『連塾 方法日本Ⅲ フラジャイルな闘い』松岡正剛 春秋社

 3年間にわたって追いかけてきたシリーズ、松岡正剛による全3巻の講義録『連塾 方法日本Ⅰ~Ⅲ』が本書をもって無事完結した。良い機会なので、今までの分もあわせて内容をざっと紹介しておこう。
 松岡正剛と聞いてまず真っ先に思い浮かぶのは、『千夜千冊』ではなかろうか。膨大な読書量と読解力をもって読む者を圧倒する驚異の書評群は、まさに「本読みの達人」の名が相応しい。あるいは雑誌『遊』の発行をふりだしに編集工学研究所やイシス編集学校へと続く、「編集者」としての彼を思い浮かべる人も居るかも知れない。
 セイゴオ氏にはそれ以外に「著作家」という貌もある。『千夜千冊』や編集工学に関する著作を除いたオリジナルとしては、タイプは概ね次の3つに分けられる。
 a)特定の人物に焦点を当てて生涯や思想を紹介する評伝
 b)若い人に向けて書かれた、生きていく上で大切なものの見方や知識(*)
 c)今まで「日本」が培ってきた優れた部分の分析と再評価

   *…ちなみにa)に当たるのは『白川静』『空海の夢』『法然の編集力』などで、
     b)に当たるのは『17歳のための世界と日本の見方』『わたしが情報について語る
     なら』など。

 この中でもっとも多くの種類があり内容も読み応えがあるのは、やはり何といってもc)のタイプ。(『日本という方法』や『花鳥風月の科学』といった書名が頭に浮かぶ。)本書もその流れに位置する講義録だ。以上、ずいぶん前置きが長くなってしまったが、折角なのでこの『連塾シリーズ』の背景についてもう少し説明をしておきたい。(説明しないと多分内容が少しわかり難いしね。)

 著者のスタンスを簡単にまとめてみると、「日本」を“主語”すなわち「国体や国民性といった“主体”」として捉えるのでなく、“述語”つまり「オリジナルの“方法/道具”」として捉えるということ。「日本とは何か?」や「日本人とは?」などという問い方をしてもそこに有意義な答えはなく、むしろキナ臭い話や宛ての無い自分探しに陥るのが関の山。すなわち従来の日本論は問題の立て方自体が誤っており、それより世界的にみてもユニークな日本の“方法”を有意義に活かすべき――というのがセイゴオ氏の持論だ。
 そう言われてみると確かに、近代になって西洋の列国を前に急拵えで作られたナショナリティより、古来から綿々と培われてきた伝統的な考え方/メソッドの方がよほど役に立ちそうな気もしてくる。「日本あるいは日本人は○○である」ということを追求しても、必ずこぼれ落ちるものがあるに決まっている。だからそんなことより「日本の“方法”は何に使えるか?」ということを考えた方がよほど建設的という意見は、ある意味納得できる。(少なくともその方が間違いなく面白くなりそう。)
 ちなみに彼が言う日本古来のメソッドには色々なものがある。一例を挙げると、たとえば“デュアルスタンダード”。「相反する価値観の並立」とでも言えば良いだろうか。キーワードとしては「てりむくり」や「合わせ/揃い/競い」といったものがある。他の例としては「負の思想」というのも。これは“余分なもの”を削ぎ落すことにより、直接的に表現できない儚さや豊潤さといった概念を暗示しようとするもの。キーワードは「枯山水」や「フラジャイル(こわれもの)」など。以上の具体例に関する詳しい説明は、いずれも『山水思想』『花鳥風月の科学』『フラジャイル』といったcタイプに属する著作で述べられているのだが、正直全部に目を通すのは大変だろう。そこでこれらの内容をざっくりとまとめた本が『日本という方法』(NHKブックス)として出されている。ここではこれ以上詳しく触れないが、興味のある方は一度読まれてみてはどうだろう。

