『完全言語の探求』 ウンベルト・エーコ 平凡社ライブラリー

 原題は『ヨーロッパ文化における完全言語の探求』という。旧約聖書にあるバベルの塔の逸話を皮切りに、「完全言語」もしくは「普遍言語」と呼ばれるものに対する、ヨーロッパの人の探求の歴史をひも解いていく。
 著者は『薔薇の名前』や『フーコーの振り子』といったミステリで有名な言語学者のU・エーコ。題名が妙に格好よかったので(笑)、予備知識なしで衝動買いして読んでみた。そしたら「完全言語」というのは、「神の意図」やこの世の「あらゆる事柄」あるいは「哲学的なあらゆる論理」を、“完全に”表現することができる言語のことだった。ちなみに「普遍言語」というのは、異なる言語を話す世界中の人々が理解可能な単一の言語のこと。完全言語とは微妙にニュアンスを違えつつも、ときに混同され時に区別されながら探求されてきたものであって、本書では両者あわせて取り上げている。(ただし何故ふたつがセットになるのか理由はよく分からない。「神の言葉であれば全ての人に理解できるはず」というキリスト教的な考えによるものなのか、はたまた「完全なるものは普遍性をもつ」という理屈によるものなのか…。)
 話を戻そう。本書は何しろとんでもない労作。本文は511ページもあり、遥か中世のカバラー(*)から20世紀のエスペラント語までを網羅、膨大な数の事例が紹介されている。前半はカバラー学者など中世の神秘主義者や夢想家たちが考えたことの一大カタログになっていて、後半は近代ヨーロッパにおいて(「神の叡智」を示す必要がなくなった代わりに)「哲学的な真理」を余すところなく示せるものとして、同じく「完全言語」を探求し続けた人々の歴史を描く。まるで百科全書のような著者の博識に眩暈を覚えながらも、結構愉しむことが出来た。(おそらくこの時の知識が元になって、『フーコーの振り子』が書き上げられたと分かったのは、本書を読んだ思わぬ余禄。個人的には後半の方が好みだが、中世神秘主義に興味がある人には前半は堪らなく面白いのではなかろうか。)以下、自分の印象に残ったところをごく一部、かいつまんで紹介しよう。

   *…ユダヤ教に端を発した神秘思想。キリスト教的なオカルト思想の源流のひとつに
     なっている。

 カバラー学者たちが完全言語を探求した目的は、簡単に言ってしまえば、神の叡智を完璧に理解できうる言語(すなわちアダムが話した言語)を見つけ出すため。完全言語の探求とは、バベルの塔崩壊の時に失われてしまった神の叡智を、再び取り戻すことに他ならない。彼らによればヘブライの言語(文字)というのは、神が作り出した「この世を構成する“成分”」に等しいらしい。したがってヘブライ語では言葉(文字)自体が「力」を持つという考えが、カバラー学者たちの間の基本認識となった。またそのためヘブライ語こそが、天界の力(神)に自分たちの思いを届けられる唯一の言語ということにも。
 やがてルルスにより発明された「同心円状の円盤を重ね合わせてアルファベットの組み合わせを作り出す」という手法と結びつくことによって、「この世に存在するあらゆる個物の真の名前を名付けられるだけの単語を作り出せる」という人工の言語(=完全言語)が夢想されることに。(ここらへんの話は、聞いたこともない知識がてんこ盛りなので、読むのにちょっと手間取った。)
 もしもこれらの文字を全て収納する事が出来る図書館があるとすれば――などという話も出てくるが、これってボルヘスの「バベルの図書館」の先取りということではないだろうか。コロンブスが新大陸を発見していた頃、その裏ではヨーロッパでこんな世界史が繰り広げられていたとは、なんて面白い。

