『異界を旅する能』 安田登 ちくま文庫

 著者は下掛宝生流の能楽師にして漢字や古典の研究家でもある人物。以前読んだ『身体感覚で「論語」を読み直す』がとても面白かったので、他の著作がないかネットで検索したところ、2011年にこんな本がちくま文庫から出ているではないか。灯台もと暗しとはこのことで、全く憶えが無かった(失礼/笑)。さっそく買ってきましたとも。

 本書は全部で4章からなる。前半は著者が演ずる能のワキというのがどのような存在かの紹介。彼らは普通の旅人であるにも関わらず、なぜシテ(亡霊)に出会う事が出来、かつ彼らの無念を晴らすことが出来るのかについての論考になっていて、題名にもある“異界”がそのキーワードだ。
 後半になると雰囲気がかわる。前半で紹介した「ワキの世界観」が、実は今の我々にも充分に関係するものであることを語っていく。松尾芭蕉の「風雅の誠」というキーワードや夏目漱石の『草枕』が題材だ。一種の人生ガイドのようなエッセイのような文章になっている。結構学術書のような内容であるのに、ちくま学芸文庫ではなくちくま文庫に収められたのは、後半部分のためだろうか?(でも最初は“ちくま”だった阿部謹也著『中世の星の下で』が、あとから“学芸”で出し直された例もあるし...。筑摩書房ではそのあたりの線引きをあまりはっきりしていないのかも知れない。)ちなみに自分としてはどちらかというと、読みごたえ抜群の前半の方が好み。だが気楽に読める後半も悪くはない。

 ではここからは中身について。
 能は物語の主人公である”シテ”と、物語のきっかけをつくる”ワキ”によって進行される。(シテとペアで出てくる”ツレ”というのが出てくる演目もあるが、基本はシテとワキでワンセット。)また、能は大きく「夢幻能」と「現代能」に分けることができ、前者ではシテが亡霊や精霊であるのに対し、後者では普通の生者である。(以上、偉そうに書いているが全部本書からの受け売り。/^^)
 能の世界では、常に注目を浴びるシテに対して、ワキはいかにも地味な存在ではあるが、著者によれば別に「脇(ワキ)役」の意味ではないのだそうだ。元は「分ける」の意味からきており、曖昧なものを仕分けして見えるようにすることから付けられた名前とのこと。――そうは云っても一体何を分けるのだろうか? 実はそれこそが本書のテーマである「異界」につながっていくのだ。

 夢幻能の場合は、まず舞台に旅の僧などがワキとして登場し、ある土地に差し掛かるところから始まる。俄かに雨が降り出して雨宿りに訪れた家などで出会ったその土地の人から昔話を聞くうち、実はその人物こそが当の本人であることが判明して前半が終わる。後半は世に想いを残して死んだシテが自らの正体を現して謡い、やがて思いを遂げて昇天してゆくというのが典型的なパターン。
 ワキとシテが出会う場所は色々な名所旧跡が多い。普段は何の変哲もないその場所が、シテが正体を現すとともに今と昔の境界も曖昧となって、俄かに異界として立ち現われてくるのが夢幻能の醍醐味といえる。
 ところで昔の人は、能のセリフや謡の言葉ひとつからでも、様々なイメージの重ね合わせが透けて見えたらしい。(今の自分たちには到底むりなことだが、当時の人々にとってはそれが基礎教養だったそうな。)ちなみにそれが可能となるのは、たとえば和歌に見られるように、掛詞や縁語といった日本独特の修辞法によるもの。
 単純なコノテーション(含蓄)を超えて、「歌語(かご)」という独特のもの(*)へと変化しているためであって、旅先で何気なく立ち寄った場所のそこかしこにこのような諸々のイメージを感じ取る力をもって、シテ(亡霊)の「残恨の思い」と交差するのが能におけるワキの役割なのだそうな。

   *…歌語というのは「記紀歌謡から万葉、古今、新古今を経て今に連なる連綿たる歌の
     歴史的記憶をその胎内に内在させ、ポンと歌の中に投げ込むだけで、その歴史的
     記憶を一瞬にして、今ここに開花させる」ことができる仕組みのこと。著者はそれ
     を水中花に喩えていたが、自分はお湯をかけるだけで出来るフリーズドライの
     お味噌汁を連想してしまった。(笑)

 話は変わるが、よく知られている日本人の価値観に「ハレ」と「ケ」というものがある。著者によれば「ハレ」の語源は「晴れ」や「祓う」であって、また「褻(ケ)」とは「離(か)れ」と結びついて「穢(けが)れ」にも通じる概念らしい。(ところで「穢れ」という概念がもとはヒンズー教からきているという噂を聴いた事があるが、果たして本当だろうか? 悪名高いカースト制における不可触貧民の話を聞くと、確かにそんな気もするが...。)
 昔から夏には日本各地で盛大に盆踊りが行われ、定期的に非日常的な空間が作られてきた。お盆の時には「地獄の釜の蓋が開く」というが、盆踊りによって人々はあの世(異界)とつながりを持つことで、溜まった「穢れ」を祓い自分を「リセット」していたのだ。(西洋においても、カーニバルには硬直した社会構造を一時的にひっくり返して混沌をひきおこす働きがあるというのは、山口昌男を読んだ方にはお馴染みの話だろう。)
 しかし社会が発展して「都会」が生まれてくるとひとつ問題が生じる。今の東京を考えてもらうと分かるが、都会ではいつもハレの状態が続いているのだ。常に非日常的な状態が続いていては、新たに特別なハレの時間を設けることはできない。「時」としてのハレのパワーがなくなると、新たなパワーを別の手段で求めていく必要がある。そしてそのひとつが、先ほどの「歌枕」と呼ばれる名所旧跡がもつ「場」のパワーなのだ。今でも各地の「聖地」と呼ばれるところは”パワースポット”とか言われて人気があるが、古くは昔から定められていた「歌枕」と呼ばれる名所旧跡がそれに当たっていたというわけ。例えば本書で述べられている、藤原実方が一条天皇の怒りを買い「歌枕見て参れ」と都を追放されるエピソードからは、昔の人は歌に詠まれた場所によく通じていたということが良くわかる。
 そして著者によればこの歌枕というのは、旅人が通過する際には土地の精霊を鎮魂するために歌を読まなければいけなかった場所なのだそう。すなわち昔の人にとって歌枕とは「聖なる場」であり、亡霊が立ち現れる「異界」でもあったのだ。

