『人間について』 ボーヴォワール 新潮文庫

 著者は実存主義の哲学者サルトルのパートナーで、フェミニズム論の古典と言われる『第二の性』を書いた人物。てっきりその手の観点から書かれた本なのだろうと思っていたのだが、読んでみたら全然違った。本書はジェンダーではなく、サルトルが得意とする実存哲学の視点で書かれた人間論。「自分」すなわち現実に生きている存在(=実存)が体験することこそが「世界」であるという、実存主義の見解を軸にして、人はどのように生きるべきかについて書いたもの。今ならさしずめ「自分探し」とでもいう感じか。
 ポストモダン思想の洗礼を受けた世代のひとりとしては、なんだか面映ゆいようなむず痒いような感じが何ともはや。(あ、自分が共感できるかどうか別として、真面目に考察した本なので好感は持てます。念のため。/笑)それにしても、この本の思想的な限界はそのままサルトルの思想の限界でもあったのだなー、なんて考えてみたりするのもなかなか興味深い。以下、本書で著者が述べていることの骨子について、簡単にまとめてみよう。(ただし自分流のかなり乱暴なまとめ方なので、多少ずれているところがあってもどうかご容赦を。)

 ■単独で成り立っている「自分」というものは存在しない。誰しも周囲(他人)との関係性
  によって逆照射され、初めて「自分」を作り出すことが出来る。
 ■「他人」という存在は自分から見ると、(自分の言う通りに出来ないという意味で)
  「絶対的」でありすなわち「完全無欠」な存在に等しいといえる。「自分」は「他人」
  が欲する事との関係性によって、初めて自分の要求が何かを知ることが出来る。
 ■極言すれば「自分」は「他人」の要求の実現に奉仕することでしか、自分の理想を突き
  詰めることは出来ない。ただし、それ(他人の要求を実現すること)を自分が心から
  欲する限りにおいてである。
 ■あくまでも「自分」の決断は「他人」によって強制されたものではなく、すべて自分の
  自由意思によるものである。(それが本来の意味での「自由」ということ。)
 ■しかし何でもかんでも自分の自由意思(自由)によるものであっては、周囲との関係性は
  意味をなさず、冒頭の話に逆戻りしてしまう。従って、「他人」への奉仕と「自分」の
  「自由」との両極端をいったりきたりして、そのつど決断していくのが人間である。
 ■それでは「決断」は何に対して行うべきなのか? それは「計画(目標)」に対して。
  先の前提に立てば「計画」は「自分」の為ではなく、あくまで「他人」の為に立てられる
  ものであるはず。しかしそれを突き詰めると、対象が際限なく広がっていき、全人類の
  ための「計画」になってしまうのでやはり無意味。(かといって「自分」ひとりの為に
  立てる「計画」では、何のための計画か判らない。)結局ここでも行ったり来たりが始ま
  ってしまう。
 ■この矛盾を矛盾のまま引き受けるのが人間であり、世界を生きていく道なのだ。

 ざっとこんな感じだが、どうだろう。かなりよく考えられているとは思うのだけれど、自分にしてみると何だか煮え切らない感じが残る。いちばん引っかかるのは、自分自身が本書に書かれているように感じながら生きてきた事は無いという点。(そういってしまうと実もふたもないが。/苦笑)
 哲学は客観的な検証ができない学問だけに、納得感が得られるかどうかが生命線といえる。だからこそ納得感がない主張は、詭弁のような気がしてきてしまうのダ。

 とはいいながらも、あちこちの章で繰り広げられる考察には結構面白いものも。たとえば上に書いたように「他人(つまり世界)」との関係性でしか自分は存在し得ないという考え方は、裏返せば自分が世界そのものであると言っているに等しいとも言える。これは唯我論というか青臭いというか、今で言うところの所謂「中二病」にも通じるものが。(笑)
 また、神についての次のような考察もなかなか好かった。「神が存在するのであれば、それは完璧な存在であるはず。完璧であるが故に、この世のあらゆるものが神にとって何らかの意味あるものといえる。従って人間がどんな事をしようが、それは全て神の意思にかなったことと言える。」
 ここから人間の「自由」についての考察へと繋がっていくのだが、これはつまり神なんていようがいまいが結果は同じといっているに等しいのではないかな。こんな由無し事をつらつらと考えながら、およそ150ページの小冊子、最後まで愉しく読み終えることができた。