 次は本シリーズの成立経緯についても少し補足を。
 日本という“方法”についてこれまで多くの考察をまとめてきた氏に対して、聴衆を前にまとまった形でその知識を披露して欲しいという声があがったのはおよそ9年ちかく前のこと。発起人たちはその為に「連志連衆会」という非営利法人を立ち上げ、「連塾」と名付けられた講義が2003年7月から2005年6月までの足掛け2年あまりに亘ってつごう8回開催された。ちなみに「連(れん)」というのは(江戸学者・田中優子氏の著作でも紹介されている)徳川時代にあった俳諧師のネットワークの名前。緩やかで自由なネットワークであり、有志による今回の活動に相応しいと名付けられたよう。講義の開催場所は毎回かわり、大きな貸ホールばかりでなくカナダ大使館や学士会館、根岸の西蔵院というお寺などでも開かれた。その都度趣向を変えた演出がなされ、かなり刺激的なイベントだったようだ。その様子は本書にも写真で紹介されているが、お金と暇があったら一度くらい参加して見たかったなあ。(なお、連塾自体は現在もすこし形を変えて続けられている。)
 本シリーズはその「連塾」という講義の記録集であり、第1巻『神仏たちの秘密/日本の面影の源流を解く』には第1回から第3回まで、第2巻『侘び・数寄・余白/アートにひそむ負の想像力』には第4回から第6回まで、そして最終巻には『フラジャイルな闘い/日本の行方』には残る第7回と第8回が収録されている。以下、少し長くなるが、目次から各講義の題目を抜粋してみる。

 第一講)日本という方法―外来文化はどのようにフィルタリングされてきたか
 第二講)神話の結び目―日本にひそむ物語OSと東アジア世界との関係
 第三講)仏教にひそむ謎―仏教的世界観がもたらした「迅速な無常」
 第四講)「文」は記憶する―インタースコアとインタラクティブの歴史
 第五講)日本美術の秘密―枕草子・枯山水・宣長・幕末三舟・イサムノグチ・三宅一生
 第六講)「負」をめぐる文化―引き算と寂びと侘び(夢窓・心敬から天心・九鬼へ)
 第七講)面影と喪失―なぜ日本人は喪失をもって面影としてきたか
 第八講)編集的日本像―メディアステートとしての去来日本

 今までに彼の著作を一冊でも読んだことがある方なら想像がつくと思うが、例によって話はとんでもなくあちこち飛ぶ。例えば第一講の主な話題は、和洋折衷にみられるような“相反するもの”の両立(絶対矛盾の自己同一)について。話題としてはサザンオールスターズの歌だとか内村鑑三の「二つのJ」、建築家ジョサイヤ・コンドルから小泉八雲まで様々な人やものが取り上げられている。このスタイルに慣れないうちは結構戸惑うと思うが、独特のドライブ感や視界が無理やり広げられていくような感覚こそが、セイゴオの醍醐味といえるかも知れない。

 第1巻と第2巻(第一講~第六講)については、割と今まで彼が書いてきたことのおさらいに近い部分が多い。従って松岡正剛に興味があるがどの本から手を出せばいいか判らない人には、話し言葉なのでわかりやすいし、入門編として良いかも知れない。それはそれで面白かったのだが、古くからのセイゴオファンである自分にとって、本シリーズの白眉は何といっても本書(第3巻)『フラジャイルな闘い』に尽きると言える。
 第七講で取り上げられるテーマは、徳川末期から太平洋戦争の敗戦に至る日本史の闇の部分について。なお先ほども述べたように、本書の主眼はあくまでも“主語”ではなく“述語”としての日本。本講では歴史のターニングポイントとなった出来事やその時の政治家の判断、さらにはその陰で暗躍した思想家・活動家たちについて濃密な講義が続いていくが、彼自身はそれらについて一切の判断を下さない。判断は聞いた各自に委ねられていて、ここではただ淡々と事実を述べていくだけだ。(**)大変に重い、しかし読みごたえのある章だった。

