『群衆 -機械の中の難民-』 松山巌 中公文庫

 読む前は、群衆というものの定義、存在そのものが何か?を探求するのが狙いの本だと思っていたが、全く違っていた。日本の近代史において時折出現する「群衆」という存在を足がかりにして、日本という国の住民が辿ってきた「時代」を探求しようとするものだった。
 しかもその視点がうまい。時代を切るために著者が選んだ切り口は二つあって、まず一つ目は“日比谷焼打ち事件”や“米騒動”など歴史的に有名な暴動事件。ちなみに“大衆”ではなく“群衆”としたところがミソで、生活や価値観という文化的な装飾をまとった“大衆”ではなく、ひとりひとりの区別なく没個性であることが強調された“群衆”という言葉を選んだことは、当時の世相・文化・立場の違いなどを超えた生存そのものを捉えることで時代を逆照射しようとしている意図の現れだろう(このあたりハイデッガーなど、実存主義の視点に近い)。そして“群衆”すなわち「人間」という存在そのものが、ナマに出現する瞬間が暴動であるとする著者の考えはおそらく正しい。人々が市民としてのペルソナを投げ捨てて暴動を起こす/起こさざるを得なかった、社会の状況を描写して、まずは外側からのアプローチとしている。
 そして二つ目の切り口はその当時の文学作品およびその作者である。夏目漱石の『坊っちゃん』にはじまり、当時の人々の心の内面を活写するのに最適な素材を、その都度見つけ出していて興味が尽きない。これを狂言回しとして内側からのアプローチを行っている。また余禄としては、むかし痛快で愉快な物語として『坊っちゃん』を読んだ時に感じた妙な違和感が何に起因していたのか、今になってやっと理解できた。赴任先の学校での態度は痛快というより投げやり、ラストも潔いというより寂しい印象を持ったのだが、ある意味、間違いではなかった。
 それはともかくとして、この本としては夢野久作と大杉栄のくだりこそが白眉だろう。大杉栄というアナキストがこれほど面白いキャラクターだとは知らなかった。今ならさしずめ佐藤優だろうか。「革命」という瞬間にこそ生きることの真実があるとする彼の主張は、笠井潔が描くところの矢吹駆に重なってみえる。(もしかしてモデルだろうか?)
 山口昌男の『敗者の精神史』でもそうだが、社会学的な著作を読むたびに、膨大な資料からの素材探しと裏付けのための調査にかかったであろう手間ひまを考え、頭が下がる。このような本をまさしく「労作」と呼ぶのだろう。文学的な記述に流れて論理的な分析・帰結に欠け、少し記述が長めになるきらいが若干あるが、作者も冒頭に「だらだらと述べる」と書いているように自覚はしており、大した欠点ではない。同じ作者の『乱歩と東京』もぜひ読んでみたい。
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