『ヨブ記』 岩波文庫

 旧約聖書は全く異なる多くの文献から成り立っているが、本書はその中でも創世記などと並びとても有名。ヨブという敬虔な信者に降りかかる様々な苦悩を通じて、「信仰」の在り方を描いた宗教上とても重要な一節とのこと。
前からすごく興味はあって、いつか読もうと思ってはいたのだが、あまり重苦しいのもどうかと躊躇していた。ところが――
 実際に読んでみたら想像していたのと全然違ってこれは面白い(というか可笑しい)。自分のようなお気らく読書にぴったり。ヨブに課せられた苦難についての重苦しい描写が延々続くのかと思いきや、そんなものは冒頭の僅か5ページだけ。あとはプラトンの哲学書みたいに、交互に弁論大会が繰り広げられる。しかもその様子も、形だけ見れば何だか掛け合い漫才みたい。この感じ、以前どこかで読んだと思ったら思いだした。『パヴァガット・ギーター』を読んだ時の読書感にそっくりだ。
 古典と呼ばれる作品には、臆せずトライしてみると意外に読みやすくて面白かったりする場合があるが、本書はまさにそのパターン。(テーマは結構シビアなんだけど、今の自分たちの眼からみて書き方がちょっとヘン...なんて言うと怒られるかな。/笑)本書の場合はざっと次のような感じ。

 まずヤハウェの神の敬虔な信者にして裕福な一族の長であるヨブに対して、突然の災い(重い皮膚病)が降りかかる。(*)しかし実はこの病、ヤハウェ神が悪魔の挑発にのってわざと悪魔にやらせたもの。敬虔な者に対して過酷な試練を与えても、神への信仰が揺らぐ事がないかどうか賭けをしたのだ。(「過酷な試練を与えてみよ、ただし命まではとるな」というヤハウェの神の言葉が、そら恐ろしい。)

   *…山形孝夫氏の『治癒神イエスの誕生』などの著作によれば、紀元前後の頃のユダヤ
     の人々にとっては、悪魔憑き(精神疾患)や皮膚病(ハンセン病や象皮病)は
     「神による呪い」であると理解されていた。すなわち神から何らかの罪を犯した人
     に対して下される罰であって、今の我々が考える以上に酷く忌諱されていたよう。

 こうしてヨブは財産も家族も全てを失うわけだが、先ほども述べたようにそこまでは単なるプロローグに過ぎない。本題はこの後に始まる「意見陳述」。(以下はその大まかな内容。ただしかなり「意訳」して且つ端折ってあるので悪しからず。興味のある方はぜひ直接本書にに当たって頂きたい。)
 まずはヨブの告発から。彼は神に対する信仰を失ってはいないが、絶望のあまり自暴自棄になってしまっている。

【ヨブ】
 なぜ何の咎(とが)も無いこの身が、このような仕打ちを受けねばならないのか見当もつかない。こんな目に合わせるためなら何故に生まれてすぐに命を奪ってくれなかったのか。(神に対して恨みはないが、)いっそ早く殺して欲しい。

 次にビルダデ/エリパズ/ゾパルという、町に住む彼の知人3名によって、ヨブに対する反対の意見陳述がなされる。その後、エリスという若者も意見を述べて合計4人になるが、内容はまあどれも似たようなもの。まとめるとこんな感じ。

【4名の知人】
 ヨブに咎が無いなんてことはありえない。本人が気づかないだけか、そうでなければきっと家族が何かやったに違いない。咎なく神の怒り(呪い)が下ることはないのだから。そのような弱音を吐くな。神がすることには必ず深い意味があり、人間なんぞが神の行為の意図を問うなんて不敬極まりない。とりあえず神に陳謝して、その上でどんな罰でも黙って有難くお受けしろ。

 次はヨブによる再びの反論。

【ヨブ】
 おまえたち、したり顔で俺に偉そうに言うな! なぜ悪人が栄えて善人が(このように)ひどい目に逢わねばならぬのか。神が考えていることは人間には理解はできぬことは承知の上。そんなことくらい、お前たち以上に敬虔な信者の自分が分かっていないとでも思ったか。しかしいくらお願いしても訴えても、答えを返して下さらないのが辛いからこそ、このような言葉を言って何が悪い!

