能と無常とマコーマック

 先日、マコーマックの『パラダイス・モーテル』についての感想をアップしたとき、おまけとして「パラダイス・モーテル=複式夢幻能論」というのを書いてみた。マコーマックを何でわざわざ日本の伝統文化などと比較するのか?という声が聞こえてくるかと心配したが、逆にありがたいことに、訳者の増田まもる氏ご自身から「おもしろい」というお言葉を頂戴して、すっかり舞い上がってしまった。折角なので同じネタを使ってもう少しマコーマックで遊んでみようと思った次第。(なんせ根が単純にできているので。/笑)
 この手の小説にあまり興味の無い方には退屈な話題かもしれないが、宜しければもう少しお付き合いの程を。

 先回書いた内容は、『パラダイス・モーテル』のスタイルに「能」との共通点があるという事と、全体に流れるムードは「無常観」であるという2点だった。この件について詳しく述べる前に、まずは「能」の特徴について簡単にふれておきたい。
 「能」というのは、かつて「申楽(さるがく)」とも呼ばれていた日本古来の芸能のひとつ。室町時代に大きく発展し、足利義満の庇護をうけた観阿弥・世阿弥の親子によって、現代まで伝わる基本的な様式が確立した。世阿弥が一族のために演者の心得をしたためた門外不出の書が、かの有名な『風姿花伝(ふうしかでん)』。「秘すれば花」だとか「序破急」など、今でもよく知られる言葉の元になっている。
 かの書によれば、能の基本とは「女/老人/物狂(ものぐるい)/修羅/鬼…」といった様々な対象を、いかにしてそっくりに「ものまね」するかということのようだ。いかに「成りきるか」と言い換えても良い。(*)

   *…この話を突き詰めると、もしかしてシャーマニズムや八百万の神といった日本的な
     宗教観とも通じるところがあるのかも知れない。

 ちなみに演者が対象を演じ切ったときに舞台に出現する”価値”のごときものは、「花」という言葉で説明されている。(「舞台に神が降りてきた」みたいな感じか?)言ってみれば、演技に見栄えがして観客を魅了する力があることだと思うが、例えば若い演者がもの珍しさによってひと時の人気を得ることを“時分の花”といったりもする。ただし時分の花は長続きせず、いつかは枯れてしまうそうだ。
 武士や鬼といったものを演じる場合には「強き(≒荒々しさ)」もある種の「花」となるようだが、世阿弥によれば何といっても“幽玄の花”こそが最上とされる。舞台を演じるだけで「幽玄」を生みだせるような、持って生まれた才能を持つ人もいるが、長年に亘って研鑚をつむことで、殊更に意識して演技せずともその境地に至ることを理想とする。(**)