 お次はエジプトのヒエログリフ(象形文字)に対して、アタナシウス・キルヒャー(**)がみた幻想を。彼はヒエログリフが担っているのは「聖なるもの」の象徴機能であり、その意味は人間が話すような所謂「言語」ではなく、符牒/図解/記号などを通じて総合的に伝達されるものと見做した。しかしシャンポリオンがロゼッタ・ストーンを使ってヒエログリフの解読に成功する前とはいえ、いくら何でも深読みのし過ぎではなかろうか(笑)。
 漢字(=意味)と仮名(=音)を同時に駆使する日本人からすれば、別に驚くほどの事でもない気もするが、ヨーロッパの人々にはヒエログリフが(あの意匠と相俟って)とんでもなく神秘的に思えたのだろうね。まさに当時のヨーロッパで流行った寓意図の世界そのものといえる。

  **…17世紀ドイツのイエスズ会司祭にして、あらゆる知識の領域を渉猟した中世最後の
     大知識人(「遅れてきたルネサンス人」とも)。膨大な量の著作を残したが、今の
     我々の目から見ると結構トンデモネタも混じっている感じ。(笑)

 ちょっと辛口になってしまったが、しかしキルヒャーが完全言語を求めた目的はいたって真面目なものだった。彼は三十年戦争を始めとする戦乱によりずたずたになったヨーロッパ社会を、もう一度以前のようにひとつに繋ぎたいと思っていた。そのためには、聖なる知識の源泉(であると彼が信じた)古代エジプトの言葉を読み解くことで、「神の大いなる叡智」を知る必要があったのだとか。
 また、キルヒャーのように、異国の言語に自らの夢を託しすぎた人々の妄想がやがて独り歩きを始め、肥大した妄想がおかしな領域に入り込んでいく様は、まるでマニエリスム芸術の発展を見ているような印象も。これらの「(図)像からなる完全言語」を突き詰めていくと、最後には特徴や外観がよく似た物を使って病気を治す「類感呪術(魔術)」の世界へと行き着くことになる。
 キルヒャーの後は「ステガノグラフィー/秘文字術」つまり「文章をある規則に基づいて暗号化(コード化)する技術」を逆に用いて、どんな言語でも暗号を解くように解読(デコード化)してしまおうという「ポリグラフィー(万人に開かれた国際語)」の話題となり、中世から近代へと時代が移っていくことに。(これでやっと本書の半分。普通の本なら2,3冊は書けそうな量の知識が詰っているので、読み進むのに結構なパワーが要る。)

 後半の第十章からはいよいよ神秘主義から離れ、「哲学的な完全言語」の探求について。“哲学的”とはどんな事かと言うと、冒頭にも書いたように、「世界の事実と思想をあますところなく記述できる言語」のことだそうだ。
 ここではジョージ・ダルガーノ、ジョン・ウィルキンズといった人々による取り組みが語られるが、はっきりいって全く知らない人ばかり(笑)。彼らの基本的な取り組みは、あらゆる事物を系統樹的に分類していこうとする方法の開発なのだが、大きな問題がある。それは区分の仕方が恣意的なところと、そして天使や思考など「想像や観念的なもの」と動物など「現実界にあるもの」をごっちゃにしてしまっている点。
 実際には現実世界にあるものに「区分」など存在せず、すべてが連続しているはず。区分というのは人為的・作為的に行われるものに過ぎない。(例えば複雑で多様な人間の性格というものを、たった4つの「血液型」というパターンに無理やり押し込めてしまおうというのと同じこと。)微分やフラクタル図形の概念を改めて持ち出すまでもなく、世界を分けるには無限の区分が必要なことは直感的にも理解が出来ると思う。それをタルガーノらのように僅か数十パターン(!)で分けようとすれば、本書で語られたように無理や例外事項が溢れかえり、破綻する破目に陥ることになる。
 彼らの取り組みが失敗したあとは、ライプニッツといった大御所まで登場したのには驚いた。ライプニッツもダルガーノらと同じように、一旦は哲学的な論理を全て記述できる言語を夢想したらしいのだ。しかし流石はライプニッツ。やっぱり後世に名を残す人は一味違う(笑)。あやしげな領域からは早々に離れ、哲学者・ヴィトゲンシュタインへと続いていく「記号論理学」へと考察が進んでいくのはさすが。

