というよりは、思想史否定家とでも言った方が良いのかな?)思想史をいかに読み解いていくかについて、方法論が滔々と述べられていく。
 例えばひとつのテーマを巡る矛盾について。生物分類における「博物学/リンネの不変説」と「生物学/ダーウィンの進化説」というのがある。従来の思想史ではこれらを互いに矛盾し相容れない説として捉え、最終的にはどちらかの勝ち負けで結着をつけようとする。対してフーコーが提唱する「考古学」では、両者の矛盾(「内部的対立」)を「終着点」としてではなく、2つの言説が発生する「始まりのポイント」とし、そのままの状態で差出す事とする。このように単純化や統合などははなから考えず、むしろ正反対の多種多様な衝突として捉えることで、矛盾は矛盾でなくなるというのがフーコーの主張。これはパラダイムシフトが起こる過程やきっかけを特定の人物やエピソードに帰することなく、等身大のドキュメントとして描き出そうとする試みと言っても良いだろう。
 ただしそこから何が見えてくるかは予想すらつかない。(というより予想することの禁止から、フーコーの方法論が始まっているといっていい。)その結果として見慣れた「歴史」の概念が覆り、そこから新しい“何か”が見えてくるかも知れないし、収束せず分散して、収拾がつかなくなる恐れだってある。まさにその先の展望は“神のみぞ知る”だ。ことによると「網野歴史学」みたいな新しい視点が出てくる可能性だってある。
 以上が自分なりにまとめた本書の概要だがどうだろうか。本書を読んで、フーコーの本が面白いと言われる理由が少し分かった気がする。それはきっと彼の著作が本書のような構想に基づいてテクスト成立時の状況を丸ごと浮かび上がらせるから。それであたかも全体小説を読んでいるかのような、見通しの良い世界が開けるからではなかろうか。
 本書の最後でフーコーは、これら言説形成のためのシステムなどあらゆる「諸機能」の総体を「知」と名付ける。すなわち本書の題名でもある「知の考古学」の誕生を宣言するわけだ。彼の思想は“学際”というか“越境”というか、とにかく従来の学問体系に囚われない自由さを前提としているのは間違いない。

 ただ本書を読んだことで、ポストモダン思想の弱点も少しずつ見えてきたように思える。確かにこれまでのやり方の欠点を明らかにして正しい(と思われる)分析の仕方を提示したのは偉い。でも竹田青嗣氏も以前述べていたように、ポストモダン思想では往々にしてその先の展望が示されない。さらに言えばフーコーの場合その原因は、彼の取った方法事態に内在するものだったのではなかろうか―― そんな気がしている。なぜならフーコーが行ったのは、世界全体を“そのまま”の姿で示そうということに他ならないから。
 「概念」とは世界を単純化/シンプル化して理解しようとした結果、生まれてくるもの。だとすれば、その境界をどれだけ広げていこうとも、“世界そのもの”にはなり得るはずもない。(そのためはリアルな世界に匹敵するスケールと複雑さをもった概念が必要になる。)結局のところ、線引きはどこまでいっても恣意的なものでしかなく、どれだけ本物に“似せた”モデルを作れるか?という議論でしかないだろう。そう考えると、従来の歴史・思想史との違いというのも、所詮はレベルの差に過ぎないのではないかと思えてしまうのだ。(少しトートロジーっぽい感じもするし。)
 フーコーによれば分析をする際の取りあえずの出発点として、まず「科学史に基づく区分」と「今までに使われておらず手垢がついていない新たな“○○史”の区分」を考えて「おおざっぱな見積もり(=目安)」を作ればいいらしい。その後は(分析の経過に従って)区分を適宜付け加えたり差し替えたりとのこと。しかし原理的に先ほど述べたような課題がある以上、どれだけ対象を広げて深く分析するかの問題のような気もする。課題の存在を否定することは自己撞着に陥るしかなく、それを回避するには敢えて目を背けるしかあるまいとも思う。
 この事はフーコーも自覚していたジレンマなのではないだろうか。だからこそフーコー自身も本書において「~である」と言い切ることができず、「~ではない」の連発で間接的/消去法的にポイントを指し示すことが多かったのではないか…そんな気さえしてくる(***)。単に本人の文章の癖なのかも知れないけどね(笑)。

 ***…実は「~ではない」という文章の頻出が、本書を読み難くする一因にもなってい
     るのだ。

 話は変わるが、ドストエフスキーとバルザックを例にして「書物」について取り上げた文章も、同様の話が言える。フーコーは「書物の中に語られた事と語られなかった事という“2つのテーマ”による提示を放棄しなければならない」と述べている。つまりは顕在化している二者択一ではなく潜在的な複数の要因の影響を探れという意味だが、ではその先には何が見えるというのか?「言説的出来事の記述」を、書物や出来事(すなわち諸々の統一体)を取り扱う上での“地平”として捉える必要があるとの主張だが、その時代の考え方や社会背景の全体を把握するのが前提であれば、それが果てしのない探求になることは間違いない。(まさにイバラの道といえる。)これらの戦術をとることで、フーコーはいったい何をしようとしたのだろうか。
 訳者解説によれば、「ポスト構造主義者」とも言われる彼は、これらの手法をまずは構造主義への批判として構想したようだ。C・レヴィ=ストロースに始まった構造主義も長年の“手垢”がつき、強引なモデル化などの弊害が見え始めていたという事らしい。つまりフーコーが行おうとしたのは(哲学用語を借りれば)「超越的」ではなく「超越論的」な考えに対する批判ということ。
 著者が言う「思想の歴史をその超越論的隷属から解放すること」というのは、物事をありのままに見るという事だろう。ありのままに見ることでたしかに見えてくるものがあるだろう。しかしそこから何が生まれてくるかは分からない。それは現状に対する批判にしか過ぎず、何かを生み出すものではないからだ。可能性は指し示されるにせよ、そこから何を読み取り何を生み出すかは、我々自身にかかっているといえる。繰り返しになるが、そこがポストモダンの強みであるとともに限界であるとも言えるのではないだろうか。

 うーん。ちょっと厳しめの感想になってしまったかな。翻って言えば、それだけ本書が全体的に分かりやすくて刺激に満ちた内容だったとも言える。ポストモダン思想の弱点はここに露呈しているが、でもすごく面白い。そんな矛盾した気持ちがない交ぜになりながら、愉しく読み終えたのであった。(笑)

<追記>
 本書を読んでいて懐かしかったのは、何十年ぶりかで目にする単語が続々と出てきたこと。先に挙げた「知」もそうだし、他にも「知によって生じる科学的な諸関係の総体、あるいは認識論化された言説」を意味する「エピステーメー」という言葉や、本書を読んでもやっぱり何だかピンとこなかった(笑)「ポジティビティ」だとか。
 これらの言葉、ひと昔前にかなり流行ったよねー。学生時代にワクワクしたものと久しぶりに再会できて、(こういうのも変だけど)何だか嬉しくなった。
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