<追記>
 蛇足になるが折角の機会なので、冒頭で少し触れた「自分探し」について、普段思っている事を書きとめておきたい。
 「自分探し」という言葉を聞くと、いつも「なんだかなあ」と思ってしまう。自分を幾らさがしたって何も見つからないだろうに、と。「自分」というものは玉ネギやラッキョウと同じであって、皮を剥いていくと最後には何も残らない。つまり果物の芯のごとき、確固とした「自分」などというものは元から存在しないのではなかろうか―― そんな気がしている。
 それでは芯も無いのに人はどうやって「自分」を作り上げていくというのか。それは小さな子供が初めて立ちあがる時と同じ。子供はまず最初に身近なもの(例えばテーブルなど)につかまり、それを支えにして立ちあがるはず。同様に「自分」の芯を作る時にも、まずは身近な考え方や価値観に寄りかかり(自分を投影し)、それを規範とすることで「自分」というものを作り上げるのではなかろうか。(それは父親や母親であったり、スポーツ選手でもマンガの主人公でも、何でも構わない。)また、成長につれて自己投影する対象は変わったり増えていき、それによって複雑で高度な自己を作り上げていくのだ。
 ところでマーケティング手法には心理学の「ペルソナ(仮面)」を応用した「ペルソナマーケティング」というものがある。まさに人という存在は「○○としての自分」という仮面をいくつも持っていて、場面に応じて様々な社会的役割(仮面)を付け替えることで「自分」を演じていると言って良い。こうして考えてみると、極論すれば「自分(自我)」というもの自体が、デカルトによって作り出され、その後の西洋で流布されてきた単なる“神話”もしくは方便に過ぎないとも言えるのではなかろうか。(*)

   *…実はこのあたりのテーマはSFが結構得意とするところだ。例えばJ・ヴァンスと
     いう作家が書いた『月の蛾』という中篇などまさにそう。他にもB・J・ベイリー
     の長篇『カエアンの聖衣』や、日本人では伊藤計劃の『ハーモニー』にも同じよう
     なアイデアが取り上げられている。探せばまだまだ沢山ありそう。

 そんな中でも、誰もがいちばん早く身につけることが出来、その後の自己を作り上げる上でもっとも強力な拠り所になるのが「男(もしくは女)としての自分」、すなわち性差/ジェンダーだといえるだろう。(だからこそ性同一性障碍というのは、極めて深刻なアイデンティティの阻害要因になるのだとも。)
 全てを抱擁して受け入れる優しい存在の“母性”と、全てを厳しく分割するとともに脅威から家族を守る強い存在の“父性”。これらふたつのイメージのいずれかに自分を同一化することで、子供は最初の自我を作り上げていくのではないか。そしてそれを核にして、まるで雪玉を大きくするように「日本人という自分」や「社会の成員としての自分」、もしくは上司であり部下である「中間管理職という自分」や、親や子供あるいは妻と夫といった「家族の一員としての自分」を積み重ねていくことで、人は自我を形成していくのだ。
 そう考えると「自分」というのは唯一つの確固としたものではなく、それら様々な価値観の総体と考えるのが自然ではなかろうか。つまり決して自分の内側を見つめ続ける事で見つけられる類のものではないのだ。外との繋がりも無いのに確固とした自分を持てる筈もなく、もしもそんなものを持っていると主張する人がいたらそれは単なる妄想に過ぎないはず。(でなければ神にも等しいほどの天才か。)つまり「自分」とは「自分探し」をするのを止めて世界と対峙した時に初めて現れてくるものなんじゃないだろうか。

<追記2>
 蛇足ついでに。
 社会は様々な価値観がモザイクのように組み合わさり、時に応じて組み換えられて出来あがる織物のようなもの。だとすれば「汝が良いと思う事を(人に)成せ」というキリスト教的な考えは、自分の価値観(のみ)を正統化して他者に強制することに繋がるわけで、正直いうとちょっと虫が好かない。自分にとってはそれよりも「自分がされて嫌な事は人にするな」という仏教的な価値観の方が、よほど楽に構えることが出来る。
 西洋的な「自我」のぶつかり合いではなく、東洋的な「自然」との一体 ――すなわち周囲との関係で自然に浮かび上がってくる「受動的な自我(?)」とでもいうものの方に魅かれてしまうのは、自分が東洋に生まれ育ったからなのだろうか。たったひとつの貧弱な自我にしがみつくよりも、色んな「自分」を場面に応じて置き換えることが出来るなら、その方がよほど気持ちよく人生を生きていける気がするな。ねえ、ボーヴォワールさん?

