『第二の性』 ボーヴォワール 新潮文庫

 ※今回はかなり長くなってしまい申し訳ない。読む方は全然「お気らく」じゃないかも。

 言わずと知れた、ジェンダー論やフェミニズム論の記念碑的な著作。著者は哲学・思想家であり、サルトルの生涯のパートナー(事実婚らしい)でもあった、シモーヌ・ド・ボーヴォワール。ここのところジェンダー論に興味が湧いてきて、まずは古典的なところからおさらいしようと思い立ったのが、本書を読んだきっかけ。
 ところがいざ読もうとするとなかなか見つからないもの。たまたま入った古本屋でやっと見つけたのが全5巻の本書・新潮文庫版だったというわけ。
 ということでさっそく紹介に移ろうと思うのだが、さてどこから手をつけたらいいものか。本の内容自体にも翻訳のされ方にも話題にはこと欠かない。まずは書誌的な内容から始めてみようか。

 最初にお断りしておきたい事がある。原著がフランスで刊行されたのは1949年。日本ではその僅か4年後に仏文学者の生島遼一氏によって日本語版が出版された。当時のベストセラーになったらしく、自分が読んだのもその生島版なわけだが、実はその生島版に色々といわく因縁があるのだ。
 原著の構成は2部に分かれていて、第1部は「文献篇」として導入部を兼ねながら古今東西の歴史的エピソードや思想、文学といった資料に基づき、様々な女性観が俯瞰される。つづく第2部「体験篇」ではその内容を踏まえ、女性が生まれてから結婚・出産を経て生涯を閉じるまでについての「実存哲学」からみた考察が、第1部よりもさらに詳細になされる。(第2部の冒頭に書かれた「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉はあまりにも有名。)この構成は読者にまず概要を知らしめた上で具体的な分析にうつるという、著者の意図に基づくものとなっているよう。
 ところが日本語版では第2部と第1部の順番が入れ替えられて、第Ⅰ~Ⅲ巻までが第2部、第Ⅳ~Ⅴ巻が第1部という変則的な形に変えられてしまっているのだ。「この方が分かりやすい」という訳者の判断によるもののようだが、実際読んでみたかぎりではどうかと思う。さらには副題も原題どおりではなく訳者が考えたオリジナルに書きかえられてしまっている。当時の出版界ではよくある慣習だったのかもしれないが、原著に勝手に手を入れるというのは今から見るとちょっとどうだかなあという気が。(文章についてもどうやら原著を曲解したり意味を取り違えたりしているところがあるようだし。)

 このあたりについては、やはり色々と物議があったようで、後に“『第二の性』を原文で読み直す会”による改訳版が『決定版 第二の性(上中下)』という題名で出版されている。(こちらも現在では入手困難。)
残念ながら今回はそちらを手に入れることが出来ず旧版で読んだのだが、今から思うともう少し頑張って探しても良かったかも。これから読んでみようという方は気をつけて頂きたい。

 次に本書における著者の基本的なスタンスと時代背景について。簡単にまとめてしまうと、著者の主張はおおよそ次のような感じといえるだろう。

  ■男性が中心の世界で、女性はこれまで不当な差別を受けてきた。
  ■男と女の間には肉体的な相違しかなく、精神的・心理的な能力や特性は全く差はない。
  ■女性が持っているとされる特徴は、社会から後天的に押し付けられたものに過ぎない。
  ■性の違いに関するあらゆる区別(差別)はそれを撤廃すべき。

