『荘子 <内篇>』 福永光司 講談社学術文庫

 孔子の『論語』とならび、中国を代表する思想である老荘思想。その老荘の一方の雄である荘子の思想を伝える書物は「内篇(全7篇)「外篇(全15篇)」「雑篇(全11篇)」の三篇/全33篇からなるそうだ。そのうち「外篇」や「雑篇」は後年の門人たちによる文章が相当数含まれていて、荘子本来の思想をもっとも忠実に示しているのは「内篇」である、というのが一般的な説らしい。本書はその「内篇」の原文&訓み下し文に、さらに訳者による詳細な解説(解釈)がつくという、豪華版の本だ。
 『老子』は有名だし厚くないので、わりかし読んでいる人も多いと思うが、それに比べ『荘子』は何となく地味な印象があるうえ(失礼/笑)、ちょっと厚めなのでこれまで手を出さずにいた。気が変わったのは、あるとき聞いた『内篇』の冒頭と最後に出てくる逸話が偉く気に入ったから。「鵬(ほう)」という巨大な鳥が出てくる話と、「混沌(こんとん)」が体に7つの穴をあけられて死んでしまう話といえば、聞いたことがある方も多いかも。

 有名な冒頭の文章は、北の海に体長が幾千里もある巨大な「鯤(こん)」という魚がいて、やがて「鵬(ほう)」という巨大な鳥へと変化。まるで雲のようなその翼をつむじ風に乗せて南の海へ赴く―という壮大な話から始まる。この巨大な魚や鳥は俗世の小さな価値観や論理を遥かに超越した存在を意味していて、荘子の理想とする境地を象徴しているそうな。ニーチェの超人思想にも似たところがあって、「至人(=無己/すなわち自己にとらわれない者)」「神人(=無効/すなわち俗世の価値に左右されない者)」「聖人(=無名/すなわち名誉にとらわれない者)」という3種の者たちが、自然や宇宙と一体化した理想の姿とされる。これは最初の章である「逍遥遊」の最も重要なポイントであって、俗世を遥かに超えた存在である絶対者(超越者とも)の、“自由無碍(じゆうむげ)”の境地の実践について説明したもの。

 たしか白川静氏が言っていた事と思うけれど、実は『荘子』の方が『老子』よりも先に書かれたものではないか?という説もあるらしい。(ただし思想史には詳しくないので正しいかどうかは知りません。悪しからず。)『老子』の思想の方があまりにも整い過ぎていて、『荘子』に比べてかなり作為的なところがあるとの由。素人の目ではさっぱり分からないのだけれどね(笑)。また同じく『荘子』の方が、具体的な喩え話が多くて読んでいて面白い―という噂もあったが、これは実際に読んでみたら本当だった。(『老子』にも有名な「玄牝(げんぴん)」という谷神の話を始め、面白い逸話はもちろん多くあるけどね。)
 ざっと中身について説明しておこう。本書は第一章「逍遥遊篇」から始まり、ついで「斉物論篇」「養生主篇」「人間世篇」「徳充符篇」「大宗師篇」「応帝王篇」と続く、つごう全七篇からなる。おおまかな流れとしては、1)人として理想の生き方とは > 2)実際の人生における実践とは > 3)君子はどうあるべきか ――という、3つのステップで進む感じかな。奇数の付く章は比較的短めで偶数章は長めの構成だが、思想書としてのメインは最初のふたつの章(「逍遥遊篇」「斉物論篇」)にあるといって良いだろう。
 特に第二章「斉物論篇」は抽象論が多くボリュームもあるのでなかなか読みごたえあり。残りの章は例え話が中心となる。先ほどは「逍遥遊篇」のポイントについて書いたが、ついでに残りの章についても簡単に紹介を。