 実存主義に始まって、最後はなんだか変な話になってしまった。(笑)
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No title

こんばんは。
実存主義、昔にかなりちゃんと勉強したことがあります。哲学系の授業を多く履修していたので。
確かに、結局「矛盾を抱えたまま生きろ」とかで終わるんですよね。笑
いや、考え方、手法が大事なのは分かっていますし、明らかな答えを求めているわけでもないのですが。主観を押し進めて行くから、もうついてなんかいけない、と思うことも。笑

それでも、やっぱり哲学問答はおもしろいモノですね。

No title

こんばんは。

最近、「ペルソナ(仮面)」に関する書籍を読んだので
とても興味深く、参考になりました。
また「自分探し」についてのことも
わたしも同じようなことを思っていたので
なんだか嬉しくなりました(^^)。

慧さま

こんばんは。
そうですか、実存主義を勉強されたんですね。

私は独学なんですけど、現象学からはいってハイデガーまでは良いとして、サルトルまでいくと「ちょっと違うかなー?」という気になってきますw。
(あ、それと原書を読んだわけではなくて、ヘタレなので解説書を齧った程度です。念のため。)

学生の頃は「西洋哲学かっこいいなー」とか思っていたんですが、最近はなんとなく東洋の方がしっくりくる気がするのは、やはり年をとったせいなんでしょうか(苦笑)。

いずれにしても、哲学は面白いですよね。
私も大好きです(^^)。

みどりのほし様

こんばんは。ようこそいらっしゃいませ(^^)。

自己実現の可能性を探るという点では、哲学も心理学も似たところがある気がしますね。
特に実存主義とユング心理学は親和性が高い気が...。(でも素人があまり変な事と書くと、詳しい人に怒られちゃうかな?/笑)

それと「ペルソナ」の話しについては、実は自分の実体験がかなり基になっています。客先とのやりとりをする時なんかは、とっても重宝してますよー。本当は割としゃべり下手なんですけど、ここぞというときには仮面をつけて豹変してます(笑)。

Existentalism

私も以前から、
「自分探し」という言葉はヘンだなぁとおもっていました。
その「自分探し」をしている自分は自分ではないのか?という疑問が。

人はどうやって「自分」を作り上げていくというのか。 ~中略~ 同様に「自分」の芯を作る時にも、まずは身近な考え方や価値観に寄りかかり(自分を投影し)、それを規範とすることで「自分」というものを作り上げるのではなかろうか。

この言葉は、サルトルlの「実存は本質に先立つ」みたいですね。
また、社会学の「役割期待」の内面化みたいでもあります。

まさに人という存在は「○○としての自分」という仮面をいくつも持っていて、場面に応じて様々な社会的役割(仮面)を付け替えることで「自分」を演じていると言って良い。こうして考えてみると、極論すれば「自分(自我)」というもの自体が、デカルトによって作り出され、その後の西洋で流布されてきた単なる“神話”もしくは方便に過ぎないとも言えるのではなかろうか。

哲学の大半は方便ですね。

ユングのペルソナ
役割期待や社会的規範に応じて仮面を付け替えるという意味なのでしょうか?

舞狂小鬼さんの記事は、毎回、知的好奇心を刺激されます。

kappamama様

どうも今晩は。

お褒めにあずかり光栄です。
(思い付きばかりで何だかお恥ずかしい限りですがw)

ペルソナは直接的にユングという訳ではないんです。
アニマ、アニムス、シャドーといったアーキタイプ/原型が組み合わさり(統合されて)ひとつの人格が出来上がると唱えたところが、
ペルソナに繋がって行くところがあるかなあと。(^^)

ペルソナと役割期待はまさに同じ概念ですよね。

わたしは人を幸せにする方便は大好きですので、
哲学も大好きです。あれこれ考えるのは面白いですしねー。

No title

そうでしたか。

恥ずかしながら、ユングに関しては、
秋山さと子さんの「ユングの心理学」しか読んだことがないものでして、
ユングのペルソナの概念と書かれていたような気がしたのですが、思い違いだったかもしれません。

ユングの思想は、
グレートマザー、オールドワイズマンなどの元型もありましたね。
プシュケーとアニマを同義語として扱っているところもおもしろかったです。

kappamama様

こんにちは。久々にブログに復帰いたしました。
ご返事が遅れましてすいません。

色んな本を読むことの愉しみの一つとして、
予想もしなかった話題や知識が、
自分の頭の中で突然に繋がるというのもありますよね。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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