『民族とナショナリズム』 アーネスト・ゲルナー 岩波書店

 ※今回は長いです。申し訳ない(^^;)。

 ナショナリズム研究の“基本文献”として、B・アンダーソン著『想像の共同体』と並び称される本なのだそうだ。『想像の共同体.』は目からウロコが何枚も落ちるほど面白かったので、本書も期待して買ってきた。アンダーソンは政治学者なので、その著作も社会学的な観点からのアプローチ。対して本書の著者ゲルナーは哲学者なので、もっと哲学的な考察が色濃いものになっている。(かと言って、危惧していたようにそれ程とっつき難いわけではなく、論旨も明快なので読み易かった。)
 繰り返すが著者の専攻は歴史学や考古学とは違って哲学。なので、本書においても具体的な文献や事物に基づいて、厳密な検証を行っている訳ではない。書かれているのはあくまでも思索であり仮説にすぎない。そこが弱いと言えば弱いのだが、しかしその分自由度が高い考察がなされていて(なんせ著者は思索のプロ/笑)、いろいろな示唆に富んでいるともいえる。まあこの手の本は各人が読んでみて、それなりに腑に落ちるところがあればそれで良いのではないかな。少なくとも自分はかなり納得がいった。
 ということで早速本書の紹介に入ろうと思うのだが、まずその前に理解を深めるため、『想像の共同体』のおさらいをしておきたい。(2010年10月9日に記事をアップしているので興味のある方はそちらもどうぞ。)

 アンダーソンが『想像の共同体』で書いていた事をざっとまとめると、次のようなことになると思う。
 ■「国家」や「国民」という概念は、様々な理由があって作り出された架空の概念であり、
  「ナショナリティ(国民としての帰属意識)」とは、ある規模をもった集団が、自分たち
  の団結を促すために作り上げた思想的な枠組みである。
 ■ナショナリズムは、発生のメカニズム(きっかけ)によって2種類に分けられる。ひとつ
  は民衆運動から生まれた「民衆ナショナリズム」というもので、もうひとつは政府が大衆
  を煽ることで生み出された「公定ナショナリズム」。
 ■世界で最初のナショナリズムが生まれたのは南米。植民地生まれの白人(クレオール)達
  によって、ヨーロッパ本国からの独立のために作り出された。(民衆ナショナリズム)
 ■次にナショナリズムが起こったのはヨーロッパ。南米の独立運動に伴うナショナリズムの
  高まりを受け、ヨーロッパでも民衆の間で国民運動が盛んになった。危機感を覚えた支配
  階級は、自分らに都合の良い体制を残そうと画策し、当時の政治的枠組みを残す形のナシ
  ョナリズム運動を煽った。(公定ナショナリズム)
 ■その後、ヨーロッパ列強がアジア進出を果たすとともに、アジア地区でも雨後のタケノコ
  のように様々な形のナショナリズム運動が乱立した。
 ■いちど生まれた概念は自己強化を図るもの。ナショナリズムも例外ではなく、「国家」や
  「国民」という概念があたかも遥か昔から存在したようなふりをして、それぞれのナショ
  ナリティを強固なものにしつつ現在に至る。(実際には18世紀末に作り出された、歴史の
  浅い概念に過ぎないのだが。)

 『想像の共同体』における論理はとても明晰であり、ナショナリズムが「どのようにして(How)」生まれたかを、歴史分析によって見事に浮かび上がらせている。ただしナショナリズムが「なぜ(Why)」生まれたのか、つまり発生の(仕組みではなく)根本原因については、割とあっさり流していたような記憶がある。
 『民族とナショナリズム』が力を入れているのはまさにその部分。本書が追求するのは「なぜ人はナショナリズム運動を求めずにはいられないのか?」という“Why”であって、その分“How”については若干考察が甘い感じがしないでもない。つまりこの2冊は互いに補完しあうような関係にあるといえ、両者を合わせて読むことで、現在でも国際社会を席巻するナショナリズムというモンスターについて、さらに理解が深められる気がする。さて前置きはこのくらいにして、いよいよ本書の中身について紹介を。