  **…本書を読んだ少し後に、テレビで司馬遼太郎『坂の上の雲』の最終話がちょうど
     放送されていた。本当に一切の美化も断罪もなく歴史の事実を描くことが可能なの
     か...などということを考えつつ、バルチック艦隊との日本海海戦のシーンでは
     日本海軍の活躍につい心が鼓舞される自分がいたのも事実。たしかにテレビドラマ
     としては近年稀に見る素晴らしい出来と思うが、ドラマである以上あの作品脚色が
     一切なかったといえば嘘になる。(そして司馬遼太郎の原作自体にも同じ事が。)
     そのあたりがフィクションで歴史を描くことの限界なのかも。司馬遼太郎は生前に
     『坂の上の雲』だけは映像化を許さなかったという話を聞いた事があるが、近代を
     テーマにする危険性を彼が充分に自覚していたことの表れなのだろうか。

 最後の第八講では自らの自伝的な話を織り交ぜながら、方法日本についての重要なキーワードがまとめて語られる。たとえば方法日本をグローバルな視点から見るためのフィルターとなる“五つの窓”はこれだ。
 1)generation(ゼネレーション)
   その時代や社会にあった変わりゆく「型」で概括的にものを見る。
 2)animation(アニメーション)
   マテリアルな「物(モノ)」とスピリチュアルな「霊(モノ)」の両方が動く
   「もの・がたり(物語)」の視点。
 3)representation(リプリゼンテーション)
   見立てや依代(よりしろ)による、実体の直接表現を避けた面影を感じること。
 4)penetration(ペネトレーション)
   数寄(すき)や本歌取りにみられるように、ある価値観が別のところに浸みいって
   いくこと。
 5)particularization(パティキュラリティ)
   「格別」や「とりわけ」といった言葉で示されるような、特有のこだわりに自分を投じ
   ていくこと。(アイデンティティや自分探しでなく、対象の中にこそ自分を探す。)

 また“五つの窓”と別の視点でまとめられた“メルクマール”(指標)も6つある。
  A=取り寄せ・見立て(寄物陳思・類館呪術)
  B=異種配合・共存(和光同塵・本地垂迹・公武合体)
  C=グローバル・ローカル(和魂漢才・コードとモード)
  D=セット・シリーズ・ゲーム
  E=表裏一体・間柄(あいだ・うつろい)
  F=物語・イコン・システム(仕組・仕立・仕事・仕様)
 詳しい説明は省くが、字からだいたい想像がつくと思う。これらも東アジア末端に位置し、日本という名で呼ばれる島国に「方法」として脈々と奥底に流れてきたものなのだとか。

 おもえば今までセイゴオ氏には、本を読むことの「本当の面白さ」について教えてもらったような気がする。読書の際に面白さを感じる点は人それぞれだろうが、個々の本がもつパフォーマンスをを最大限引き出して愉しむ方法として、彼のスタイルはかなり参考にさせてもらっている。本書を含む『連塾 方法日本Ⅰ~Ⅲ』のシリーズは、そんなセイゴオ氏が自らの読書体験で培ってきたものを使って、彼がもっとも興味をもつ対象「日本」について熱く語ったもの。まさに「著作家」松岡正剛に関する現時点での集大成と言えるだろう。

<追記>
 今の国際社会で自分が感じているのは、今日のような市場原理の急激な拡大&変化に対する統治方法として、従来の国家という枠組みがもはや有効で無くなっているということ。民族問題に端を発するテロ事件や一連の通貨危機などは、国の枠を遥かにこえたグローバルな問題であり、まさにA・ネグリが『<帝国>』等の著作で指摘したものと同じ。そしてその対抗手段として有効なのは、同じくネグリ(『マルチチュード』)や柄谷行人(『トランスクリティーク』『世界史の構造』)、竹田青嗣(『人間的自由の条件』)らによって提案された思想/行動原理なのではないかと個人的には思っている。
 実は松岡正剛が常々主張している「日本という方法」は、これらの原理を具体的な行動につなげる際のとても有効な道具(思考方法)になるのではないかと、密かに考えているのだ。もしそれが可能なら「日本」という国に生まれた自分たちが、いまや沈没しそうなこの国の枠を超えて国際社会に広がっていける可能性もなくはない。
(もっともその時には、「日本人」という言葉のもつ意味も今とは違ってくることになるだろうし、またなるべきと思っているのだが...。)
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