『中世日本に何が起きたか』 網野善彦 洋泉MC新書

 まるで網野史学の全体を俯瞰したような本で、入門書にちょうど良さそうな感じ。取り上げられているテーマは、著者の長年にわたる研究フィールドを網羅しているだけあって多種多彩。たとえば初期の著作である『無縁・公界・楽』(平凡社ライブラリー)から連綿とつづく、「市」「アジール」「境界」の話。そして「境界」についての研究から派生した、「河原者」など被差別民に関する考察。他にも、中世日本が「農民を中心とした産業構造をもつ封建社会だった」という定説を覆して、漁民や職能民、果ては「遊女」や「非人」まで巻き込んだ一種の「市場経済」が存在していた事について。さらには「悪党」が台頭していった様子や、鎌倉新仏教における「新しさ」と市場経済の関係性に、太鼓や梵鐘による「音」がもつ意味と「境界」とのつながりまで。細かなテーマを挙げていけばきりがない。原著は著者が2004年に亡くなってから2年後の2006年に出されており、氏が亡くなる前後の思い出を書いた保立道久氏の解説も、しみじみして何だか好い感じだった。
 冒頭にも述べたように本書は網野史学のエッセンスをまとめたような本なので、今回は細かな内容紹介をしても仕方ない。代わりに自分の控えを兼ねて、気づいたことについて「覚え」でも書いておこう。それでも氏の著作の雰囲気は分かると思うので、興味のある方は直接当たられるといいと思う。

 著者によると日本で使われる「公」という言葉には、西欧社会における「COMMON」とは少し違うイメージが付随する。後者(COMMON)は庶民や大衆というニュアンスを持つとともに、(本当の意味で)自立した個人が互いに関係をもつ世界――といった意味合いが含まれるのに対し、前者の「公」の場合には、国家(=歴史的には天皇や幕府)に代表される一種の「権威」といったイメージが強い。あくまでも庶民よりは上のステージの位置づけであって、中世の「市」や「アジール」とは異質で無縁なものという感じ。
 そして実はこのような(特に天皇による)「公」は、庶民同士の関係性の中にある自律的な「公」をひっくり返し天皇自らに吸収することで、成り立っているのだそうだ。わかりにくいけど、鵜飼の鵜匠みたいなイメージかな。これはいわゆる「お上」の概念についての、とても重要な指摘だと思う。
 次いでここからは個人的な推測。上記を踏まえ、日本で「COMMON」にあたるものは何だろうか。自分が思うに、それは「世間」なのではなかろうか。(ただし「世間」という言葉の持つ射程はCOMMONに比べてあまりにも短い。自らを中心とした地域社会に限定され、社会一般には届かないのが通例。)
 60年代ごろから進展した高度経済成長と都市化、そして核家族化などの社会変化は「公」と「私」の間をつなぐ「世間」を脆弱なものにしてしまった。それは結果的に、「公」に対して人々が持っていた対抗手段を奪ってきたと言えるのではないか。とすれば、最近の“ストリートの思想”や貧困デモなど若者の政治意識の高まりは、それに対する無意識の危機感から生まれた面も無きにしも非ずかも。

 また別の話。
 中世社会においては、「非人」と呼ばれた人々は、確かに一般人と区別されてはいたが、それは単に「天皇直轄である」という意味合いであって、畏怖はされども決して差別されていたわけではなかった。この呼称自体はその当時から使われていたが、差別的な意味合いは無く、彼ら自身も普通に用いていた。(「遊女」や「河原者」なども同様。貴族の出自を書いた文献にもごく当たり前に「遊女から生まれた」旨が書かれていた由。)
 ところが13世紀ごろから遊女が差別され始め、それとともに被差別民に関する記述も文献内に目立ち始める。それまでの畏怖が差別に転化する直接のきっかけは、著者によればどうやら後醍醐天皇の失脚らしい。それにより天皇の政治的な権威や支配力が落ち、生活の糧を得るためやむを得ず彼らの特殊技能であった「穢れ祓い(*)」を生業とすることになったのが契機であったようだ。(このあたり、正確な表現ではなく自分なりの要約なので、詳しくは原著にあたって頂きたい。)

