『治癒神イエスの誕生』 山形孝夫 ちくま学芸文庫

 宗教人類学者である著者が原始キリスト教について考察した本。山形氏の著作は『聖書の起源』(ちくま学芸文庫)と『砂漠の修道院』(平凡社ライブラリー)に続いてこれで3冊目だが、この人の本はどれも面白いね。
 まず視点がユニーク。ユダヤ教の単なる一宗派に過ぎなかった原始キリスト教が、なぜ広く信仰されるに至ったのか? 著者はその理由を、イエスや使徒たちの「病気の治癒能力」に求める。キリスト教と聞いて頭に浮かぶ一般的なイメージとあまりにかけ離れていて、最初は何のことかと戸惑うのだが、内容を読めば納得できる。それは凡そ次のような話だ。

 イエスおよびその意思を継いだパウロらによってキリスト教団がスタートしたのは、紀元前後のパレスチナを中心とする地中海地域だった。最初のうちは辺境の小さな宗派に過ぎなかったキリスト教は、やがて「ミラノの勅令」を経て、4世紀末にはテオドシウス帝によりローマ帝国の国教になり、盤石の態勢となった。教団内部において教義の解釈の違いによる争い(異端審問)もあったが、10世紀過ぎには概ね現在のローマカトリックの形が固まった。 ―以上が、大筋の歴史といっていいだろう。ここからも分かるように、キリスト教の生き残りの重要なポイントは、紀元前後から4世紀までにあるといって間違いない。
 本書によると、キリスト教が始まったころには、人々が神を信仰する理由のひとつとして、「病気の治癒」への期待というものがあったらしい。そして当時もっとも篤く信仰されていたのは「アスクレピオス(*)」という神。この神は特に外科的処置を必要とする病気やケガに効果があるとのことで、かなり広範囲に信仰されていたようだ。そこに現れたのがキリスト教団。新訳聖書の記述によれば、彼らがそれまでのアスクレピオス神と違っていたのは、「悪霊憑き(=精神疾患)」やハンセン病や象皮病といった皮膚病など、ユダヤ社会では従来タブーとされてきた疾患に暖かい手を差し伸べた点。

   *…この神、現在では全く知られていない。なぜかというと、キリスト教がその痕跡を
     この世から完全に抹殺してしまったからなのだそう。再び知られるようになったの
     は、近代になり古代の遺跡後が発掘されてかららしい。

 著者によれば、ユダヤの民にとってそもそも砂漠とは、特別な意味をもつ場所なのだそうだ。荒野や荒れ地を意味する「シェマーマー」という単語は、動詞としては“麻痺する”ことを意味し、転じて、人間の霊魂が衰えて活動停止に陥った状態、すなわち(精神が荒廃して)「呪われた/罪をもった人間」という意味になる。従って古代ユダヤ社会においては、悪霊に憑かれたり皮膚が爛れたりした人間は、現代の我々からは想像もできないほど過酷な迫害を受けていたとおぼしい。イエス自身や、彼の教えに忠実にしたがった使徒たちは、そのような人々を治療する行為を行っていたのだ。(弱者を中心にして、キリスト教の教えが急速に広まったのは、ある意味で当然ともいえる。)
 しかし隆盛を誇ったアスクレピオス教団との戦いに勝利してからは、「治療神」としてのイエスの姿は徐々に失われていき、やがてローマ帝国の権力と一体化したキリスト教は、「治療」という即物的な奇跡(御利益)から徐々に魂の救済へと軸足を移し、今の我々が良く知っている世界宗教へと、大きく変貌を遂げていくことになったというわけ。

 以上の話から見えてくることがある。それは初期のキリスト教に、当時信仰されていた様々な宗教の痕跡が紛れ込んでいるということ。つまり原始キリスト教は、はじめから今のように洗練された思想だったのではなく、もっと土俗的な信仰に近かったということだ。著者は様々な宗教との比較を通じて、それらの痕跡を更に追求していく。
 例えばエジプト神話のオシリス神や、カナン地方で信じられていたバァール(バアル)神。これら古代の神々に多くみられる特徴として、以下の4つがある。

 1)処女降誕(すなわち処女から生まれた)神であること。
 2)母子神であること。
 3)死と再生を体験すること。
 4)遊行(≒放浪)する神であること。

 「処女降誕」と「母子神」といえば言うまでもなく、現在まで根強い人気を誇る「聖母マリア信仰」そのものだし、「死と再生」はイエスの磔刑とその後の復活を、そして「遊行神」というのはイエスと使徒が悪魔憑きや皮膚病を治癒する為に各地を放浪したエピソードに合致する…とまあ、(荒唐無稽というか非科学的というか)聖書の中でも特に異彩を放つこれら4つのエピソードだが、なぜだか見事に古代の神々の特徴にぴったり当てはまってしまうのだ。これにはびっくり。一般的には、これらの奇跡をそのまま受け入れるかどうかが、キリスト信仰に対する試金石となるわけだが、まさかそれらが実は過去から各地の民族に広く浸透していた宗教観だったとは。