 著者によれば、ナショナリズムの定義は「民族的な単位(国家)と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する、一つの政治的原理」なのだそう。他者によってこの政治的原理が侵されると、過激な反対運動を惹き起こすある種の「怒りの感情」が生みだされるわけだが、その成立には「国家」と「民族」という概念の成立が前提(必要条件)になる。それでは「国家」や「民族」をかけがえのないものとする価値観は、何に起因するのか?
 「国家」「民族」という概念自体は、近代社会ではどの国にも存在するものであって、別に特殊なものではない。“それだけ”ではナショナリズムが起こるきっかけ(十分条件)に成り得ないとすれば、他に一体何が必要なのか? 本書を愉しむポイントは、まさにその謎とき部分にあるといえるだろう。
 もったいぶらずに先に言ってしまえば、「あるひとつの社会において「社会文化」と「社会制度」がある条件を満たした時、ナショナリズムが発生する」というのが本書の結論。条件の組み合わせは幾つかあり、一例を挙げてみると――
 一部のエリート階層と一般階級(庶民)が社会的・文化的に分断されている国において、読み書きの技能が教育によって一般階級にも浸透したとき、且つ庶民の間に「自分たちが虐げられている」という認識が生じた場合、彼らは互いの結束を強めてエリート階級に抗うため、所属するグループを何らかの固有な特徴(民族や言語や文化など)でもって定義づけようとする。それがナショナリズムの核になる。(要するに、「抽象的で統一的な価値観が広い社会に浸透し、且つある階級が不満を持った時」というのがナショナリズム発生条件の一つという感じ。)

 分かり難いかな。もう少し補足しよう。
「抽象的で統一的な価値観」というのは、例えば「我々は同じドイツ語を話す集団だ」とか、「同じ日出国(ひいづるくに)に生まれた者たちの子孫だ」とかいうものがそう。このように抽象的で普遍的な概念は、教育制度が発達して誰もが均一な高等教育を受けられるようにならないと、多くの人による支持を得る事が出来ない。。したがって前近代の農耕社会などにおいては、ナショナリズムは起こり得ないことになる。(農耕社会では村々など小さな集団が分断され互いに反目しあっており、知識の共有よりはむしろ知識の秘匿が推奨されていた由。)
 ところが社会が農耕中心の社会から、蒸気機関の発明などを経て産業中心の社会に移行すると、産業の永続的な成長を実現する為に、職業や仕組みの変化(*)が意図的に行われるようになる。なぜなら産業社会においては一生をかけて親方の下で修行するといった形態ではなく、様々な職業に就くことが出来る一定レベルの基礎教養と、それによる人々の流動化が必要とされるから。そこで社会の成員に対して教育・訓練が一律に実施され、ある種の“レベルの均一化”が図られることになる。(それに伴って労働の形態も、肉体労働から読み書きを基本とした頭脳労働へと変化を遂げていく。)

   *…ふと思ったのだが、これってレヴィ=ストロースの言うところの「冷たい社会」
     から「熱い社会」への位相変化に近い気がするね。農耕社会=安定的、産業社会
     =流動的という意味で。

 更に言えば、このように均一かつ効率的な教育を社会の成員全員に施すことが出来るのは、「国家」という仕組みを置いて他には無い。故に“同一文化(=成員の皆がその中で呼吸し/話し/生産出来る文化)”であることと、それを供給できる“国家という組織”が一体化し、これすなわちナショナリズムの誕生に繋がっていくというわけだ。以上が本書で著者の主張するところの、ナショナリズム発生の大まかなメカニズムということになる。(**)

  **…ただし実をいうと、このあたりについては少し引っかかりが無いわけでもない。
     「大規模かつ均一的な高度文化教育」というのは確かに“公共サービス”の一種
     ではあるわけだが、それって「国家」という単位でなければ本当に実現できない
     ものなのだろうか。たとえば江戸時代の寺子屋は幕藩体制によって体系立てて運営
     されたものではないと思うが…。国家なくして同じような状況が生まれている社会
     は本当にこれまで存在していないのだろうかね。ちょっと疑問。

