『大衆の反逆』 オルテガ・イ・ガセット ちくま学芸文庫

 著者ガセットはスペインの哲学者。専門は新カント派で、活躍の場はもっぱら新聞などのジャーナリズムが多かったみたい。今の日本で言えば内田樹氏みたいな感じか。(ちょっと土屋賢二氏に似たところも?) 本書の刊行は1930年で、著者の政治的な文章をあつめたもの。20~30年代のヨーロッパといえば第一次世界大戦が終結し、スターリニズムやファシズムの影に不安を感じながらも、つかの間の“戦後の繁栄”を謳歌していたころ。本書は、その頃に存在が顕著となってきた「大衆」というものが持つ、潜在的な危険性の警鐘がテーマだ。
 ちなみにこのあたりの状況については、現代でも改善されるどころか、むしろ悪くなっているのではなかろうか。最近のヨーロッパ等に代表される国際情勢や、日本でも地方の首長選挙の様子などを見ていると、どうもそんな気がしてならない。

 閑話休題。それでは著者がいうところの「大衆」というのは、いったいどんなものか。
 著者によれば、人は社会性や精神面から見て2つのタイプに分けることが出来るのだそう。ひとつは自分を厳しく律し、進んで困難な義務を負う人々。精神的な“貴族”とでも言えば良いか。そしてもうひとつは生きる目標も向上心もなく、周囲に流されながら何となく日々を送る人々(*)。このような人は結構多く、且つそのような人ほどそのことに無自覚であると著者は述べる。彼らが“喫茶店での話題(今ならさしずめマスコミ報道や口コミ)”から得た情報を鵜呑みにして、「それに法の力を与える権利をもっていると信じて」行動し、“数の論理”で自らの短絡的な判断を社会に強制するとき、それが著者言うところの「大衆」という存在となる。(つまりかなり否定的な意味で使われている言葉。)彼らは自らのタイプに無自覚であるが故、実のところはとても狭い了見によるものであるにも関わらず、自己の判断が最善のものと信じて疑わない。そこが一番の問題というわけ。
 念のために言うと、著者は「実社会における階級」がそのまま「精神的な高貴さ」に直結すると考えている訳ではない。むしろそれははっきりと否定しており、社会階級とは無関係だと明言している。例えば貴族階級の人々の中にも、(世襲によってその地位を得たような人に多く、)どうしようもない「大衆」が存在するし、逆に民衆のレベルにも精神的な高みに到達している人々はいる。

   *…著者の言葉によれば、前者は「自分のうちに厳しい規律を維持することを自ら
     義務付けし、進んで困難と義務を負わんとする人々」であり、対する後者は
     「自分に対してなんらの特別な要求を持たず、したがって自己感性への努力を
     しない、まるで風のまにまに漂う浮標のような人々」だそうな。

 第一次大戦後のヨーロッパでは戦禍により社会環境が激変し、従来の貴族階級の没落とともに市民による実質的な支配が圧倒的な勢いで進んだ。また経済の発展に伴って、人類がかつて経験したことがない程に民衆の生活水準も上昇した。しかし「満たされ過ぎた」ことが原因なのか却って悪い影響も出始めたのだという。それは何かというと、それまでの階級別の“生き方のモデル”が通用しなくなり、自分の生の方向を見出せなくなった結果、新たな生き方を各々が見つけなければならない時代へと変化してしまったのだ。しかし大多数の人々は、新たな生き方を進んで切り拓こうという気概をもたず、(なお且つそれでも充分に生活を謳歌できる社会であるが故に、)社会を漂うだけの生活を送ることに。
 著者は本書の中で大衆のことを「慢心しきったお坊ちゃん」という言葉で呼んでいる。このお坊ちゃまたちは、「生の設計」も「未来の計画」も無しに生きており、自分たちがどこに向かおうとしているのかまるで分かっていない。甘やかされて育ったため、未来を自分たちの手で選択するということに責任を持たない「政治的なその日暮らし」なのだとか。これぞいわゆる「衆愚」ということではないだろうか。そしてその最終的な帰結こそが、ヒトラーへの白紙委任状だったというわけだ。

 まだまだ著者の“恨み節”は続く。大衆も様々な意見を言う事があるが、そこには先の展望があるわけではなく、ただ近視眼的かつ直情的に今の状況に反対するだけ。過去の歴史や先人の知恵に何も学ぼうとはせず、自分の中途半端な知識や倫理観が完ぺきなものと思い込んで今を取り仕切ろうと画策する。「豊かな社会」とは苦難の末に勝ち取られなければならず、努力して維持されなければ簡単に失われてしまう物だという事に気が付いていない。――以上、色々と辛辣なことを書き連ねたが、これらは著者による心からの 「怒り」であり、また「悲鳴」とも思えてくる。
 では、著者が主張するあるべき姿とは何だろうか? それはひとことで言ってしまえば、「真正」であれということ。自らが“したい”ことではなく、“しなければならない”ことを自覚せよ。これがガセットの言わんとするところだ。
 本書における著者の意見には、(細かいことをいえば)自分と「少し意見が違うかな」と思うところもあるけれど(**)、おおむね非常に真っ当な意見といえるだろう。少なくとも「慢心しきったお坊ちゃんたち」に対する著者の怒りと、彼らに下す“言葉による鉄槌”は誠にごもっともに思える。

  **…意見が違うのは筆者の考えが「ある種の君主論」だからなのだが、話が長くなる
     のでここでは省く。実は本書では他にも何か所か気になる点が無いでもない。
     例えばヨーロッパ至上主義。「ヨーロッパの技術はその基盤に“科学的思考”を
     持ち」、従って「世界で唯一ヨーロッパ技術だけが無限の発展の可能性をもつ」
     だとか、「それ以外の地域の技術は、ある程度の段階に達すると頭打ちになり、
     逆に後退を始める」といった文章を読むと、ちょっと引っかかりを覚えてしまう。
     他にはアメリカの発展を過小評価し過ぎる点なども。(これらは本書に対して若干
     時代の古さを感じてしまう原因でもあった。)しかし一方では、ネーション
     (国民国家)の本質が単なる政治的な線引きに過ぎないことを指摘し、今日の
     EU連合にあたる“ヨーロッパ広域統治体”を提唱しているなど、なかなかに
     先見の明もある。

 全般的に見れば、80年以上前の著作であるにもかかわらず、本書で問題とされた点は、現代にもそのまま通用すると言える。特に今の日本はまるで当時のヨーロッパ社会に生き写しで、なんら状況が変わっていない気がして、何ともはや...。
 もう終わってしまったことをあれこれ言っても仕方ないのではあるが、(自分も含めて)東名阪の有権者の人々は、首長選挙に臨む前にこの本を皆で読めばよかったんだと思うよ。今でも遅くないから皆で読んで、そして各々が考えてみるといい。(もっともこの本は「大衆は絶対にこの手の本は読まない」ということを述べているわけだけど。/苦笑)
 なんだか気分が暗くなってきたので(笑)、最後に著者の言葉を引用して終わることにしよう。

 「一つの社会が意見を異にする集団に分裂していて、それぞれの意見が相殺されるような場合には、(中略)その世論の力の不在がもたらす空白を凶暴な力が埋めることになる。そして最悪の場合には、その暴力が世論の代用品となる」

 ――この事態を招くも防ぐも、すべての「大衆」が自分たちの持つ力の強さと恐ろしさを自覚できるか否か、その点にかかっているといえるのではないだろうか。(なんてね。もちろん自分だって偉そうなことは言えないけど。でも、物事を考える習慣だけでも忘れないようにしたいものだ。)
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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