『澁澤さん家で午後五時にお茶を』 種村季弘 学研M文庫

 「異端の独文学者」が「異端の仏文学者」について書いた文章をあつめた本。(←褒めてます、念のため。)内容は文芸時評などで発表された書評や対談など、バラエティに富んでいる。なんせ本書で取り上げられている澁澤氏の著作を読んだのがだいぶ昔で、どんな本だったか思い出しながら読むためいつもより少し時間がかかった。特に気に入ったのは、朋友である澁澤龍彦が亡くなってから彼との思い出を語った一連の文章。心にジーンと沁みる。(*)

   *…今では種村氏ご本人までが旅立ってしまい寂しい限り…。と、そんな話をネットで
     つぶやいたところ、「きっと今頃2人はあちらの方で一緒にお茶でもしながら、
     好きな話に興じてるんじゃないか」というお言葉を頂いた。うん、そうかも。いや
     きっとそうに違いない。(^^)

 書評や作品論についてもかなり的確な内容が多い。例えば「澁澤龍彦は実はフェティシストではない」という指摘は、流石に著者ならでは。澁澤龍彦という人は一種の“台風の目”のようなものであって、フェティッシュなのは彼自身ではなく、彼の収集のお眼鏡にかなう対象群の方なのだとか。(サド然り、マニエリスム芸術しかりだ。)
 自分が持つもともとの資質から自己をさらけ出すのが「表現者」だとすれば、彼(澁澤)は専攻するテキストから様々な物事をとりだしてはコレクションする、いわば「エクリヴァン(作家)」とでもいうべき存在とのこと。
 また『思考の紋章学』が初期とその後を分ける大きなターニングポイントになっていて、それ以降の著作では澁澤が本来持っていた資質が十全に花開いたのだとか。サド裁判のころには澁澤自らがフェティシストのようなパフォーマンスを示すこともあったわけだが、晩年の彼は自身の初期スタイルを好んでいなかったとも。確かにそう言われてみれば、初期の著作である『黄金時代』などに比べて、後期の『私のプリニウス』とか『夢の宇宙誌』などはかなりのびのびと書かれている感じがする。ちなみにこのあたりは自分が特に好きな著作であって、読んでいると澁澤龍彦という作家の本質は、“具象”ではなく“イメージ”もしくは“観念”にあるという思いがひしひしとしてくる。まるで中世の神秘家たちがみた夢を食べて生きる“獏”のようだ。(笑)
 巻末に収録された「澁澤龍彦を読む」という章もすごい。河出書房新社から出版された全集に付された澁澤作品の解題を集めたもので、最初期の『黒魔術の手帖』から最晩年の『フローラ逍遥』までを取り上げ、執筆にまつわるエピソードを紹介していて圧巻。懐かしい書名の裏話が次々に出てきて、澁澤ファンとしては嬉しい限りだ。また読み返したくなってきたが、そのためには本棚をひっくり返さなきゃなあ。(笑)

<追記>
 今までは漫然と澁澤氏の著作を読んできたわけだが、本書を読んで頭の中をだいぶスッキリさせる事ができた。要するに彼の活動には3つの貌(かお)があるということだ。ひとつはエッセイストとしての貌。ふたつめは翻訳者およびアンソロジストとしての貌(編集者の顔といっても良い?)。そして最後がフィクション作家としての貌。本書によって、活動のスタンスが時代とともにどう変遷していったかも良く分かった。いままで自分はエッセイストおよびフィクション作家としての澁澤龍彦しか読んでこなかったわけだが、そろそろアンソロジストや翻訳者といった面にも手を出しても良いかも知れない。
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