 まず「斉物論篇」だが、この章はいきなり難しい。先ほどの「自由無碍なる絶対者」を成り立たせる論理・根拠について説明しているのだが、抽象論なので文意を読みとるのが大変。(解説にかなり助けられた。訓み下し文だけではおそらく理解できなかったのではないだろうか。)
 それによれば、宇宙や自然と一体化して自己を感じなくするのが理想という事だが、これは西洋思想の大きなテーマであった「実存」に関する逡巡や苦悩を、克服するヒントにもつながるような気も。他にも「彼に非らざれば我なく、我に非らざれば取るところなし」という言葉が示すように、「(喜怒哀楽の心的現象を除けば)具体的な自己など何処にも存在しない」という主張があったり。これなどはフッサールが創始した「現象学」の根本理念にも通じるところがあって実に興味深い。
 ちなみに「現象学」では“情感”こそが人間の認識の根源であると規定されるわけだが、“情感”が生じる理由そのものについては、現象学ではそれ以上考察しない。しかし荘子は『内篇』において、その正体についても考察を述べている。すなわちその正体とは「情(まこと)ありて形(かたち)なき」はたらきそのものであり、「天(≒自然)」なのだとか。このあたりのくだりを読むと、まさに老荘思想の根幹に触れた感じがするな。
 すなわちまとめてしまえば、「どんな人間も生来もっている自然の心(成心)に従えば安らぎを得ることが出来る。無理に自己に固執するからこそ愚かな振る舞いを繰り返すのだ」というのが、彼らの主張という事になるだろうか。

 話は変わるが、老荘思想をもっとも端的に表現する「道(タオ)」という言葉。この「道」というやつがまた厄介で、何なのかいまいちよく分からない。それでも『老子』においては様々に説明を加えていた記憶があるが、本書ではよけい曖昧にされている。(もしかしてこのあたりの事を白川静氏は言っていたのかな?)
 まあ何せ「道」というのは人智を超えた何かであり、人によって「究める」ことなど出来はしないもの。太古の始原においてあらゆるものの元となった“全きもの”とでも言えば良いのかも知れない。
 荘子の説によれば、太古の世界においてはあらゆるものの区別がなく、全てが一体かつ完璧なものであったそうな。そこから「あちら」と「こちら」の区別が生まれ、さらに「良い(好い)/悪い」の判断が生じてこの世が生まれた。そしてそこからすべての苦しみが生まれたのだと。
 よって荘子によると「自己」というのは、全ての苦しみの根源であるらしい。(西洋思想は根本から否定されているね。/笑) 本書を読む限りでは、これが荘子の考えの根本にある「道(タオ)」の価値観のようだ。しかし自分というものを捨てて、大宇宙と一体化することが人として生きる理想の姿だといわれてもなあ。何が自然の心なのか、修行の足りない自分にはとんと見当もつかぬ(笑)。
 荘子もそのあたりは心得ていたようで、次には「人間の妄執を超克するための仕組み(*)」を明らかにしようとしてくれている。(しかしそれもまたすごい展開に。解ったような解らないような話で、何だかはぐらかされたような気がしないでもない。/苦笑)

   *…この世の実在の真相を明らかにする絶対の智恵を「明(めい)」と呼ぶ。冒頭に挙
     げた「絶対者」の事を、「明」を体得した存在と言い換えてもいいかも知れない。

 まあとりあえずその一端でも。
 世の中に“始め”というものがあると認めるならば、もうひとつ遡って、まだ「“始め”すら無かった頃」があったと言えるはず。そしてその「<“始め”すら無かった頃>すらなかった頃」が…と考えていくと、簡単に無限循環論法に陥ってしまう。逆に“始め”など無かったという仮定からスタートしても同じで、「“始めなど無い”」が無かった頃…となってやはり循環に。結局のところ、何も表した事にはならないのだと荘子は述べる。ではどうすべきかというと、それらすべてを呑み込んで「渾沌(こんとん)」を生きること。そしてそのために「体験そのものの世界に止まること」が重要なのだとか。
 このあたりの話が本書の一番の山場と言えるかもしれない。いい加減、抽象的で難しい内容なのだが、それに輪をかけて福永氏による解説が大変なことになっている。あまりにも「格調が高すぎる」のだ。もしかしたら訓み下し文自体より解説の方が表現の難しいところさえあるかもしれない(笑)。正直いってここらを読むのには結構苦労した。(ちなみにかの有名な「胡蝶の夢」の説話は、この「斉物論篇」のラストに出てくるもの。本書を読むまで恥ずかしながら知らなかった。「目から鱗がおちる」という表現が新約聖書に由来するのを知らずに、読んでびっくりしたのと同じ。古典は現代にもまだまだ生きているんだね。)

