『空の思想史 ― 原始仏教から日本近代へ』 立川武蔵 講談社学術文庫

 仏教思想の中核であり日本思想の根幹でもある「空(くう)」の思想についての概要をまとめた研究書。楽に読み進められる訳ではないが、多くの示唆に富んだ本である。この手の本は批評的にあたるのではなく、そのまま素直に読んでいくのが一番いい読み方だと思う。
 「○○史」の愉しみ方は2つあって、まず一つ目は時代や地域により「○○」の内容と変遷がどのようだったかを知ること。(今回の例でいえば、古代インドで生まれた「空の思想」が、中国やチベット、そして日本に伝えられる過程でどのように変わっていったか?ということ。)次に二つ目は今の視点でそれを評価した場合にはどうかを考えること。(つまり現代社会や自分の生き方について考える上で、「空の思想」が思考の道具としてどの程度有効か?ということ。)
良くある「○○史」では、前者がただ羅列してあるケースが多いが、この本では最終章で著者のスタンスが(簡単にではあるが)触れられているので、単なる知識の開陳に終わらずより満足できた。
 
 この後、本題である「空の思想」の話題にいく前に、違う点でも色々と参考になるところが多かったので、まずはそちらを先に書いておきたい。

 最初の話題。「仏教は宗教ではなく哲学である」という言葉を以前どこかで読んだか聞いたことがあったが、そう言われる理由がやっと理解できたということ。
 インドにおいては、仏教成立以前の時代から伝統的に「世界の認識のあり方」が宗教的な話題にされていたらしい。インドの古代宗教において特徴的だったのは、「基体」といういわば“モノそのもの”があり、そこに「属性」が加わって世界の現実が成り立っていると考えたこと。このためその後のインド仏教において龍樹(ナーガールジュナ)が「空(くう)」という概念を提唱してから後も、「基体」は存在するか?「属性」は存在するか?といった議論へとつながっていった。(これ以降の時代においては、まるでプラトンのイデア論やカントのような『認識論』が展開されていくことになる。)
 ただ先に結論をいうと、仏教はやはり「宗教(もしくは信仰)」あって一般的な意味での「哲学」ではないと思う。(もしくは東洋においては哲学と宗教の境が西洋ほど厳密でなく混然としているというべきか?)
 竹田青嗣が言うように、哲学というのは本来「正しいか/正しくないか?」という証明をするものではなく、「皆が同じ条件(テーブル)で聞いたときに納得できるか/できないか?」というものだと思う。誰もが納得できる主張であればスタンダードな思想として広まっていくし、納得できなければそこまでである。翻って仏教の「空の思想」では、ある人は“自性”というものが存在するという前提で論理を組み立て、別のある人は”自性”は無いという前提で以下の議論を繰り広げている。”自性”というもの自体があるかないか?という点には誰も踏み込んでいかない。いや正確に言うと”自性”の「在る/無い」についてそれぞれ何らかの論理で証明しようとはしているのだが、論理に無理があって納得が出来ない。そこを信じるところからその後の議論が進められるので、根本にあるのは「教えを信じること=宗教」ということになる。
 もっとも、根本の部分さえ受け入れてしまえば、その後の論理の進め方は筋が通っているのだけれど。(その点では、「ピンの先で何人の天使が踊れるか?」などという中世のキリスト教における議論よりはよほど有意義だし、信仰の対象が”神”ではなく”モノの本質”というところが「哲学」といえる。)

 次の話題。龍樹が「空の思想」を初めて記した書である『中観』は内容がとても難しいという話を聞いたが、その理由が何となく想像ついたということ。
 言うまでもないことだが、誰でも考え事をするときには何かの言語を使って考えている。つまり思考は話者の使役する言語によって規定されている。言い換えれば英語は英語に、日本語には日本語に独特の思考があって、両者はそもそも思考の種類が違うものだということ。抽象的な思考を行う場合はなおさらであり、所属言語に特有の影響や制約をより強く受けるだろう。つまりは話者が言語を使役するのでなく、逆に言語によって話者(の思考)が使役されているとも言える。
 仏教成立の時代、インドではサンスクリット語が話されていたため、先に挙げたような『認識論』を巡る極めて抽象的な議論も、当然サンスクリット語でなされている。その結果、「名詞の前に否定詞を付けることで、肯定文を全否定の文に変えてしまう」とか「西洋の三段論法とは違う古代インド独特の論法」とか、日本人にはなじみが薄いレトリック(修辞法)が駆使されることになる。というよりも、それらのレトリックと切り離しては成り立たない思考であるとさえいえるかも知れない。
 『中観』の原本を読んだわけではなく、あくまでもこの「空の思想史」に述べられている内容を読む限りではあるが、デリダとかドゥルーズのポストモダン思想が難しいのとある意味では同じなのかな?という気がする。