 それではなぜ通りすがりのワキだけが、この世ならぬもの(異界)に出会えるのだろうか? 著者はそれがかれらの特殊な「旅の仕方」にあるのだという。結論を言ってしまうと、ワキという存在は「欠落している自分」を認識している人なのだという。心理カウンセラーがクライアントに対してひたすら聞き役に徹することで、本人の自己治癒力を引き出していくように、ワキも「無力な自分」を認識してシテの語りをひたすら聞くことで、逆にシテの無念を晴らすことができるのだという。
 古来「旅」とは本来、自分に欠けているものを切実に乞い願う「恋(乞い)」の旅。住み慣れた場所を離れて何者かに「賜(た)び給へ」と懇願しなければならぬ欠落の旅こそが、異界に出会うための旅の基本なのだそう。
これがまさに釈迦やキリスト、孔子の放浪とも共通するものであって、彼らもワキと同じ乞食(こつじき)の旅を経験していたという話にまで至っては、なんだか壮大な絵物語が目の前に広がるような心持になってくる。

 以上、これまでは能を漫然と見ていただけだったが、本書を読むことで観賞ポイントを懇切丁寧に教えてもらえた気分。前書の『身体感覚...』に引き続いて、とても密度の濃い読書タイムを味わえた。この安田登という人物、オモシロ本の著者としては自分にとってかなりの注目株とみた。(笑)

<追記>
 先日、「SF Prologue Wave」というサイトのコラムで、翻訳家の増田まもる氏が書かれた「からっぽな宗教」というエッセイを拝読させていただいた。http://prologuewave.com/archives/1641
 そのエッセイでは、なぜ日本人が“神道”という(教義も倫理的な規範もない)「からっぽ」な宗教観を持つに至ったのかについて、その理由を日本列島で昔から多く発生した自然災害に求めるという、魅力的な仮説が提示されていて、個人的には全く同感。
 日本人は地震や台風などの理不尽な災害に襲われて、それまでの生活が一変してしまったとき、悲しみに覆われる自らの心に何らかの形で一旦リセットをかけ、その後はただ死者の鎮魂のみを願う事で心の平安を保とうとしたのではないだろうか。それは「災害が過ぎればまた最初から作ればいい」という考えによって裏打ちされていたはず。それが日本人のきっと伝統的な価値観だったのだろう。
 しかし昨年の東日本大震災とその後の津波によって起きた原発事故により、これまでの前提は根底から覆ってしまったという気がする。放射能汚染によって未来永劫、喪われてしまう故郷 ――そのおそるべき可能性を突きつけられ、「リセット」することなど出来ないことに気付いてしまった時、人々はこれまでのようなリセットではなくて、過去を永久に記憶する方向に向かっていくのかも知れない。(ただしこれは、西洋でユダヤ教を始めとする一神教が得意としてきたことでもあったはず。果たしてそれが日本人にとって一番よいことかどうかは疑問ではあるのだが...。)

 うーん、最後に重たい話になってしまって失礼。ともあれ本書はとても読み易くて良い本です。
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お気らく活字生活  『異界を旅する能』 安田登 ちくま文庫

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No title

こんばんは。
今日もまた、大変勉強になりました。
諸星大二郎をちょっと思い出しましたが(笑)、なるほど。
パワースポットすなわち異界。

ハレばかりの都会は、パワーが抜けていくばかりで、まさに開きっぱなしな感じがしますね。
ある土地がある土地よりも、多く人を魅きつける、というのは本当に不思議です。有名な建物や景色があるから、というのは勿論ですが、有名になるほど多くの人の思いや精神が費やされているのでしょうか。
精霊や悪霊は形がないものなのに、実際の人を大きく左右してしまうのは、そういう積み重ねられた人々の思いが関係しているのかな、と記事を読んで考えさせられました。

こんばんは

慧さま こんばんは。

沖縄の御獄(うたき)などでもそうですが、
なんとなく人を引き付ける場所ってありますよねー。

ただ、安田氏はどんなに有名な歌枕でも、
そこにすんでいる人にとってはただの場所で、
感度が鋭い人にしか意味をなさないといってます。
それが分かる人がワキなんだそうです。

ただの場所って、ちょっと身も蓋もない言い方ですけど(^^;)。

でも全体的にそんな調子で書かれていて、
肩肘を張らない気さくな文章なので読みやすい本でした。

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kappamamaさま(私信)

いえいえ、お気になさらず(^^)。

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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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