 ともかくこのようにして1、2章では、人が理想とすべき姿(=精神的な「絶対者」)が明らかに。続いて荘子は実社会における「絶対者」の姿を述べようとし、それが次の「人間世篇」の主題になるというわけだ。
では実社会において、精神的な「絶対者」はどこにいるのだろうか。荘子によれば、彼らは(老賢人のごとく)俗世を離れた山の奥や竹林に人知れず住んでいるわけではない。むしろ彼らは人々とともに、街の中に暮らすのを旨としたのだそう。
 当時の中国社会というのは権力者が臣民の命を奪い、そして国家同士も互いに戦うという、まるでホッブスの『リヴァイアサン』のような世界だったようだ。荘子はきっと、人がそのような世界で如何に生きるべきかを語りたかったのだろう。
 もったいぶっても仕方ないので結論を言うと、それは「無用の用」ということ。何の役にも立たぬがために、切り倒される事もなく大木に育った櫟(くぬぎ)の逸話や、体が不自由であるがゆえに徴用もされず気ままに生きる支離疏(しりそ)という人物などを例に、道徳を振りかざして人に「正しい」道を説くことの愚を述べている。このような人物こそが陋巷に在る「絶対者」の姿であり、同時にまた君子の理想の姿でもあるというわけだ。

 荘子は次のように述べている。
 「国を亡ぼすも人心を失わず、利沢(めぐみ)は万世に施(およ)ぶも人を愛すと為さず」
 訳文)真の超越者/絶対者は自由無碍な心の働きを持つため、外界の事象に適時応接して極
    まり尽きることがない無心の境地に遊ぶ。したがって武力を用いて他国を攻め滅ぼそ
    うが、人民の信頼を失うことがない。また彼の恩沢は万世に及ぶほど広大無辺だが、
    その愛は無心の愛なので、彼自身、人民を愛していると意識することがない。

 ちょっと待て。これってただの夢に過ぎないのではないのか? もしもこれを理想とするならば、施政者はどこに自らの心の拠り所を求め、また人民は何をもって彼を信じれば良いのか。「自然のままに生きる」というが、生まれながらに徳をもつのでなければ、如何にすれば人はこのような存在に成れるというのだろうか?また自然に生きることが、すなわち宇宙と一体化する究極の状態であるとするならば、野生動物の世界は最も幸福な世界だとでもいうのだろうか。
 もしもこのような君主が実在したとすると、(人民と心の一致がなされない限りは)単なる暴君と区別がつかないに違いない。こうして考えると、荘子の思想は(ニーチェの超人思想と同じで個人が生活信条とするには素晴らしいものだが)、それを他人に強要したり社会共通の規範にしようとすると、いきなり大変なことになるような気がする(**)。

  **…これが『老子』のように机上の論理に終わる事なく実社会への応用に突き進んだ、
     荘子の危うさでもありまた面白さとも言えるのかも知れない。ちなみに余談だが、
     荘子の理想とする施政のあり方は、小野不由美による人気ファンタジーシリーズ
     『十二国記』の世界観にほど近い気がする。

 もう一度おさらいをしておこう。超越者/絶対者が尊ぶとともに体得している「無為自然の理(ことわり)」のことを「道(タオ)」という。荘子の思想は、(細かな部分で相違はあるにせよ)この無為自然を理想とする点においては、老子の思想と共通するものといえ、それが「老荘思想」と呼ばれる所以になっている。ちなみに自己と道がひとつに絡み合った状態を「えい寧」(注:えいは手偏に嬰)というそうで、結論としてはこれが老荘思想における理想の境地ということになる。
 では最後に「応帝王篇」に出てくる「渾沌、七竅(しちきょう)に死す」の逸話に触れて終わろう。この話、どこかで聞かれてご存知の方も多いと思う。目鼻口といった、人間と同じ7つの穴(=作為や分別を暗示)を7日間かかって体に開けられた渾沌が死んでしまうという逸話だ。渾沌は渾沌のままに、無為自然は自然のままにしておくのがいちばん…。結局のところ、それが荘子の最後に言いたかったことのよう。でも皆が好きにしたら上手くいかないからこそ、いろんな智恵を絞ってきたのだけれどねえ。

<追記>
 本書はあれこれ考えるところの多い本だった。思想としては不充分なところもあると思うが、それがまた本書を読む上での愉しさにもなっている。プラトンにせよ孔子にせよ、思想書というのは自然科学と違って古びないから好いね。今の人が読んでも存分に愉しめる。
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