『身体感覚で「論語」を読みなおす』 安田登 春秋社

 とても面白い本だというご紹介を頂き読んでみた。話に違わずとんでもない“オモシロ本”だった。内容は題名にある通りで、従来とは異なる視点で『論語』を読んでみたら、全く違う姿が見えてきたというもの。ちなみに春秋社は自分が好きな松岡正剛の本も何冊か出している版元で、本書の帯にもセイゴオ氏の推薦文が書かれている。本屋で手に取った瞬間になんとなく自分好みのニオイが漂ってきて、何も考えずそのままレジに直行した。こういう時の勘は結構あたるのだ。(笑)

 では早速、本書の中身について。
 『論語』は孔子が直接書いたものではなく、後年になって門人たちが伝聞をまとめたもの。とすれば、孔子本人の意図とは異なった伝わり方をされている言葉もあるのではないか?というのがそもそもの発端。ひとつ例をあげると、「心」という漢字は孔子の時代にはまだ存在していなかったそうで、「四十にして惑わず」という有名な言葉も孔子が説いたのは別の字によるもので、もしかすると本来まったく違う意味だったのかもしれない。では代わりに使われていたのはどんな文字だったのか?――といった感じ。
 著者は『論語』のひとつひとつの文章について、個々の漢字の起源まで遡ってしらべていく。(白川静らの研究もどんどん出てくるので、その手の話が好きな人にもお薦め。)その結果見えてきたのは、あっと驚くような分析&解釈だったというわけ。どう、面白そうでしょ。(*)

   *…一体どんな著者なんだろうと、見返しにある略歴を何気なく読んでみてびっくり。
     著者は何と能楽師なのだ。専門家も裸足で逃げ出すほどの博識ぶりに「何でこんな
     に詳しいの?」と思ったら、実は大学時代は中国の古典や古代哲学を専攻し、若い
     頃には漢和辞典の編纂にも関わったとのこと。現在は東京で論語と謡曲を中心に
     した寺子屋「遊学塾」を主宰するなど、まさにマルチな才人といえる人。

 先ほどの話の続きに戻ろう。著者のスタンスの基本はおおよそ次のような仮説だ。
 人間に「心」すなわち現代で言うところの「自我(“自分”というもの)」というものが生じたのは、今からおよそ3000年前に過ぎない。なぜなら中国の文献には、それを意味する文字が存在しないから。(このあたりの論旨も、他にミズンの『心の先史時代』など様々な研究を引き合いに出してきちんと説明されており、説得力がある。)では「心」が出来るまで、いちばん近い概念は何だったのかと言うと、著者によればそれは「命(めい)」なのだとか。この字は普段は“いのち”という意味で使われることが多いが、「宿命」「命令」「運命」といった言葉に使われているように、本来は人間の意思で何ともならない”決まり”のようなものを意味したものだとか。自分の周囲に在る「世界」と言い換えてもいいだろう。
 もしも人に「心」がなかったとすれば、嬉しいとか悲しいとかいった”情動”はあっても、そこに「自分」というものはない。人生も動物のそれと同じように、受動的で単純なものだったに違いない。(半導体などにおいて、電子子の抜けた穴(すなわち「空孔」)が、まるでプラスの電荷をもった粒子であるかのように振る舞うのと同じと考えると、比較的イメージが浮かびやすいかも。)
 「心」(自我)の発見のおかげで飛躍的な進歩があったのは認めるとして、それとともに精神的な不調など、それまで経験したことのなかった新たな苦しみも生まれたのもまた事実。著者曰く、『論語』という書物は孔子の時代に新たに生まれたそれらの苦しみを克服するための、孔子なりの“処方箋”だったのではないかと。
 では孔子が提唱したのは具体的にどのようなことだったのか。ここからは本書の解釈に基づいて、孔子が『論語』で述べていることについて順に説明していこう。
 ひとことで言ってしまうと、それは「心(自我)」と「命(世界)」を「礼」で取り持つということだ。「命」は宿命であり天から与えられた運命でもあって、人間にはどうしようも出来ないもの。しかし「礼」という“生きるための手段”を学ぶことによって、人は世界と自分の心の間に折り合いをつけ、苦しみを少しでも和らげることができるのだ。孔子と弟子たち(孔子学団)が追い求めた「礼」とは、きっとそのようなものであったに違いない…。なんとまあ魅力的な仮説だろうか。(**)

  **…ひとつ補足しておきたいのは、あくまでも著者は「このような読みをすることも
     できるよ。面白いでしょ。」というスタンスだということ。別に大上段に構えて
     「これこそが正しい。他の読み方はみんな間違いだ!」なーんて言っている訳では
     決してない。押しつけがましい書き方ではないので、じっくりと腰を落ち着けて読
     むことで、この壮大な仮説に基づく解釈を存分に愉しむことができる。