 歴史的に見ると、女性は今まで受動的であることを要求されてきた。多少は改善されたとはいえ、今の社会においても女性が“実存”すなわち“生きる主体”として、能動的かつ自由に生きたいと願うなら、社会的な役割としての「女性」という立場と自分の思いの間で板挟みになる。それを克服するには何が「真の原因」なのかを探る必要があり、まずは社会的な色眼鏡をすべて取っ払って客観的に眺めてみよう。―― これが本書における著者の考え方。そのため本書では、歴史学/哲学/社会学/生物学などあらゆる角度から、女性の生き方について詳細な分析がなされている。
 著者の主張のうち、社会活動の全てを「男vs女」という単純な鋳型に嵌め込んでしまったり、肉体的な違いを除いては性差というものは存在せず、あらゆるものが後天的に押し付けられた偏見に過ぎないというあたりは、正直いって少し極端過ぎる気がしないでもない。読んでいて最もつらいのは、攻撃的なスタンスでひたすら「男」を断罪する形をとっているところ。今でさえ女性は生きにくい時代だし、まして本書が書かれた時代はその傾向が強かっただろう。従って著者が男という性別に対して厳しめの態度をとるのはやむを得ないが、当事者としては正直いって「もう勘弁して~」というくらい。あまり長時間に亘って読んでいると心がヘタってしまいそうになるほどだ。(特に第2部。)
 ひとりひとりを見ないで「○○人」と一括りで論じることは、決して建設的ではないのでは?と感じた次第。社会差別や国際紛争の原因だって多くはそのような点にあるわけだし。しかし不当な差別を受けてきたという著者の主張は誠に正論であるし、これらの主張がある意味で政治的な色合いを持たざるを得ないのも理解出来る。何故、社会のルールがこんな風になってしまっているのかに関しても、以前から疑問に思っていたところなので、今回はいい機会としてじっくり考えてみた。

 まず原理原則としては、以下のような事なのではないかと。
 maleとfemaleの違いには、3つのレベルが存在すると思う。まずひとつ目は遺伝子的な相違。ふたつ目は遺伝子の働きにより作られた器官によってホルモンが分泌され、それによって出来あがる身体的・外観的な相違。そして三つ目が性差による文化や社会的役割に関する相違だ。ひとつ目とふたつ目については(成長の際に何らかの障碍が発生しない限りは)ひとまとめで考えて良いと思うので、ここでは話を簡単にするために「生物学的な違い」として括ることにする。
 最初の生物学的な特性の違い、たとえば体型や脳の構造(例えば女性は脳梁が男性に比べて太いことなど)、もしくはホルモンによる生理的な面に焦点をあてた区分けを、仮に「雄性」「雌性」と呼ぶことにしよう。また勇敢さ/決断力/論理的/能動的…といったいわゆる“男らしさ”を象徴する特性と、優しさ/気配り/情緒豊か/受動的…といったいわゆる“女性らしさ”を象徴する特性の区分けについて、これを「オトコ性」「オンナ性」と呼ぶことにする。一般的には「オトコ性」「オンナ性」は生物学的な「雄性」「雌性」に付随する特性として一緒くたにされていると思うが、ここでは文化的な特性として区別しておく。
 こうしてみると、生物学的な「雄性」「雌性」と文化的な「オトコ性」「オンナ性」を前提として成り立っている社会的な役割分担などの全てを総合した区分が、いわゆる普通に使われる意味での「男性」「女性」と言えるのではなかろうか。こうして整理することで、本書が発表された当時のバイアスもはっきりするのではないかと思う。