 またユダヤ教の神であるヤハウェは、旧約聖書の記述では、敵対する者や不服従の者に対して死や病を投げつける「殺す神」の色合いが強い。それに対してイエスの場合は、先ほども述べたようにアスクレピロス神と同様の「治癒する神」の役割を演じている。そう考えるとキリスト教というのは、「絶対的な一神教」というユダヤ教のコンセプトは踏襲しつつ、周囲の宗教から有効なコンテンツを吸収して、大きな転換を図ったものだというのが良く分かる。だからこそ、まだ教団が若く脆弱だった頃にも、幾多の強力なライバル(宗派)に負けることなく、無事に生き残ることが出来たのだろう。
 先ほどの繰り返しになるが、人類に古くからある「大地母神」の信仰においては、永遠に若さと美しさを保つ花嫁(=月の満ち欠けによる再生に由来)と、めぐりくる年ごとに死んで再生(復活)する神の子としての花婿が登場するのがパターン。この花婿神としての役割を、神の呪いをも打ち消すことができる治癒神という役割と合わせて演じきることによって、救世主イエスの姿は民衆にすんなりと受け入れられていったのだといえる。

 次に今までの話からは少し逸れるが、キリスト教の元となったユダヤの神について少し補足を。なんでも旧約聖書には、「砂漠への行進」と名付けられた難解なパートがあるらしい。(無責任な表現で申し訳ないが、旧約はまだきちんと読んだことが無いので悪しからず。/笑)
 著者によれば「砂漠への後進」とその後に続く「神による勝利」の挿話は、“砂漠(=呪われた死の土地)”からの再生の儀礼を意味しているそうだ。こうして考えると、本来のヤハウェの神は、一種のシャーマニズム的な特徴も備えた、かなり土俗的な神であるといえそう。
 またヤハウェ神とバァール神が争った理由についても、ヤハウェ神を信仰していたのが遊牧民であるのに対し、バァール神は農耕民に信じられていたという推論がなされていて、なるほど納得感がある。労働というものは、かたや遊牧民にとっては(牛や羊といった)家畜が担うべきものであって人間がするものではない。労働は楽園を追放されたアダムとイヴの末裔に強制された苦役なのだ。かたや農耕民にとって労働とは、神事すなわち神から委託された祭祀を意味する。こうして見ていくと、カナンの地で繰り広げられた民族紛争に勝利したユダヤ人たちの神ヤハウェの姿が浮かび上がってくるようだ。そして本来「殺す神」であったヤハウェを「治癒する神」につなげていく装置として、大地母神信仰から借りた設定にイエスを位置づけたキリスト教という構図も。
 うーん、キリスト教、まだまだ奥が深いぞ。(笑)

<追記>
 本書は上記に挙げた話の他にも、柳田國男の『桃太郎の誕生』や石田英一郎の『桃太郎の母』で提唱された「小さ子」説話との共通性を考察したり、巻末には梅原猛や河合雅雄らとのシンポジウムの様子も収録され、内容は盛り沢山。自分にとってはストライクゾーンの話題が多く、かなりお買い得な本だった。
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No title

舞狂小鬼様  こんばんは。

キリスト教に関する書籍は多数出版されているので
いつも買う時に迷うのですが、
山形氏の著作は面白いとの舞狂小鬼様のオススメ
なので、読んで奥の深さを体験したいと思います。(笑)

こんばんは

みどりのほし様、こんばんは。

記事をさっそく読みいただきありがとうございます(^^)。

山形氏の著作の3冊の中で、
一番最初に読むとしたら、
『聖書の起源』がお薦めですかねー。

私が今回書いたような観点に興味がお有りでしたら、
内容的にいちばんまとまっていると思います。

私もまだまだ勉強中なので、
氏の他の著作にも挑戦していきたいと思います。

No title

おはようございます。

山形氏の本は読んだことがありませんが、
ちくま学芸文庫、平凡社ライブラリーの両方に著作があるなら、
まずハズレがないので、三冊とも買いですね。
 
キリスト教以外にも、ユダヤ教にも興味ありますので、
本書は気になります。

西洋の宗教や文化には、馴染みがないので、
折を見て、調べたり、読んだりしたいと思っていたので助かりました。

読んでみます。






尽きせぬ興味

kappamama様 こんにちは。

ほんと、ユダヤ、キリスト、イスラムの3大一神教は、
知れば知るほど奥が深いです。

でもいちばん興味があるのは、
実は仏教だったりするんですけどねー(笑)。

自分は特に信仰深いわけではないんですが、
宗教全般には興味津津というところです。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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