 孔子による教えの中でまず最初にあるのは、「前・学」という段階。「孔子学団」では「礼」を学びやすくする為に、手順をマニュアル化しているのだが(これを曲礼という)、それらを表面的になぞるだけでは本当の「礼」を身につけることは出来ない。孔子の時代における「学」とは、現代における学校の授業のようなものではなく、身体を使って覚え込む「秘儀」のようなものだったのだ。(著者が演じている能を始めとして、歌舞伎や落語といった日本の伝統芸能においては、「芸を盗む」という表現があるが、まさにそれと同じといえる。)マニュアルを使って正しく「学ぶ」には、まず本人にそのための“素地”が無ければならない。(これって「カイゼン」や「カンバン方式」など、トヨタの生産システムの導入と同じ話かもしれないな。他の企業が表面的な仕組みだけを真似しようとしても、上手くいかないのだよね。いわゆる「トヨタのDNA」と呼ばれるものを理解せず、マニュアルだけ似せてみても駄目という話に近い。)
 学びを始めるための“素地”を身につけるにもまずは修行から。その過程を称して「前・学」というのだそう。ちなみに「前・学」で身につけるべき素養とは、具体的には「孝弟」と「信愛」をベースにした行動のことだそうだが、長くなるのでここでは省く。

 「前・学」を終えた者はいよいよ「学」の段階に移る。先ほども述べたように、孔子の時代には「学」というのは“秘儀の行法”のようなもの。
 孔子にとって「詩書」とはただ単に「読む」ものではなく、声に出して謡うものだ。謡うことの本来の目的は、”神霊”(=古代において「命」として理解されていたもの)との交感に他ならない。舞(まい)を舞ったり色々な通過儀礼を行う「詩書と執礼」の実践を通じて、弟子たちは世界/命と自分/心を結ぶ秩序について、長い時間をかけて学んでいく。著者が膨大な漢字研究の成果を踏まえて、これらの内容を順に解き明かしていく様子はまさに圧巻のひとことにつきる。(口調は軽やかだけどね。)
 印象に残った話をいくつか紹介していこう。例えば次のような話。
 弟子のひとりが問いかけた「人が一生行うべき徳目とは?」という質問に対して師匠(孔子)は答える。それは「恕(じょ)」だと。「恕」とは読んで字のごとく(笑)、まさに「如く(ごとく)」という字の下に心がついたもの。ところが孔子の時代には「心」という字がない。とすれば、「心」がつかず発音も同じ「如(じょ)」という文字が使われていたのではないか。これが著者の推理。
 これはすなわち、“相手の心のごとくになる”(相手に共感し相手の身になって考えてみる)ということだ。それこそが「己の欲せざるところ、人に施すこと勿れ」という言葉の真髄なのだと著者はいう。今まで自分が『論語』に対して持っていた解釈がことごとく覆されていく快感。読書の醍醐味とはまさにこのような事をいうのに違いない。
 著者の本職である能楽師ならではの視点も、本書の説得力を増すのにまた一役買っている。たとえば上記の「恕」を身につける方法だが、まず「型」から入る事が肝要なのだとか。理屈ではなく形をひたすら模倣し続けていると、心はあとから自然に付いてくる。だからこそ修行の間は迷いを捨てて、ひたすら師匠の言うことを愚直に守るべし。まさしく芸能や技能の真髄だとおもうのだが、まさか『論語』と繋がっていたとは。
 話はとぶが、「天」という漢字を語源に遡ると、本来は「人」の中に入り込んだ超越者(神、命、上帝)を意味するらしい。仏教用語でいう「真如一体」の境地にほど近いわけだ。著者によれば「天」とは本来自分の中に探すべきものであるとのこと。儒教といえばやたら礼儀や形を重んずる堅苦しい学派だとばかり思っていたのだが、なんだか違うみたい。秘儀だとか芸能だとか心の処方箋だとか、全く違う視点で読み解く事で、『論語』の古臭くて余分な記述と思っていたところが、鮮やかに甦ってくる。目からポロポロと何枚もウロコが落ちた。(笑)

