『西洋中世の罪と罰』 阿部謹也 講談社学術文庫

 日本では何か問題を起こして謝罪する場合、「世間をお騒がせしたこと」に対してお詫びするケースが多い。何かをいさめる場合に使う言葉としては「世間体が悪い」という言い方も。これは日本における「罪」の意識というものが、共同体と結びつく形でしか見られないということを意味する。一方で西洋社会においては、個人の「罪」が社会や共同体との関連ではなく、時代によって変化することのない“絶対的な”基準に基づいているといえる。それは何故だろうか? 本書で著者はそう問いかけてくる。
 確かに言われてみればその通りだ。よく言われるように、キリスト教には犯してならない「七つの大罪(*)」という決まりがあって、その罪を犯したものには「罰」があたえられ地獄に落とされる。すなわちある決まりを破る行為が「罪」なのであって、それ以上でもそれ以下でもない。(もっとも「マナー」とか「常識(コモンセンス)」といった社会通念上のルールは、それとは別で存在するわけだが。
 一方で日本の場合、たとえ法律には抵触していなくても、世間から見て問題があると判断されれば、容赦なく断罪される。一概にどちらの社会が良いとは言えないが、少なくともベースになっている考え方が違うのは確かだ。

   *…もとは「贖罪規定書」の条文に定められたものだそうで、傲慢/嫉妬/憤怒/怠惰
     /強欲/暴食/色欲の七つの行為のこと。(なお贖罪規定書については後述。)

 話を戻そう。西洋では「罪」に対してそのような厳しい規定があるわけだが、ついうっかり罪を犯してしまった場合でも、「罰」を防ぐ方法が無いわけではない。それは犯した罪を自ら司祭に告白して許しを得ることで、それを「告解」という。先ほどの「贖罪規定書」というのは、告解のための手引書にあたるものなのだそう。そこには司祭が信者をうまく誘導して告白を引き出し、次いで彼らに「許し」を与えるための手順(=贖罪)が、事細かく規定されている。
 本書によれば、西洋においても罪や罰に対する意識は、かつては日本と同じようなものであったらしい。しかしキリスト教の普及とともに贖罪の手続きが徐々に浸透し、今のような価値観が形成されてきた。ローマカトリック教会が「国家」という世俗の権力と結びついて、個人の生活の細部まで指導する仕組みを作り上げ、それが数百年以上に亘って定着したが故のことだ。
 ちなみにその場合、社会の最上位に君臨する国王や教皇というのは、臣民に対して生きる上での規範をしめす存在ということになる。従って規範が守られない場合は、たとえばルターによる宗教改革やフランス国民による市民革命などのように、逆に庶民の側から強烈な「NO」を突きつけられる破目になるのだろう。(もしくはグノーシス主義のように「この世は悪しき偽物の神が作り上げた世界であり、肉体は悪。魂こそが清浄」という倒錯した観念に行きついたり...。)
 いずれにせよ、原罪のせいで楽園から追放され神の庇護がなくなってしまった我々人間にとって、代わりに「国家」というシステムが生きていく上で無くてはならぬものになった――というのが、西洋の考え方の基本らしい。

 また少し話が逸れた。著者によればキリスト教が伝わる前のヨーロッパというのは、たとえばアイスランドのサーガや北欧神話のエッダなど、ゲルマン民族に古くから伝わる伝承を読むことでわかるとのこと。そこでは生者と死者の世界は分断されておらず、死者は“生”を失った後も以前と同じように現世で活動する。(もちろん死ぬと食べ物や財産に対する慎み/抑制が無くなったり、いるだけで生者に死をもたらすなどの災いはあるのだが。)
 この根底にあるのは、“死”とは生命活動の停止ではないという考え方だ。個人の「栄光(ハイル)」と「名誉(エーレ)」が氏族の中に残されている限り、人は「死んでも生き続ける」というわけ。ちょっと違うかもしれないが、「人は死して名を残す」みたいなものかな。こうなると“死”とは、単なる身体の状態変化に過ぎないことになる。

