『トポフィリア』 イーフー・トゥアン ちくま学芸文庫

 「現象学的な地理学(*)」の旗手によって書かれた、人間の空間認識と感情に関する一考察。ちなみに題名の「トポフィリア」というのは、「トポス(場所)」と「フィリア(愛好)」という2つの単語を合成した、著者による造語だ。
 アメリカの生物学者E・O・ウィルソンの著書『バイオフィリア』(ちくま学芸文庫)の題名も同様に「バイオ(生命)」と「フィリア(愛好)」の合成語であって、そちらは「生命と非生命を見分け、生物に対して関心や興味を抱く、生物特有の傾向」のことだった。てっきり本書も「なぜに人は砂漠の風景に心魅かれるのか?」といった、特定の場所への興味や偏愛についての考察と思って読み始めたのだが、ちょっと(いや大分)違った。(笑)
 原題が「トポフィリア ―環境に対する知覚・態度・価値についての研究」となっているように、著者がいうところの「トポフィリア」というのは、「環境に対する人間の情緒的な結びつき」という程度の意味。決して肯定的かつ積極的な関心の事では無い。「バイオフィリア」とはかなり意味合いが異なっていて、読み始めのころはかなり面喰った。空間認識に関わるありとあらゆる考察が、まるで“ごった煮”のように詰め込まれている感じ。
 最初は人間による空間認識の仕方について、現象学的な観点などから考察が行われていて、その後は徐々に色々な場所(空間)についての情緒のあり方へと話題が移る。ただし如何せん著者の文章は内容が分かり難い。『空間の経験』でもそうだったが、著者の本はどれも論旨がはっきりしないので、早急に結論を求める人にはちょっとストレスが溜まるかも。(^^;)
 ま、とりあえずは面白かったところを、かいつまんで紹介してみよう。

   *…1970年代の一時期に一世を風靡した学問ジャンル。「人間の主観を出発点として
     環境をとらえていこうとする地理学」なのだそうだ。

 まずは都市化の進展と、それにつれて大きくなる「田園」への想いについて。さしずめ日本ならば「田園」は「里山」にあたるだろう。都会の人々が漠然と抱く自然への郷愁とか憧れといったものだ。都市化が進んでいくにつれ、文学などで「田園」が徐々にクローズアップされていき、やがては理想の場所として結晶化する。しかしそれはあくまで都会の便利な生活を満喫していた人々に依るもの。決して本当の田舎暮らしをしたいわけではないだろう。このあたりは建築家のフランク・ロイド・ライトが理想とする「プレーリー(大平原)住宅」の理念にも重なる気がしないでもない。
 なお、トゥアンは更に「場所」の概念を拡張して、「国家」という概念も一種の「場所」として捉えているが、広範囲な「国家」というのは実態を伴なったものではなく、そのままナショナリズムに直結する恐れをはらんだ「抽象概念」に他ならないことを指摘しているのはさすが。では彼自身はどんな国家が良いと考えているのかというと、どうやらもっと小規模なもののようだ。ローカリティとか地域性とでもいうべきものか。
 結局のところ「場所に感じる情緒」であるトポフィリアとは、別に具体的な「場所」を対象にする必要はなくもっと抽象的なもののようだ。それは人間の頭の中に(だけ)浮かんだ指標や価値であって、二つの対象物(概念)が対比されることで初めて意識され得るものと著者はいう。
 なお、実は「田園」や「農場」といったものでは、「都市」の対立概念とするにはちょっと不足。究極的な対立概念(もしくは原理)は著者によれば「荒れ地」や「荒野」なのだそうで、「田園」や「農場」は単にそれらへと続く中間的な景観に過ぎないと揶揄されている。
 この「荒れ地」「荒野」というのは、西洋的な価値観の土台となるキリスト教的な視点でみた場合、エデンから追放された者たちが赴く場所のこと。当初は「試練」とか「悪魔」といった言葉に関連する、否定的なイメージだったはず。しかし都市化の進展とともに「世界と調和した至福の王国」という良いイメージが加わっていき、両義的なものへと変わっていったというわけだ。
 以上、本書の前半部分の結論をまとめると、「ある場所に感じる情緒」というのは、特定の時代や文化に属する人々によって重要視される概念が、自然環境の景観の評価へ反映されたものである ――というのが著者の見解のようだ。

 つづいて「第11章 理想都市と超越性の象徴」から後は、人工的な景観であるアメリカ国内の都市を中心にして、環境に対する人の意識についての考察。一部にはカルチュラル・スタディーズの「はしり」のようなところも見受けられる。先ほども述べたように著者は話題をきちんと整理して提示するのが苦手なようで、すっきりした結論は書かれていないのだが、とりあえず自分が読む限りでは、東洋と西洋における伝統的な都市感覚に違いがあるのは間違いないみたい。
 西洋では中心に「聖・善・高」といったものがあり、周縁に行くに従って「俗・悪・低」へと変わる同心円状の広がりが一般的だと思う。(例えば街の中央には教会があって、郊外に向かう程世俗的な街並みになっていく感じ。)比較して東洋の場合は、「方位(東西南北)」が重要な意味を持っていて、方形の碁盤目のような街づくりが基本。北の中央に皇帝が坐して南面し、それを基軸にして直角水平に街路が延びていく。(もちろんバリ島のように「高・聖(山)/低・悪(海)」と南北の方位が一致する地域もあったりして、多少のバリエーションはある。しかし概ね中国文明の影響を受けた地域では、どこも似たような感じの街づくりなのではないかな?)
 一方アメリカの場合、モータリゼーションの普及に伴う都市の大規模化によって、中心部のスラム化にともなう中流層の郊外への流出が起こり、ドーナツ化現象が顕著になっていった。(ちょうど本書が書かれた1974年当時は最も深刻な状況だった頃ではなかったかな?最近では再開発よる都市居住者の増加など、以前とはまた違った傾向も見え始めているようだが。)

 以上、感想も少しまとまりのない覚書きになってしまった。本書を全体としてみた場合、「トポフィリアについて書かれた本」というよりはむしろ、「本書自体がトポフィリア」又は「トポフィリアンである著者によって書かれた書物」と考えた方が良いのかもしれないね。全体を通してあれこれ論じるというよりは、個々の断片的な考察をその都度愉しめば良いのではないかな。

<追記>
 スラムなど下層の街では、住民が自分たちに都合の悪いことを「見なく」なる。そしてその結果、住んでいても悪い部分が全く気にならない。――という話などは、まるでチャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』(ハヤカワ文庫SF)の元ネタではないかと思ってしまった。(SF小説に興味のない方には、何の話かさっぱり分からない小ネタですいません。/笑)
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