 またこんな話も。
 心を明らかにして「仁」(***)に近づくための方法として、『論語』では身体を動かす「学」とは別に、「思(し)」という修行を行う事を勧めている。「思」とは静かに座って沈思黙考することであって、「学」で学んだことを自分の中で静かに熟成させていく過程のことだ。「学んで主わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」という言葉もそのような前提で読んでいくと、今までとは違った印象に見えてくる。
 冒頭でも述べた「四十にして惑わず」という言葉の解釈も面白い。「惑」という字も孔子が言った言葉ではなく、本来は「心」がない「或」という言葉だったのではなかったかと。とすれば、「或」の原義である「境界を引いて限定すること」という意味からすれば、この文は本来「四十代というのは自分を限定してしまわず、もっと可能性を広げるべきだ」という意味に解釈できる。今までの「四十になって迷いがなくなった」なんてものとは180度違ってくる斬新な解釈。(たしかに自分を翻ってみても、とても四十代で煩悩を吹っ切れるわけがないと思うし、まだまだ修行中の年代と言われたほうが納得がいく。)

 ***…「仁」とはすなわち「(他)人に対する思いやりの心」のこと。親族に対するもので
     ある「親しみ」の心とは違い、他人に対して行うものなので、ある節度をもってする
     のだそう。そのもっと先には、物(=禽獣草木)を大切に思う心である「愛」を
     もってする、世界との接し方が続いている。

 思えば今の日本、「礼」を無くした人達が如何に多いことか。すぐキレル老人や傍若無人にコンビニ前にたむろする若者など、年齢には関係なくそこらじゅうに存在する。都市化の波で地域の共同体が崩壊したところを中心にして、壊れた世界は増え続けている。これは日本に限った話ではない。驚異的な経済成長を続ける中国を始めとして、アジア地域の新興国に目を転じても、全く同じことが言えるだろう。自分がその中で”生かされている”環境で(=自然や社会といったもの)に対して「礼」を失ってしまった人は、年々増え続けるばかり。孔子の時代よりもむしろ、今の時代にこそ「仁」が求められているのかもしれない。(ちょっとジジイの繰り言になってしまったかな。/笑)
 正直いって学術書でここまで充実した読書体験は初めて。『論語』を読んだことがある方は、是非とも本書を一読して頂くといいかも。まだ『論語』を読まれたことが無い方も、一度目を通されてから本書にトライしてみてはいかがだろう。きっとそれだけの価値はある、愉しくて充実した「活字のひととき」が味わえると思うよ。

<追記>
 本書を読んでみて今回初めて分かったことがある。それは学術書において自分が求めていた「理想」というものが、小説に対するそれとは違っていたということ。どうやら小説の場合に高得点をつける条件は”茫然自失の読後感”と、作品の中にひとつの”閉じられた完全なる世界観”が得られることのよう。対して学術書の場合に重要なのはそれとは逆で、“読んでいる間のワクワク感”と、そこから得られる”現実の世界へと広がる解放感”なのだった。この本、自分としては学術書で初の記念すべき「100点満点」を付けることにした。このあたりの感覚を頼りに本を探せば、まだまだ面白い学術書に出会えそうな気がするぞ。
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No title

こんばんは。
今回も読みながら、「あーなーるほど」とついつぶやいてしまいました(笑)
特に「恕」と「四十にして惑わず」はとても面白かったです。
ぼくも、悟りを開く、ようなことだと思っていました...
どうも論語とか、法句経なんかはついありがたいものとして、読んで字のまま捉えてしまい、それで知った気になって自分の中で考え直す、という作業がなかったように思います。
こういう発想というか、考え方ができるようになりたいものです。

論語あなどれません(笑)

慧さん、こんにちは

前に『論語』を読んだときは、(もちろんそれなりに面白くはあったのですが、)割と当たり前のことを書いてるなあ、という程度に思ってました。

でもよく考えたら、今の価値観で読んじゃいけないんですよねー。相手の立場になって考えてみるというのは、何事でも大切な事だと思いましたw

No title

舞狂小鬼さま、気に入っていただけてさいわいです。それにしても、“読んでいる間のワクワク感”と、そこから得られる”現実の世界へと広がる解放感”というのはいい表現ですね。小鬼さまはすぐれた学術書の定義としてお使いになっていらっしゃいますが、ぼくはすぐれたSF小説もこの定義に近いと思っています。

ご紹介ありがとうございました

まもる様、こんばんは。

大変に良い本をご紹介いただきありがとうございました。とっても気に入りました!

なるほど、たしかル=グインも優れたファンタジーについて同様の話をしていたような気がします。(記憶が不確かですみません)
結局のところ優れた本は皆、現実世界へと広がっていくものなのかもしれませんね。納得ですw

No title

生きるための論語と言う本がおすすめ。
絶対、気に入ると思う。

通りすがり様

こんばんは。
コメントありがとうございます。

『生きるための論語』ですか。
ありがとうございます、今度探してみます。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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