 とまあ、6ページ目からずーっとこんな感じ。「掛け合い漫才」と言った意味が、何となくおわかり頂けるだろうか。そして「こんな調子で続いていくと一体どうなってしまうの?」と、いい加減心配になってきた頃に新たな驚きが襲ってくる。それはなんと神の降臨(!)。ヤハウェ神が雲の彼方から突如現れて、意見陳述の場に参加してしまうのだ。しかもとんでもなく“上から目線”の偉そうな態度。(当り前か。/笑)

 【ヤハウェ】
 この世のすべては自分が作り出したものである。単に私の被造物に過ぎぬおまえごとき、自分に比べれば何も知らぬちっぽけな存在に過ぎぬ。(そりゃそうだね。/笑)
 私はこの世の動物たちに要らぬ智恵を授けなかったが、それにはちゃんとした理由がある。それすら判らぬ人間ごときの分際で偉そうなことを言うな。分相応にしておれ!

 このくだりは、ヤハウェからヨブに対して次から次へと「おまえは○○ができるか。出来もしないのにそれが出来る俺のやることに口出しするな!」のオンパレード。何だか大人げないなあ(苦笑)と思いつつ読んでいくと、それを受けたヨブはひたすら「ごめんなさい。言いすぎました。悔い改めます。」と謝るのみ。それで神は気をよくしたのか、ヨブを元通りに治してやるとともに、先ほどの知人たちに対して「敬虔なヨブを祝福する為、彼に自分らの財産を分け与えよ」と命ずるという、とんでもない“大岡裁き”。しかもヨブはその後、病気もせずに140歳まで生きて、一族も栄えたというオマケつきだ。最後のページを読み終わった時には、あんまりビックリしたので開いた口が塞がらない状態だった。
 本書は同じく旧約聖書に収録の「創世記」とは構成からして全く違っている。機会が無くて旧約聖書はまだ通しで読んだことはないのだが、本書を読むと「旧約聖書っていったい全体どうなってるの?」という感じ。これだけ毛色の違うものが一堂に集まっていると、正直言って新約聖書以上にまとまりがなく、まるで「ごった煮」という印象。この調子だときっと「出エジプト記」なんかも、また全然違うんだろうな。読みたいような読みたくないような、でも気になる。謎は深まるばかりだ。(笑)

<追記>
 ふざけてばっかりも何なので、ちょっとだけ真面目な話もしておこう。
 「人類にとって宗教とは何か?」について前に考えたことがある。その時出した自分なりの答えは、宗教とは「病気やケガや死といった理不尽な運命や苦痛への不安を無事にやり過ごすための発明」だったのではないかということ。
 古代の人々は自分らの理解の埒外にあるもの、すなわちヴィトゲンシュタインが「語りえぬもの」と名付けたようなものを、「神」と名付ける事で心の安寧を得た。それは、理不尽な苦悩に対するやり場のない怒りを、諦観や許容へと変えるためのメカニズムであり、人類史の中でも特筆すべき発明だと思う。でもユダヤ/キリスト/イスラムという一神教のように、神に人間と同じ「人格」を与えてしまったのは、個人的にはちょっとどうかと思う。人格を与えてしまった時点で、結局のところ人間の理解の範疇を超え出ていないのではないかと。本書のように人間と同じレベルまで降りてきてしまうと、何だか有難みが無い気がするのは、果たして勝手な我がままだろうか(笑)。
 なお、西洋歴史学者の山形孝夫氏が言われていた、「ユダヤ教におけるヤハウェの神は基本的に“殺す神”。たまに“救済する神”にはなるが限定的で、キリスト教におけるそれとは根本的に性格が違う」という言葉が、本書を読んでかなり実感できたのは収穫だった。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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