  **…「物数を究めて、工夫をつくして後、花の失せぬところをば知るべし。」
     すなわち長年にわたって「花」を持ち続けた演者に勝るものはないということ。

 次に話は変わって、“複式夢幻能”という能の形式について少し。
 昔の能は「中入り」を挟んで舞台が前場と後場のふたつに分かれていたそうで、その形式を現在の一つ場(単式)に対して複式と呼ぶらしい。典型的な例をあげてみると、最初にワキ(脇役)の旅の僧が登場して、里の老人(シテ/主人公)から土地のいわれを聞くのが前場。前場の最後では、その老人が実は亡霊の化身であることがわかり、後場になって正体を現した亡霊が、自らの思いを滔々と語った上でやがて成仏していく…というのが大まかなストーリー。
 すなわちシテは、場面によって役柄を入れ替えることで夢と現実の境界を曖昧にしていき、やがて夢幻と静謐の世界―「幽玄」の境地を生み出していく役割をもつ。どうやら「ワキの夢の中でシテが夢を見ている」などという複雑な構造を指摘する人も居るらしい。(←これはWikiからの受け売り。/笑)
 また能の場合、演者が直接セリフ(謡/うたい)を述べる以外にも、伴奏者である「地謡(じうたい)」が演者の心理状態や感情をシテの代わりに謡う事もあって、これも夢と現(うつつ)を溶かし込んでいくのに一役かっている。(まるで書き割りに直接セリフが書かれているような感じ。なお自分などは夢と現実が交差する舞台を見ているうち、まさに“夢うつつ”になってしまう。/苦笑) そして物語の最後、静かに消えゆくシテをみている観客の心には、まさに「無常観」が去来するというわけだ。
 なお、夢幻能には前後の2つの場面しかないが、『パラダイス・モーテル』の場合はざっと数えたところ場面が7つ。それらが入り乱れて夢幻の世界が繰り広げられている。ただし個別の話の枠組みはかっちりとしているため、通常のメタフィクションを読む時のようなゾワゾワする不安定感はない。(このあたりは、一見同じような語りにみえる『ミステリウム』と『パラダイス・モーテル』を比べた時、最も違っている点ではなかろうか。)
 ポストモダン小説の定義にはさほど詳しいわけではないので違っているかもしれないが、技巧を凝らした作風を駆使することで、従来の小説の枠組みを意識して踏み外そうとするのがポストモダン小説なのだとすれば、『ミステリウム』はまさにそれにあたる気がする。けれども『パラダイス・モーテル』については、もっと古典的な部分に通じるところがあるような気がしている。近代小説の作法とは確かに違うのだが、「ポスト」ではなくむしろ原点回帰のような感じが。

 話を戻そう。この「無常観」という概念は、決して能の専売特許というわけではない。『風姿花伝』に遡ることおよそ200年あまり前。平氏との争いを制した源頼朝によって鎌倉時代が幕を開けるまでは、「武者(むさ)の世」「乱世(らんせい)」などと呼ばれた戦乱の時代。世は乱れて盗賊が跋扈(ばっこ)する上、伝染病や飢饉に倒れる人も多く、明日をも知れぬ日が長く続いた。平安時代を代表する仏教であった天台宗や真言宗の場合は、出家して僧院で長く修行することによって悟りを開く、いわば「学問仏教」だったわけだが、戦乱の世においては人々にそれだけの時間をかける余裕などない。(***)

 ***…そこで「悟りの仏教」から「(衆生の)救いの仏教」へと大転換を図ったのが、
     「専修念仏」すなわちひたすら念仏を唱えれば救われると説いた法然(浄土宗)。
     あとに続く親鸞(浄土真宗)もそうだし、道元(曹洞宗)や栄西(臨済宗)の禅宗
     も、「頓悟」という悟りへの“ショートカット”を説いたことでは皆同じ。更には
     日蓮も、法華経を信じれば救われるという単純明快や教えによって、いわゆる
     「悟りのプロ」である僧侶ではなく、一般の人々を救うことを最重要に考えていた
     とおぼしい。

 厭世家であった鴨長明の『方丈記』にもみられる無常観は、やがて民衆の心にも深く浸透し、「驕れるものも久しからず」という認識は、平家の滅亡とともに法師によって津々浦々まで伝えられた。先ほども書いたように、日本では「世の無常」は過去から仏教によって脈々と語られてきたわけだが、武士社会になってそれがひとつの生き方/世界観として定着していった。それはやがて「儚さ(はかなさ)」という形で能にとりこまれ、幽玄の境地のもとになったと考える。(このあたり、松岡正剛の「フラジャイル」という概念にも通底するものか。)
 
 こうして考えると、“耽美と残虐”や“騙りと語り”の作家と呼ばれるエリック・マコーマックの作品に感じる無常観は、まさに先述したような日本独特の美意識(滅びの美学)に通じるものがあるような気がしてくる。他の方はどうだかしらないが、少なくとも自分のなかでは両者の印象は分かちがたく結びついている。訳者の増田氏によれば、マコーマックの作品が順調に翻訳・紹介され続けているのは、実はどうやら日本だけらしい。しかし日本人が世界で一番マコーマック好きな国民だというのも、こうして見るとあながち根拠がないわけではなさそうだ。