 閑話休題。これまで詳しく触れなかったが、本書によれば、ナショナリズムが発生するためには、「社会文化」と「社会制度」が満たすべき“ある条件”が必要だと先ほど述べた。ここからは、それについてもう少し触れておきたい。
 その考察が為されているのは本書の第7章。そこではナショナリズムの類型(モデル)を考える上で不可欠な3つの要素(因子)と、その組み合わせによって導き出せる8つの社会モデルについて考察が為されている。
 モデル考察に不可欠な要素とは「権力の集中の有/無」「高等教育の実施の有/無」に「文化的な同一性/多様性」の3つ。それぞれの要素において、「有り」「無し」2つの条件を掛け合わせると組み合わせは2の3乗となり、全部で8つの社会モデルが考えられるというわけ。著者によればそのうち3つの社会モデルこそ、ナショナリズム発生の可能性があるのだそう。以下、順に説明していこう。
 ひとつ目は『ハプスブルグ家(そしてその東と西の突端)のナショナリズム』と名付けられたモデル。支配者層(貴族諸侯)と被支配者層(一般民衆)という2つの社会層のいずれか片方に権力と教育が集中し、そうして誕生した「もつ者」と「もたざる者」が互いに異なる文化に属する場合だ。
 ふたつ目は『古典的でリベラルな西欧のナショナリズム』と呼ばれるモデル。高等教育の機会は2つの社会層に対して平等に与えられているが、権力は一方(支配者層)に集中しており、それぞれが異なる文化を持っている場合がそれに当たる。19世紀イタリアやドイツでおこったナショナリズムのパターン(***)なのだそうが、今の日本におけるワーキングプアの人々の“怒り”に繋がるものがあるかも。
 そして三つ目は『ディアスポラ・ナショナリズム』と名付けられたモデル。支配者層は旧態依然とした古い教育制度にどっぷりと浸り、非支配層がむしろ新しい教育の洗礼を受けている状態で、それらが異なる文化に属している場合だそうだ。これは日本の開国前夜の状況に似ているといえるかな? 無能な支配者に対する民衆の怒りは頂点に達し、社会的には末期的な状態と言えるかもしれない。

 ***…これがイタリアとドイツというのがどうも引っかかる。この手のナショナリズムは
     ファシズムにつながりやすいという事はないのだろうか。もしそうだとすれば、
     社会に対する民衆の絶望感からくるものか、それとも元々がファシズムに転じ易い
     特性をもっているのか、とても気になる。昨今の東京都や大阪市の状況を見ている
     と、単に「衆愚政治」というだけでは済まされない何かがあるような感じも。

 さて、このような社会モデルのひとつにおいて、ある固有の文化を共有する人々によって、彼らと同様の文化を共有する人々との統合が望まれた時、集団は巨大化するとともに先鋭化して政治体と化していき、やがてナショナリズム運動へと変貌を遂げる。そのような政治体は自分らの文化が及ぶ限りの範囲まで境界を伸ばそうと画策し、やがては自分たちの文化を権力によって保護・強制しようとする意思が働きだす。政治体と文化が完全に一体化するとそれは「規範」となり、過去に遡って“民族”の伝統や誇りや歴史が捏造・強化されていく。(この辺りの話については『想像の共同体』が詳しい。)我が国の場合を例にとって具体的に説明してみよう。
 高度成長期を経験した日本ではもはや「兎追いしかの山」や「小鮒釣りしかの川」が消滅し、今では日本中どこに行っても“ミニ東京”と化した地方都市があるだけ。故郷(ふるさと)はもはや人々の思い出の中の風景になってしまった。――そうなると、失うまでは(空気みたいに)ことさら意識などしなかった過去の文化や出自に対して、人々が自らのアイデンティティの拠り所を求めようとする意思がはたらきだす。もしも故郷の喪失によって疎外感を感じている人々が存在し、彼らが団結を始めるとき、「ナショナリズム」の萌芽が見えるというわけだ。原発事故で故郷を失った福島の人々や、基地問題で苦汁をなめる沖縄の人々などが自らの団結を意識し出したら、それはナショナリズムの始まりといえるのかも知れない。(とすれば、一概に「ナショナリズム=悪」とは言えない難しさがあるわけで、このあたりは非常に難しい問題だなあ。)
 このストーリーが示すのは、「ナショナリズムが標榜するものは虚構に過ぎないものの、それが生みだされるに至った根本原因はホンモノでありとても根深い」ということ。高度な学校教育が広く普及して初めてナショナリズムの欺瞞が可能になるというのは、なんだかとっても皮肉だなあ。ツイッターやメールが災害時の強い味方であると同時にデマ拡散装置でもあるというのと同じで、何事にも光と影があるということなのかも。