 まず「雄性」と「雌性」の違いについて。本書の時代には、性別というものは完全に二つに分かれるものと考えられていたが、現在ではグラデーションのように様々な中間段階があることや、脳の性別と身体の性別に食い違いがあるケースがあることも明らかになってきている。(そしてどちらかの区分に無理やり押し込めようとすることが、一部の人々への差別を生む原因になっていたということも…。) つまり生物学的な意味においての“性差”については、境界が揺らいでいるというわけだ。
 また先ほども書いたように、著者は「オンナ性」とは男系社会によって一方的に押し付けられた偏見であり、生物的な特質とは全く無関係な特質だとしている。しかし本当にそうなのだろうか?
 その後の研究やアフォーダンス理論などの進展により、精神は身体と地続きであってデカルト的な“心身二元論”は成り立たない、という考えが現在では主流を占めていると思う。もしそうなら、(どこで線を引くかは別にして、)「雌性を持つが故のオンナ性」という話も充分にあり得る話となる。本書のように性差の全てを否定的に論じるのでなく、もっと肯定的に捉えるところもあってしかるべきではないか?という気はする。
 また「文化とは何か?」ということを考えてみると、それは「人がこの世に生を受けてから後天的に学んでいく生活体験の全て」であるといえるだろう。であれば、その核となる部分には個人が自らの“生”を形作るための価値観/世界観が存在し、それらの多くは「どこの地の、どこの社会の、どこの家庭に」生まれ育ったかによって規定されるはず。こうして培われてきたひとりひとりの価値観が集まって、社会の共通認識となったときに、それを称して「文化」と呼べるのだと思う。(以上は文化人類学者の片倉もとこ氏からの受け売りだが。/笑)
 「文化」が後天的なものであるとすれば、その反対は生得的なものとなる。すなわち遺伝的/生物的に規定されているものと言えるだろう。代表的なものとしては生き物の種類や性差がそうだ。
 もしも生物的な違いを前提にして、その上に文化的な「差別」が付け加えられとしたらどうだろう。言葉や社会による違いは明らかな「文化」として区別がつけやすいが、性差などの生物的特徴に起因する差別は生得的な特質によるのか後天的なものなのか区別がつけにくいはず。これが問題をややこしくしている最も大きな原因といえる。生得的な特徴であるのか文化的な特徴であるのかを、よく見極めた上で議論していかないと判断を誤ることになる。

 おそらく最初は、腕力だとか身長差だとかの身体能力的な差や、妊娠および授乳期間中に外敵から守ってもらう必要性から、男女の役割分担が徐々に決まっていったのだろうと思う。けれど数千年はおろか数万年の長期に亘りその状態が続けられた結果、社会通念や伝統、もしくは宗教的な教えとして文化的な性差が定着してしまったのが現在の状態といえる。
 極論してしまえば性による差別問題の萌芽は、「哺乳類」という生物種が生まれた時まで遡ると言えるのではなかろうか。片方の性が子供を自らの胎内で育てるという進化を選んだ瞬間、全ての原因の種が播かれたとも言えるわけで、問題の根はおそろしく深い。
 思春期を迎えて自分の意にそぐわない身体変化や生理現象が始まった時、それを克服するために若い女性たちが選びとってきたのは、「生物としての自分を拒否する」(もしも失敗すれば精神疾患に至る)という戦略と、自然との一体感を目指して「肉体的変化の全てを受け入れる」という戦略のどちらかであったと著者は述べる。思春期の女性に特有の同性愛的な傾向や特定の異性の偶像化という現象も、「拒否か受容か」という究極の選択からの一時避難として解釈できるのだそうだ。(*)
 とすると、性差別の解消もそれらの生理的な面を無視しては語れないものであるはずで、その意味からも無理やり全てを後天的なものと断じてしまうのは危険な気がするのだが。

   *…このあたりの内容は全て第2部(Ⅰ~Ⅲ巻)の「体験篇」で詳しく論じられる。

 もう少し中身についての感想を。
 個人的には第Ⅲ巻の第3章「恋愛する女」が一番面白かった。著者が考えるに「女性の恋愛観」とは、男性中心の世界観で培われてきたものであるため、男に全面的に自分を投影することで自己実現を図る形になっているのだとか。(ほんとかなあ?)でもこのあたりの理屈は、一部の女性によるいわゆる「スーツ萌え」にも通じるものがあるのかも。(笑)
 ボーヴォワールによれば、女は男に自分を投影することで自己実現を図るため、相手の男を完全に所有することを望み、そうでなければ完全な満足を得られない。しかしその男に対しては、自分に全てを捧げないことを同時に要求するのだそう。彼女にとって対象は常に完璧な存在でなければ、自らを投影する価値はなくなってしまうのだ。従って、もしも彼が彼女の足元で無防備な姿をさらし安閑としてしまえば、彼女にとって彼は軽蔑の対象でしかない。またそれと同じ理由で、女は無防備に眠っている男の姿を憎むのだとか。しかも恐ろしいことに、女性はこれらの要求が矛盾するものであることを、充分に承知しているのだそうだ。(なんだか女性不信に陥りそう。/笑)