 ちなみに傑作だったのは、19世紀初頭のアンヌ=ピエール=ジャック・ド・ヴィスムらによる、「音階言語」という取り組み。これは“言葉”を言語ではなく音階で表現することによって、異なる言語の間でも意味を伝え合えるという考えなのだが、ここまでくれば筒井康隆の奇想小説「関節話法」や「クラリネット言語」の世界に、あと一歩というところだ。(***)

 ***…SFなどによく出てくる超能力にテレパシーというものがある。本書を読んでいて
     気がついたのだが、実は異なる言語の間ではテレパシーも全く通じなくなるのでは
     なかろうか? 例えば職場でパワーポイントというプレゼンテーション用ソフトを
     使うことがあるのだが、作った資料をヴァージョンが古いソフトで再生しようと
     すると文字が判別できなくて、画面が「?????」の羅列になってしまう事が
     ままある。もしもテレパシーなるものが存在したとしても、おそらくこれと同じ
     状態になってしまうのではないか。もしも言語学におけるサピア/ウオーフらの
     仮説が正しいとすれば、言語とは単なる「思考の器」ではなく「思考そのもの」
     であるとのこと(詳細説明は省く)。とすれば、言語が変わればその人の思考の
     枠組み自体も違ってくるわけで、思考形態が違うもの同士が仮にテレパシーで
     直接会話できたとしても、意味不明の概念が流れ込むだけに終わるはずではない
     だろうか。…なんだか子供の頃の夢が消えていくようで寂しいなあ。(苦笑)

 かくして20世紀に入ってからは、とうとう「完全言語や普遍言語の実現は無理」という結論が下されることに。しかし世界中の人が互いに意思疎通を図りたい、という夢まで潰えた訳じゃない。かといって、ヨーロッパ全体が(ラテン語のように)死語となった中立的な言語に戻るというのも不可能とすれば、あとは「デファクト・スタンダード」すなわち「事実上の標準化」しかないだろう。デファクト化は特定の言語を利用する人の数の多さとか、経済的な影響度の大きさで決まるので、もしも可能性があるとすれば、中国語か英語といったところになるだろうか。
 中立的な言語の試みとしては、ザメンホフによるエスペラント語の開発の取り組みも記載されている。エスペラント自体はある程度の市民権を得られたようだが、RとLの発音が区別できない言葉をしゃべる民族のひとりとしては、ヨーロッパ基準でその条件(RとLの区別)を前提にされてしまうと、結局のところ英語をマスターするのと手間が変わらないのであまり習得のメリットはない。

 同じ言語を話す社会の中でも、意思疎通がうまくいかずトラブルになることは日常茶飯事。そう考えると、大切なのは完全言語や普遍言語といった魔法の道具にたよるのでなく、異なる価値観の人への“共感”を日々重ねていき、言葉なんか無くても「スマイル」で分かりあえる事なのではなかろうか。そんな気がしてくるぞ。

<追記>
 本書でも少し触れられているが、ある概念・論理を“完璧に”表現する体系としては、数学で用いられる数式がそれに最も近い。でもそれとてゲーデルが不完全性定理で証明したように、ひとつの論理体系の中では自分が正しいか正しくないかは原理的に知ることができないわけで、完全なものではない。
 そう考えると、本書で語られる完全言語の探求というのは、(「愚行」とまでは言わないが)人類の大いなる「徒労」の歴史とはいえそう。いやホント、これらの言語を探求した人も大変だったと思うが、その歴史を探求してこのような本にまとめあげた著者もお疲れさまでしたと言いたい。(ついでにそれを読んだ自分も。/笑)
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No title

はじめまして

哲学書は大好きで読むのですが
全くの初心者のため理解できない部分もあり
ブログを拝見させて頂きとても参考になりました。

ありがとうございます(*^_^*)

凄い!

さすが舞狂小鬼さま、博学!