 本題前の最後の話題。世界宗教における基本スタンスの根本的な違いについてさらっと書いてあったが、今まで思いもしなかった事なので驚いたということ。
 仏教は「生」「老」「病」「死」という4つの苦しみから個人の精神的な救済を行うことを、その最重要課題としている。この“個人の救済”こそが全ての宗教に共通する目的なのだと当たり前のように思っていたが、実はイスラム教はそうではないのだという。“社会の律法を順守すること”こそが最重要視されているらしい。これはユダヤ教も同様で、社会を守ることで結果的に個人の心が平安になるべきということ。砂漠/荒地のように、個人が勝手なことをしていては部族全体が死に絶えるほど厳しい自然環境に生まれた宗教と、温かくて恵まれた(少なくとも食べるには困らない)自然環境に生まれた宗教では、自ずと基本スタンスが違ってくるのは言われてみれば当然。まるで梅棹忠夫の『文明の生態史観』(中公文庫)を読んだ時と同じように、著者の主張が抵抗なくストンと腑に落ちた。ちなみにキリスト教はどうかといえば、社会の律法を意識しながらも個人の救済を重要視した点で、当時のユダヤ教の中にあって画期的かつ脅威となった様子である。

 さて次はいよいよ本題の「空の思想」について。
 「空」とは何か?を一言でいってしまえば、「否定」ということになる。この世のモノがまとっている“属性”を否定して、次に“モノの存在そのもの”を否定して、最後にはそれらを想う“認識”まで否定して、ありとあらゆるもの全てが「仮」としてしまう。良い例になるかは分からないが、水を入れたビンに喩えて言えば、まず中身の水なんてものは無いと考え、それどころか外側のビン自体も実は仮に見えているだけと考える。そういった思考の操作が「空っぽ=空(くう)」ということ。龍樹が『中観』で初めて示したのは、言ってしまえばこのような思考実験としての「空」であったと思う。そして「空」と「仮」の調和を目指す処にこそ心の平安(=悟り)があるとして、それを「中道」と呼んだ。
 しかしその後の時代や地域による変遷を経て、「空の思想」は徐々に次のように変わっていく。すなわち「悟りの境地に至ってもそれは一瞬のこと。眼を開ければそこには厳然として現世が広がっている。それならば思考操作により全てを消し去るだけでは不十分で、その後に再び現世に戻った時にどう生きるかが大切ではないのか?」(ちなみに龍樹は全否定することで次のステップが開けるとだけ述べるにとどまり、その先を具体的にどうすべきかには触れていない。)
 この問いに対する答えを探して、後年多くの僧侶たちがインドの経典に直接あたって釈迦の教えをひも解くのであるが、サンスクリット語から中国語に翻訳する際に文意の捉え方によって様々な解釈が生まれた。そこから生まれたのが華厳や真言といった宗派の違いであったというくだりには納得。例として般若心経の解釈が載っているが、たしかに宗派によって解釈の仕方が全く違っている。それはどれを主語として捉えるか?という文法上の違いであり、結果として文意が全く変わるという面白いものであった。

 いままで読んだ本では、仏教理論の最終形態が真言密教であるという意見が多かったが、この著者も同じ見解のようである。(ちなみに南方熊楠も同意見。)それが何故なのか、この本を読んだことで何となく理解できるようになったと思う。
 「空」に至り全てを否定する思考の瞬間(=悟り)を目指すが、それはあくまでも一瞬。その後は再び森羅万象が立ち返り、現世に戻る過程が待っている。しかし一度「空」を経たことで、この世界は今までとは違う聖性を帯びる。それを独自の方法で表現したのが密教で最重要視される『曼荼羅(マンダラ)』である。
 この世の生けとし生けるもの全てが聖性を帯びる。ここに至って仏教はついに、神を必要としないで現世を肯定する思想へと変貌を遂げる。ありとあらゆるものへの感謝の気持ちであったり、道端にあるお地蔵さんに自然に手を合わせるような気持ちとでもいえば良いか。なぜ人を殺すことがいけないか?という倫理上の難問も、自然を大切にするというエコロジーの思想も全て、“神”という存在に依らずして全てここから始めることが可能になる。― いやむしろ、次のようなことか。
 キリスト教における神は「言葉(ロゴス)」である。言葉とその対象(実在物)は正確に呼応するが、「空の思想」においては言葉(属性)と対象物(基体)は呼応しないし、さらには実在そのものが存在しないとされる。これにより神は積極的に否定され、なお且つこの世の全てが肯定される。
 ・・・もしかすると、これはとんでもなく画期的なことではないのだろうか。

 キリスト教を礎にして西洋文明は現在の隆盛を得たが、同時に世界各地でおこる紛争など限界も露呈することとなった。対抗思想としてイスラム教との確執が最近とみに注目されているがどちらも所詮は同じ「経典の民」のひとつ、一神教という点では思想の根っこは同じだろうと思われる。様々な難問を抱えているこれからの21世紀、もしも世界を救える思想があるとすれば、それは仏教から生まれてくるものなのかもしれない。中沢新一ではないけれども、真剣にそんなことも考えてしまった。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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