 ではこのように現世で力強く元気(?)に暴れまわる死者たちが、なぜキリスト教布教後には地獄や煉獄といった「死者の国」から救いを求める弱々しい存在に零落してしまったのだろうか? 前置きがずいぶん長くなってしまったが、実は本書のテーマはその理由を明らかにすることであり、副題は「亡霊の社会史」という。そして著者はその原因を、先ほども述べた贖罪規定書と告解に求め、その根拠を丹念に解き明かしていくというわけだ。
 最初はノルウェーやアイスランドなど北欧は古代ゲルマンの死生観を、次いで南ヨーロッパからは古代ローマの死生観を探っていく。いずれにも共通するのは埋葬された後も死者は生前と同じように活動するという意識。一方キリスト教は「死後の救済」を謳い文句にして信者を増やしていく作戦だから、両者が合い入れるわけがない。キリスト教団は布教を推し進めるのに合わせて、当然ゲルマンの死生観を駆逐しようとするのだが、ところがどうしてこちらもしぶとく、そう簡単には無くならない。やむを得ず教団は異教の持つ強力なイメージを吸収、利用していく道を選ぶことになっていったわけだ。(キリスト教の教義に基づくかぎりにおいては、本来なら一旦死んだものはこの世に現れることはないはず。煉獄という、あの世とこの世を結ぶ中間的な概念が出来上がるまでは、死ぬと天国か地獄のいずれかに必ず行く他はなく、従って亡霊や幽霊は存在し得ないことになる。)
 しかるに古代のヨーロッパ人たちは、亡霊の存在を信じていた。そのため、キリスト教も亡霊に関して何らかの見解を示すほか無かったということらしい。
 ここら辺の話は、日本で仏教が信仰されていく過程に似ているね。様々に擬人化された神仏や、地獄と獄卒による恐ろしい刑罰が考え出されることで、本来は各自が悟りを開いて生の苦しみから解脱するための教えだったはずの仏教が、一般の信徒たちへも広まっていった。何事も「分かりやすさ」が大切ということかな。

 本書が取り上げる対象は多岐に亘っていて、ヤコブス・デ・ヴォラキネによるキリスト聖人たちの説話集『黄金伝説』なども分析の材料に。これらの説話では死者が現世に現れるのは、あくまでも生前の罪を悔いあらためて救済を得る為だったり、もしくは生者に警告や教訓を与えるため。古代に見られたように生前と同じ性格を引きずったり復讐などの利己的理由で関わりを持つことはない。粗野でたくましかった死者の姿はすっかり鳴りをひそめ、助けを求める哀れで弱い存在へと完全に変化を遂げている。(**)

  **…ただし注意が必要なのは、現代に残る文献はどれも当時の聖職者たち、すなわち
     「エリート」に向けたものばかりであって、当時の民衆に信仰されていた生の声は
     残されてはいないという点。しかもラテン語による聖職者向けの説教の中身は、
     今述べたような民衆向けの土俗的な内容とは違っていたらしく、むしろ民衆の言葉
     に翻訳してはいけないとされていたものもあるらしい。
     しかし当時の信仰の中身を知る方法が無いわけではない。聖職者向けに書かれた
     「民衆を導くための手引き」を分析し、彼らが導くべき“無知蒙昧な民衆”の信仰
     する迷信がどのようなものか、間接的に読みとればいいのだ。まさしく本書におい
     て著者はそれを行っている。