私、最近ていうか、今「素数の音楽」という本を読んでいまして。
数学の歴史に「ほほ~っ」「おお~っ」と感動している最中。
どの程度、理解出来てるかは謎ですが^_^;

それでゲーデルの不完全性定理も、今なら少しわかります。
きっと、月日が過ぎたら忘れてしまいそうですが・・・
面白いですねぇ、数学も。哲学と物理と繋がってるんですね。

で、語学もですか。駄目だ、私の脆弱な脳が悲鳴をあげてます(笑)

はじめまして

みどりのほし様 はじめまして。

ご訪問いただきましたうえ、稚拙な文章に大して、お褒めの言葉までいただき、ありがとうございます。

気楽に好き勝手を書き散らしているばかりの読書日記ですが、またお暇がありましたらお越しくだされば幸いですw。

ほんと、哲学って面白いですよねー。

いやあ、お恥ずかしい(笑)

彩月氷香さま、こんにちは。

いやあ、お恥ずかしいです(^^;) お読みいただき有難うございます。

数学の歴史の本ですか、それは素晴らしい。ゲーデルは大学生の時に本を買って読んだのですが、さっぱり分かりませんでした(笑)。ですからうろ覚えです。

そうなんですよ、世の中の全てのものは繋がってるんですよねー。そう考えると何だか楽しくなってきます。

No title

>彼らの基本的な取り組みは、あらゆる事物を系統樹的に分類していこうとする方法の開発なのだが、
>大きな問題がある。それは区分の仕方が恣意的なところと、
>そして天使や思考など「想像や観念的なもの」と動物など「現実界にあるもの」をごっちゃにしてしまっている点。

恣意的ですか?
現実界とやらも動物などのくくりもあくまで人が生み出した観念でしかないんですけど。
ごっちゃではなくて、あらゆるものを同じ概念として極めて科学的に平等に扱っているだけです。

>実際には現実世界にあるものに「区分」など存在せず、すべてが連続しているはず。
>区分というのは人為的・作為的に行われるものに過ぎない。
>(例えば複雑で多様な人間の性格というものを、たった4つの「血液型」というパターンに
>無理やり押し込めてしまおうというのと同じこと。)
>微分やフラクタル図形の概念を改めて持ち出すまでもなく、
>世界を分けるには無限の区分が必要なことは直感的にも理解が出来ると思う。
>それをタルガーノらのように僅か数十パターン(!)で分けようとすれば、
>本書で語られたように無理や例外事項が溢れかえり、破綻する破目に陥ることになる。

えっと、ものごとには色んな視点があることを少しは考慮した方がいいです。
数の世界は正負という二元性の世界と見る事もできます。
生物という尺度でみると、生き物には男女という厳然とした非連続的な区分があります。
また、DNAは非連続的なデータなのでもちろん生物の定義そのものも非連続的な区分が可能です。
人の性格は4つのパターンには収まらないでしょうが、人の血液のタイプは確かに4つの型に分類できます。
宇宙は4次元時空または最新理論では11次元とされていますが、これは4つまたは11のパラメータで世界を整理できることになります。

また、空間や時間や物質には最小単位であるプランク単位というものがあり、これらの物理要素の本質が非連続であることを表しています。
逆に言うと、世の中に連続的なものというものはまず存在しないということです。
この世界は非連続的な世界ですから、それを適当なカテゴリに分けて整理することが可能なのは当たり前の事です。
数学や物理を学んでみてはいかがでしょうか。哲学の理解も変わってくると思います。

Re: ?さん

?さん(お名前がないのでこう呼ばせて頂きますね)こんばんは。
コメントの書き込みありがとうございました。
辛口のコメント恐縮です。

この記事は様々な完全言語または普遍言語の探究に関して、
U・エーコがまとめたその歴史を読みながら、
「ああでもないこうでもない」と気楽な感想を述べる趣旨で書かれています。
むろんエーコも本書で取り上げた内容を頭から信じているというわけではありません。
あくまでも「当時」の考えとして客観的な紹介につとめているだけです。
自分としては「完全言語の探究と失敗の歴史」として、とても愉しく読む事が出来ました。

本文中にも書きましたようにジョージ・ダルアーノとジョン・ウィルキンズについて私は殆ど存じておりません。
あくまでもエーコが本書でまとめた内容で彼らの思想を理解しているだけです。
従いまして、もしもダルアーノらの思想についての私の理解不足、 もしくはエーコの文章の読解力不足であると?さんが判断されたのであれば、その点についてご教示いただけると幸いです。