<追記>
 かように日本的な美意識と共通する点が多いマコーマックではあるが、すっかり和風の印象に染まりきらないのは何故か? その理由は日本人の感覚と一箇所だけ違う部分があるからではないかと考える。それは何かというと「笑いの質」。
 ヴォネガットのように一見アイロニーに見えて実はその影にペーソスを隠した“黄色い笑い”とも、もしくはレムのシニカルな“白い笑い”とも、はたまたスウィフトやボリス・ヴィアンのような“赤い笑い(嗤い)”とも違う。もちろんラブレーやカルヴィーノの宇宙的な笑い、そしてビアスの”黒い笑い”とも。
 彼らよりもっと無機質で鉱物のごとき“透明な笑い”こそが、マコーマックの身上ではないだろうか。もしそうだとすれば、明らかに日本人の笑いの質とは違うだろう。もっとも「笑い」について詳しいわけではないので、これ以上は深く考えてなどいないのだが。
 シェークスピアとかベルクソンをもっと読まなきゃだめかなあ。(笑)

<追記2>
 なお無常観ということでは、自分が好きな『百年の孤独』や『族長の秋』にも似たようなところがあると思う。だから自分は南米の魔術的リアリズム作家の中でも、とりわけG・ガルシア=マルケスが好きなのかな?
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No title

舞狂小鬼さま  こんばんは。

わたしも能を見ると夢うつつになります。
最近、岩波新書の「能楽への招待」を読み
また能楽堂へ足を運びたくなりました。

『パラダイス・モーテル』を読んで
無常観に触れてみたいです。
今度、ぜひ読んでみます!

みどりのほし様

能をご覧になられるんですね。
私は脳を観ると途中で絶対うとうとしてしまうんですけど、
そこがまた何ともいえずよかったりして(^^;)。

マコーマックは結構むごい描写もあるので、
その手の話が苦手な場合はお気をつけくださいねw

No title

あけましておめでとうございます。
日本SF作家クラブの事務局長になってから、とにかく忙しくて、コメントを寄せたり面白い作品を紹介したりするひまがなくて、まことに申し訳ありません。今年こそはマコーマックを訳してリチャード・コールダーの『デッドガールズ』三部作を復刊させようと考えております。
それにしても、マコーマックの笑いは透明だというのはおもしろいですね。イングランドの笑いも独特ですが、スコットランドやアイルランドの笑いはさらに無色透明なのかもしれません。
ちなみに、無常観ですが、じつは仏教伝来以前から、日本文化の根底には静かな絶望感とでもいうべき「あきらめ」が存在していたと考えるに至っております。このあきらめをディーセンスィと訳すと、安倍公房や大江健三郎すら射程に入ってくるかもしれません。
また、ごく最近、「雷電」という菅原道真を主人公にした能をみたのですが、複式夢幻能のなかでも出色のできで、道真と比叡山の僧訪印坊との戦いなどはみごととしか言いようがありませんでした。むろん、面と衣装も完璧です。機会があったら、ぜひごらんになってください。

まもる様

あけましておめでとうございます。
日本SF作家クラブ、いよいよ50周年の年ですね。おめでとうございます!
池袋ジュンク堂のフェアにはなかなか足を向けることが出向くことが出来ず残念ですが、
ネットやツイッターでいつもご活躍を拝見させて頂いております。
マコーマックにコールダーですか。これは嬉しい!
さすがは「”耽美と残虐の”翻訳家」ですね(^^)、出るのを愉しみにしております。

無常観は奥が深そうですねー。(以前お話のあった自然災害との関係もあるのでしょうか。)
更には安部公房や大江健三郎までですか。それは思ってもみなかった関連です。今度読む時は、そういう目でも眺めてみたいと思います。

また「雷電」という能の演目は知りませんでした。ご教示有難うございます。早速メモしておいて、チャンスがあれば是非観てみたいと思います。

ところで以前教えて頂きました竹内整一氏と安田登氏ですが、
松丸本舗が閉店する前に出向いて探し、他の著作についても手に入れました。
そのうちじっくり読んでやろうと思っています。

それではお忙しいと思いますが、
お体を毀さぬようお気をつけて、お仕事がんばってください。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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