 なお、ナショナリズムに結びつき易い社会特性として「民族」というのがあるが、著者はそれについても考察を加えている。著者によれば「民族性」を形作るキーワードは「意思と文化」とのこと。「意思」というのは、自分たちの選択(意思)によって、ひとつの共同体を存続させようとすることだそうだ。一体感や連帯感、または常識(コモンセンスつまり”共通認識“と言った方が良いか?)などを基にして、絶えず自らを再確認する自発的な行為が「民族性」の正体というわけ。W杯や五輪における国歌斉唱を考えるとイメージが浮かびやすいだろう。(なお「文化」は言語や昔から続いてきた風習など後天的なものなのでまだマシだが、これが「人種」とか「宗教」による差異と結びついてしまうと、ことは深刻さを増すことになる。)
 ナショナリズムに関する自分の最も大きな疑問は、なぜにこれほどまでに他者・他文化に対して非寛容を示すのかということ。それを解き明かすには、もっと貧困やルサンチマンに関する哲学的な掘り下げが必要となる気がする。暴力を巡る一連の思想を分析すれば何か見えてくるのだろうか。(ルネ・ジラールとかジュリア・クリステヴァとか読まなきゃいけないのかな? うーん、なかなかヘビーな取り組みになりそうだな。)
 とりあえず大切なのは、他者の否定につながる「負のナショナリズム」の発生を食い止める手段について考えることではないかという気がする。「民族」(ナショナリズム)でなく別の形で結晶化させることが可能なら、テロやホロコーストは起こらないのではなかろうか。そんな事を夢想してしまった。
 してみるとイスラム原理主義によるテロを無くすには、ブッシュのように軍事力で押さえつけるのでなく、アラブ諸国の社会格差をなくして貧困層を救済するのが良いという話は、とても正しい気がしてくる。ナショナリズムはルサンチマン(=もたざる者の妬み)から起こるのだ。
 地球上には数えきれないほどの多様性をもった人々が住んでいる。グローバルとは決してそれらをひとつのカラーで埋め尽くそうとすることではなく、本来ローカリティの集合体であるべきだろう。日本文化も他の文化と全く同じレベルで見つめる視点こそ、わが国でも今まさに広がりつつあるナショナリズムに対する、もっとも効果的な処方箋なのかもしれない。

 本書の話にもどろう。面白かった点がひとつある。それは「資本や富の所有」というのは、(マルクス主義が主張するように)ナショナリズムの発生要因ではないという点。著者によれば、ナショナリズムの元である疎外感や反発心をおこす「両極化」の原因は、富の集中ではないそう。本書でもその点については考察から意図的に外してあるとのこと。
 ゲルナーがそのように考えた理由は実は良く分からなかったが、たとえばアメリカンドリームなんかを考えてみるといいかもしれない。「もしもその人に能力さえあれば、誰にでも成功のチャンスは与えられている」という言説が、(それが真実かどうかとは関係なく)とにかく社会的に信じられている限りにおいては、人々の意識は”競争”へと向かうことはあっても”共闘”へ向かう事はないはずだ。富は確かに社会的に成功した集団にあつまる傾向があるけれど、必ずしもその集団(だけ)に固有のものではないといえるものね。
 それより気になるのは、(最初に挙げた例のように)高水準で包括的な教育を受けた「ある種の集団」に固有の性質が、彼らに対する社会的な差別や富裕/貧困の違いによるルサンチマンと結びついた時に、ナショナリズムが発生するというモデルについて。
 もしそれが正しいとすれば、学校で国語(日本語)教育や社会(歴史や地理)の教育を施すこと自体に、ナショナリズムの一番深い根っこがあることになる。政府や行政が推し進める「グローバル社会における日本のあるべき姿」などという教育は、かえって強固なナショナリティを作り出す原因を作ることになりかねないのでは。
たとえば植物でも野生種と栽培種が異なるように、ことによると「自然発生的な」(ローカルな)文化と、教育によって画一的な価値観の形成を目指して意図的に「栽培された」文化では、大きな違いがあるのかもしれない。知らず知らずのうちにナショナリズムを生み出す土壌を耕しているような事にならなければいいのだが。