しかしもしも?さんが『完全言語の探究』を読まれてのご意見ではなく、 私の文章を読んで一般的なご意見として書かれているのであれば、私の考えるところについて少しコメントさせていただきます。

まず「ものごとには色んな視点があることを少しは考慮した方がいい」
というお考えについては全面的に賛成します。
そしてそれを前提にした上で、本書におけるダルアーノらのやり方には稚拙な部分があったと私は考えています。

?さんが前提にされる「非連続な世界」については、たしかに量子力学の微視的な世界では成り立つ話ですね。
ちなみに?さんが書かれている超ひも理論やその展開であるM理論(仮説)や量子力学のコペンハーゲン解釈や多世界解釈も知っていますしフラクタル図形の非連続性も充分理解しているつもりです。
しかし同時に巨視的な世界ではニュートン力学による近似が成り立つし、アインシュタインの相対性理論の方程式で記述できることも知っています。プランク定数によらずとも投げたボールは放物線を描いて落ちてきますし、壁にあたればすり抜けることなく痛いです。

数学のことに触れられていますが、数学はまさに演繹による抽象概念であるため、どのような設定であったも整合性が取れていれば(非ユークリッド幾何のごとく)成立するものです。
そしてその数学では「連続」を前提にすることで微分が生まれたわけですよね。
とすれば「概念」こそは?さんの仰る「適当なカテゴリに分けて整理する」ために前提となると考えます。
そして人が生み出した観念であるからこそ「非連続」に区分けするその仕方も人によって、如何様にでもなるものだと思います。その意味も含んだうえで私は「恣意的」と書いたつもりです。
(なお、性別を男女という二つに分けるのもまた人の恣意的な区分に他なりません。性別は遺伝子による違いのほかにホルモンによる性徴や育てられ方によるジェンダー的なものもあり、どこで区分するかによって男女どちらのグループに入るかは変わります。)

さらに言えばダルアーノらの取り組みのベースになっている分類学自体、もともとがキリスト教的世界観において「この世の様々な種類の生き物を創られた神の意図」を少しでも理解しようとして考えられたものと聞いています。
(17世紀はまだ錬金術に代表されるキリスト教的な神秘主義が幅を利かせていた時代ですね。)
そんな中で、実際にダルアーノらの周りにあって眼で見たり手で触れたりすることができる生物を、僅か数十種類にカテゴライズするのはあまりにも無理があるだろうと(区分が少なすぎるだろうと)思ってあの文章を書きました。本書を読めばかれらのカテゴリによる「例外事項」の無理さ加減が、充分に理解いただけると思うのですが。

ちなみに「現実界にあるもの」と「想像や観念的なもの」というのは今の私の目から見た場合、当時の彼らの区分が極めて恣意的に見え違和感があるから、それを説明しようとして選んだ一例です。
細かなところを言えばもっと色々ありますし、そもそも「科学的に極めて平等」という場合の「科学」が何を基準とするかも、時代変化によりパラダイムが変化すれば変わってしまうものでしかないはずです。

?さんが最後に書かれた「哲学」が何を念頭におかれてのものかは判りませんが、 もしそれが本書で多く言及されるスコラ哲学やキリスト教系神秘主義のことであれば、それには私は首肯しかねます。
過去のこれらの思想は当時こそ生きた思想であったとは思いますが、
近代哲学の洗礼を受けた現在を生きる自分にとっては、
(パズル的な愉しみを提供してくれこそすれ)決して心から納得できる考え方ではありません。
彼らが今でいう「極めて科学的」なやり方で世界を区分しているとは私には思えません。
あくまで本書に書かれた内容から判断すればですが。

以上、長々と失礼しました。
いずれにせよ、?さんがお名前とともにそのあたりのご自身のスタンスをもう少し明確にしていただければ、一方的な批判とそれに対する意見ではなく、もっと建設的な議論にすることができるのではないかと思います。
如何でしょう?
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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