『葬儀と日本人』 菊地章太 ちくま新書

 著者は東洋大学教授で比較宗教史が専攻の人。本書も副題が「位牌の比較宗教史」となっている。具体的なテーマとしては、本来の仏教には位牌とか先祖供養という概念はないのに、日本ではなぜ今のような葬儀の形になったのか?についての考察。(そんなこと今まで気にしたことすら無かったけど、言われてみれば確かにそのとおりだ。)著者はその疑問に答える形で、儒教・道教・仏教における位牌のルーツと葬儀の在り方を比較しながら、日本人の死生観について分かりやすく説明していく。
 本書によれば、日本人の死生観や葬儀の風習は、中国経由で伝わった仏教に儒教や道教といった様々な習俗が、混交して出来あがったものであるとのこと。結論から言えば、位牌や先祖供養もその過程で付け加わっていったようだ。(もっとも日本の葬儀のルーツは中国由来のものばかりではない。日本古来の精霊的な自然観も混じって今の形になっている。)
 「位牌は何が元になって出来たか?」みたいに具体的な話に興味がある方は、直接本書に当たって頂くとして、ここでは自分が感じたことなどをつらつら書きとめておきたい。

 まずは“心身二元論(*)”について。
 これはデカルトの専売特許かと思っていたが、東洋にだって古くから存在していたということに、今さらながら気がついた。「魂魄(こんぱく)」という言葉がそうだ。「魂魄この世にとどまりて、恨み晴らさでおくべきかあーっ!」というのは、『東海道四谷怪談』でお岩さんがしゃべる有名なセリフだが、この場合の「魂魄」という言葉は、何となく「霊魂」とか「幽霊」みたいな意味で理解されているかと思う。しかし本来はちょっと違っているのだ。東洋の心身二元論について説明するにあたって、まずは字の語源から簡単に説明しておこう。

   *…心と体を別物として見る考え方。典型的な例としては、キリスト教における天上的
     で高尚な“心”と地上的で動物的な“身体”といったイメージなど。

 まず中国では「鬼」という字の意味が日本と違う。よくある「虎皮を付けて角を生やした獄卒(**)」ではなくて、亡者全般を指す。(もっとも日本でも本来「おに」という言葉は、「陰(おん)」という発音から転じたものと言われていたんじゃなかったかな。だとすれば、地獄の獄卒のイメージが定着するまでは本邦でも中国と同じ意味だったのかも知れない。ただし生来のお気らく読者なので、これ以上調べるのも億劫だから(笑)この話はこれくらいでご勘弁。)

  **…「虎の腰巻と頭の角」のイメージ形成は丑寅の方角(鬼門)に関係するとか、
     これはこれで面白い話が多い。

 魂魄の「魂(こん)」は鬼の左側に「云」が付く。「云」は本来「雲」の意味で、形も無く宙にふわふわと浮かぶことから「精神」を指す。訓読みでも「たましい」と読むから日本でも同じ使われ方と思って良いだろう。
 問題は「魄(はく)」の方だ。日常ではまず使われない字なのでいまいちピンとこないが、よく見ると鬼の左に「白」という字がついている。この「白」という字が曲者で、白川静氏らによれば元々は“しゃれこうべ”を象ったものなのだそう。(亡くなった方の頭蓋骨が白く転がっている様子か。)とすれば「魄」は本来“身体”を表す。すなわち「魂」と「魄」のふた文字は、人の身体をつくるふたつの要素を示しているというわけ。まさに心と体を別々のものとみなす心身二元論そのものということになる。―ふう、前置きが長くなってしまった。ここからやっと本題に入る。
 なぜ心身二元論が東洋で考えられるに至ったのか? 著者が出した結論は、大事な人を失い悲しんでいる人々が思う気持ちが生み出したということ。すなわち「たとえ肉体は朽ち果てても、あの人の魂(こころ)だけは不滅でいて欲しい。どこへなりと自由に飛んでいってほしい」という慰めの気持ちから生まれたものではないか?著者はそのように推察する。
 ふむ、離別の悲しみが死生観を形成する原動力なのだろうか。うーん、確かにそうかもしれない。「“あの世”はある、ただし遺された者の心に」とはよく言ったものだね。

 また、(中国や朝鮮半島といった)東アジア地域では、血統一族が個人より重要という示唆も面白かった。これが「先祖に対する生身の窓口」として肉親を大事にする風習、すなわち「孝」の概念へとつながるのだという。(ここらへんがゴチャゴチャッとなり、最終的に位牌の話につながっていくわけ。)
 対する日本の場合に大切なのは、血の繋がりではなく「家」というもの。近代以前の日本では、実際の血縁関係にあまり重きは置かれていなくて、父系と母系が入り混じったり養子縁組やら婿入り婚と、中国の人たちからすればあり得ないほどのフレキシブル性(笑)をもつ。ここから日本人にとっての先祖供養は「宗教という言葉で言い表すものとはよほど違っている(中略)もっと生活感情に近いもの」という、著者独自の主張が出てくる訳だ。うんうん、これはすごく分かる気がする。

 ところで話は変わるが、著者は2004年に新潟でおきた中越地震の被災地の復興を、長年に亘り支援している方なのだそう。被災地である山古志地区においては、自分たちの生活すらままならない状況の中でも、倒れたり破損した墓を修復できないことに対して「ご先祖に申し訳ない」という声が多かったとのこと。なにぶん雪深い山の中の村落であって、春や秋のお彼岸に合わせたお墓参りは無理なので、年に一度だけ親族が集まってお参りするのが風習だったそうだ。
 そのためだろうか。先だって著者が山古志地区の人々に対して行った「先祖の墓」に関する意識アンケートでは、「墓」そのものよりも「故郷」を強くイメージした回答が多かったという。
 独文学者の種村季弘氏によれば、「迷信」とは過去の人が盲目的に信じ込んでいた“非科学的な信仰”ではなく、子供のころからの懐かしい記憶につながる“生活習慣”なのだそうだ。(by『迷信博覧会』ちくま文庫)
 もしそうなら、家の中では仏壇を前にして位牌を拝み、外では「先祖代々の墓」に参るという何だかよく分からない風習が根付いたのも、自分の生まれ育った家や故郷に対する郷愁によるものなのかも知れない。
 極論すれば、きっと「本当に仏教に起因するものであるかどうか?」とか「仏教の教えに即しているかどうか?」ということは、必ずしも本質的な問題では無いのだ。“仏教だと信じて”行われている、そのことだけに意味があるのかもしれない。――本書におけるこのあたりの話は、何だかとっても重要な指摘のような気がするね。
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No title

こんばんは。
今回も、とても勉強になりました。
特に魂魄の話しは、つい唸ってしまいました(笑)
また楽しみにしています!

いやお恥ずかしい(笑)

慧さま こんばんは。

「勉強」だなんて、いやお恥ずかしい(笑)。
本に書いてあった事を書き写しているだけですから。

ただ、自分が面白いと思ったことを、
同じように愉しんでいただけたなら嬉しいですw。

これからも喜んでいただけるような記事を書けるよう、
がんばりますね。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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