   *…ちなみにここでいう「穢れ」とは、死や屠殺といった所謂「黒穢(こくえ)」と
     言われるものの事。話は違うが「赤穢(血の穢れ)」である女性の生理や出産など
     も、おそらく女性蔑視の原因のひとつではあるのだろう。

 ついでに言っておくと、少なくとも日本では9世紀ごろまでは、穢れの浄め(祓い)を特定の集団にさせることはなかったそうで、それどころかアイヌや琉球においては「穢れ」という概念そのものが存在しなかったとも。そうなると、「穢れ」自体も日本の伝統的な文化や価値観というよりは、過去の「ある種の政治的な意図」によるデマゴギーが定着したものに過ぎないような気も。さらに言えば「穢れ」という概念自体、どうやら西日本が発祥らしいし、なんだか貴族と武士のせめぎ合いに関係する、怪しげな謀略の気配が見えてくるようだ。ふうむ、興味深い。(なんて言ってしまうと不謹慎だろうか。)
 ちなみに鎌倉幕府(東国)は社会制度や文化的な面も、京を中心とした西国とは全く違っており、まるで別の「国家」と考えた方が良いという指摘もある。(日本は過去からひとつの国、というのは大きな認識不足。日本という概念自体が7世紀ごろに初めて西日本を中心に生まれたものであり、その後、東北や九州を侵略・征服することで列島の統一をはたしたということは、学校の歴史では教えていないが網野史学ではお馴染みのものだ。)
 閑話休題。今日の歴史学会では、先に述べた「穢れ」の概念と関連して差別の発生があったというのは、既に広く認知されている見解らしい。穢れを浄める仕事に携わる人々が「穢れ多し」とされて集落をつくり、周囲から疎外されるようになっていく構図はあまりに痛々しい。しかし人が考えた事ならば、同じように人によって変えていくことも出来るはず。現在のおかしなナショナリズムの高揚も同じことではなかろうか…なんて考えてみたり。

 網野善彦氏の著作はどれも自分にとって、目から鱗がポロポロと落ちるようで、読んでいて心地がいい。それまでの常識に挑戦するよう大胆な仮説に対して、学会における反発や批判も多かったようだが、門外漢からみればこちらの方がもっともな話に思えてくる。本当かどうかの検証は一介の素人には無理なので専門家に任せるとしても、少なくとも読んで面白いことは間違いない。まだ買いだめしてあるのが何冊か残っているので、気が向いたら愉しませてもらおう。(人はそれを積読本ともいう。/笑)
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No title

この本は、今日、書店で、
購入するか否か迷った挙句買い控えた本です。

網野氏の著作は、どの作品も本当に面白いです。

kappamama様

おお、それは奇遇ですね(笑)。

網野氏 お好きなんですか。
それは嬉しいですねー。

この本は色んなテーマがたくさん入っていて、
まるでお菓子の詰め合わせみたいで、
とても愉しかったです。

No title

たしかに、
網野氏の後期の作品は、職能民史から、海洋民史から詰め込みすぎというくらい詰め込んでありますよね。

初期の「無縁・公界・楽」の頃から一貫しているのは、非農業民へのまなざしになるのかもしれません。

「日本の歴史をよみなおす」
のなかにあった「百姓は農民のことではない」というフレーズには、やられました。

(名寄帳や検地帳からのデータ?)
総人口に対する百姓(と農民を同一と考えた統計)の人口比率から考えれば、当然かもしれませんが。

長くなってしまいましたが、また網野氏の著作を取り上げてくださるのを楽しみにしております。


kappamama様

まさに「百姓」とは「百の姓」ですものね。

もうひとつ網野氏の基本的な姿勢としては、
時の権力や制度から外れたある意味「自由」な、
そしてある意味「被差別的」である人々へ向ける、
強くて温かいまなざしではないかと思います。

さらにいえばアジールに代表されるように、
日本という枠を超えた汎地球的な見方も大きな魅力かと。

民俗学と同様に歴史学も広い視点で見た方が面白いですね。
ヨーロッパ歴史学の阿部謹也氏とウマが合うのも、
もっともという気がします。

網野氏は好きですから、
読んだらまた必ず感想を書きたくなると思います。
その時には、またお話できると好いですね。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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