 本書で何といっても圧巻なのは、本書第6章で贖罪規定書の原文が主要な部分を丸ごと翻訳した部分。ちょっと抜き出してみよう。
 たとえば「お前は見栄のために飲み過ぎたことはなかったか。(中略)もしそうならパンと水だけで過ごす30日間の贖罪を果たさねばならない」とか「お前は嫉妬のために、他人の名誉を傷つけたり悪口をいったことがあるか。」といった道徳的な内容。また「運命の三女神が存在していると(中略)信じているか」とか「洗礼を受けずに子どもが死んだ時、(中略)子どもの身体を杭で刺して、そうしなければこの子は生き返り、多くの者に害をなす」もしくは「殺された男が埋葬されるときに(中略)死者の手に膏薬をもたせ」といった、呪いに関わることなど、微に入り細に入り100項目以上に亘ってびっしりと規定されている。
 これらの具体例を持って信者に懺悔をさせた上で、その罪を許すことがカトリック教会の秘蹟であり権力の源泉でもあったとは。そうであれば、例えば13世紀のラテラノ公会議で「成人は男女とわず年1回は告解すること」が定められたように、次々勅令を出して個人の罪を意識させることが教会によって強力に推し進められたのは当然のことだ。そしてその結果、ヨーロッパ社会には現在のような「罪」の概念が徐々に定着していくことになったのだという。

 なるほどねえ。氏族・血縁・部族により構成されていた古代の共同体を、いかにキリスト教の理念に都合の良いものに変えていくか。――そのような民衆と教団のせめぎ合いの中から、現在の西洋社会の個人主義の大元や、はたまた「助けを求める死者」のイメージまでもが生まれてきていたとは。
 自分の場合、西洋中世に関する本を読みたくなったら阿部謹也氏を選んでおけばまずハズレが無いけれど、本書も相変わらずいい感じだね。

<追記>
 余談になるが、理念の純化が進むとやがて倒錯へと行き着くのは世の倣い。「罪」と「罰」に関する教会の活動が最も盛んだった10~12世紀ごろは、ちょうど異端審問や悪魔狩りが真っ盛りだったころでもある。そう考えると、善悪にこだわり過ぎて、あんまり人を追い詰めるのもどうかと思うなあ。“お気らく人間”としては、何事ももう少し大目に見てもらえると有難い。(笑)
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No title

網野先生との共著がある阿部先生ですね。
読まないと、読まないと、と思いつつ今日まできてしまっています。

七つの大罪。
強欲 Greed は、アメリカの某財務長官にこそ相応しいです。

この贖罪システムは、ニーチェの「アンチクリスト」の著述内容そのものですね。
 
ニーチェは、パウロも思いっきりこき下ろしています。無知蒙昧の私には、キリスト教、ユダヤ教に関する正邪がわからないのでこちらのブログから予備知識をいただいています。
m(_ _)m




kappamama様

「強欲」ですか。なるほどー(笑)。

「アンチクリスト」は読んでないです(汗)。ニーチェはちゃんと読まねばと思ってるんですけど...。
基本的にニーチェはキリスト教のことを、ルサンチマンの思想として嫌ってるんでしたっけ。

阿部謹也氏は『ハーメルンの笛吹き男』を読んでいらいのファンです。読む本に迷った時に選ぶと、まずハズレがないのが嬉しいです(^^)。

No title

こんばんは。

古代文化とキリスト教文化が、混在しつつひとつの形に纏まっていく過程って、何だか面白いですよね。
古代ギリシャでは、わざわざ手間のかかる火葬をして霊魂を昇華させ、完全に肉体から飛び出させたそうです。
対してキリスト教では、復活を前提としているのだから、形の残る土葬を選択している。

肉体の扱い方が、魂のあり方と強く結びついているんですね。

それにしても、日本的な発想がしっくりくる僕にとっては、西欧の永遠を求める姿に、妙な面白さを感じます(笑)

慧さま

キリスト教って結構、土俗の宗教の風習や伝統を取り入れてますよね。クリスマスやサンタクロースもそうですし。

日本的な発想でいえば、死後はやはり土に還るというのがしっくりきます。エンバーミングは何だかちょっと厭ですね(^^;)。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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