 さらにひとつ。先ほども述べたように、ナショナリズムが生まれるもうひとつ重要な条件には「(潜在的な)社会の流動化」というのがある。これを保つには匿名的で個人主義的ないわゆる「大衆文化」というのが、社会文化の主流であり続けることが必要となる。そういった意味でも、ナショナリズムというのはまさに近代社会が生み出した「鬼子」であるといえるのかも知れない。
 もしそれが本当であるとすれば、中国の「蟻族」や日本におけるロスジェネ世代のワーキングプアといった、現在世界各地で進行している“もたざる高学歴貧困層”の出現は、新たな「ナショナリズム」を生み出す可能性があるということになるだろう。事実、雨宮処凛らのスタンスはそれに近い気がしないでもない。まあ、中国や日本という「国家」からの独立運動にまで発展することは無いと思うけど...。(そういえば井上ひさし『吉里吉里人』はまさにそんな話だった。)
 本書の結論をそのまま受け取るなら、高等教育を受け、且つ社会のマジョリティ(多数派)とは異なる文化・習慣をもつ者が虐げられた時、ナショナリズムの発生は不可避ということになってしまうが、決してそんなことはないと信じたい。もしかして違っているかもしれないが、おそらく条件が「権力」「教育」「文化」の3つでは足りない事になってしまうのであるまいか。本書の中にも同じような事を述べている箇所があったのだが、ここらへんの理屈は正直いって良く分からなかった。理解不足を実感したが、そろそろ頭が限界なのでそれ以上の突っ込みは止めておきたい。(笑)

 長くなったのでそろそろ最後にしよう。個人的には本書で一番気に入ったのは第8章の「ナショナリズムの将来」。もしも産業化が進んで2つのグループにおける生活水準の格差がなくなっていったら、もしくはある絶対水準を超えて充足感が得られるようになったとしたら、果たしてナショナリズムは消滅することになるか否か? 著者は執筆当時の世界情勢などをもってして、考え得る限りの「外挿法(Extrapolation)」による推測を行っている。
 そしてその結果、いずれにせよ何かが起こるとすればナショナリズム以外の何かであろう、と結論付けた著者の意見はおそらく正しいと思う。それをゲルナー自身は「貧しい者のインターナショナルな連帯」かも知れないと述べているが、これはその後A・ネグリらによって『<帝国>』と『マルチチュード』にまとめられた概念に他ならない。また、ここ十年余りの間に起こったイスラム金融の急速な台頭も、西洋的な思考の枠組みでは納めきれない、(つまり単なる「権力」「教育」「文化」の違いでは説明がつかない)別次元に起因する出来事であるような気がする。うーん、奥が深いよなあ。

<追記>
 ふと思いついたのだが、ナショナリズムというのは2つのグループ間にできた“気圧“の差により生み出された突風もしくは台風のようなものなのかも。巨大な力でもって吹き荒れて、周囲に大きな被害をもたらす点などもそっくり。たとえ発生原理は判っても、人間の力で止めることは出来ないというところも似ている。ある社会の間に差ができる限りは世界のそこらじゅうに発生の芽があるといえるし、それが大きく育つのをを食い止めるのは至難の業なのかも知れない。
 せめて「自らを守らんとして他者を相対的に貶める」といった安易な道に走らないよう、自戒していきたいもの。まさに「強くなければ優しくなれない」というのは至言だよなあ。
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