 以上で「体験篇」はおわり、続く第Ⅳ巻からは(本当は第1部の)「文献篇」が始まる。ここでは女性を①生物学の立場/②精神分析の立場/③唯物史観の立場という3つの観点から論じていて、いずれの立場も女性を把握するには不充分だとして④実存的な立場からの把握が必要であると主張している。尤も①については最新の知見ではないためちょっと欲求不満。(**)
 同様に②におけるフロイトへの批判や③におけるエンゲルスへの批判も、今の目からすると少し喰い足りない気がして残念。(ま、仕方ないが。このあたりは古典的な著作として割り切って考えるしかないだろう。)

  **…例えば著者は生物に性別が存在することの理由について「どんな利点があってそう
     なっているのか理由は不明」と述べているが、現在では「遺伝情報のシャッフルに
     よりウイルスや環境変化による雑滅リスクを下げられるため」と考えられている。

 特に気になったところについてだけは、以下に書き出しておく。
 著者は「①生物学の立場」を論じるにあたり、身体のサイズや筋力、生殖にまつわる諸々の身体的特性と、社会・心理的な特性をごっちゃにしてしまっている上、性差を男と女の2つにあまりに単純化し過ぎていると思う。あらゆる性差の原因を文化的な因子に求める立場からすればもっともな話ではあるのだが、それらを無理やり一括りにしたことで、著者により単純化された「モデル」が、あたかも「実体」のふりをして独り歩きしてしまっている気が。(maleとfemaleの違いのところでも書いたように、生物学的な“男性/雄”と“女性/雌”の間は厳密に分かれている訳ではなく、様々な層や中間的な段階、それに個人差なども存在するわけで。)
 いっそのことどうせ独り歩きさせるならば、人が目指すべき理想の類型として性別とは無関係な特質にモデル化すれば良いのにと思う。
 次に「③唯物史観の立場」について。本書では主にヨーロッパを中心に、古代から近代に至る歴史を考察している。そのやり方は、かつてマルクスが『資本論』において人類の歴史を「資本家と労働者の階級闘争の歴史」として捉え直したように、女性がいかに男性中心の社会において弊害・抑圧されてきたかという、いわば“迫害史観”として捉え直そうとするものだ。しかし中世以降はともかく、文献類が一切残されていない古代社会まで一緒くたにして、一律の視点で決めつけてしまうのはちょっとやり過ぎの感じがしないでもない。
 
 最後の第Ⅴ巻では、男文学作品における女性の扱い方をとりあげて、男性による女性観の類型として分析する。取り上げられる作家はモンテルラン/D・H・ローレンス/クローデル/ブルトン/スタンダールという、5人のフランス人男性作家。(このパートもすこぶる面白い。)順に概要をまとめると次のような感じだ。
 まずモンテルランは典型的な女性蔑視。男を絶対的な存在として位置付け、女はそれに従属するものと考える。つづくローレンスも多少マシではあるものの、やはりある種の男性中心主義。女を男の対極に存在するものと位置づけてはいるが、男に対して自発的な従属を求めている。クローデルはちょっと違っていて、キリスト教な保守思想と言う感じ。女性を“必要悪” として捉えているが神の前に男女は平等であり、互いが自らを犠牲にしあう事で宗教的な自己実現を主張する。次のシュールリアリスム詩人・ブルトンは完全なる女性中心主義。神秘の存在として女を理想・神格化し、男を導く存在として賛美。最後のスタンダールの考えは著者に最も近いようだ。女は本来、男と全く同じ能力をもつが、チャンスを与えられていないために男より劣ったものと位置づけられているとの立場。

 以上、何だかんだと文句を書き連ねてはきたが、全体を通してみるとそれなりに読後の満足感はあった。記述がくどかったり、強く糾弾するような書きぶりに辟易するところが無きにしも非ずだが。(文章のくどい部分を削って半分くらいの量にすれば、もっとしまったものになったんじゃないかという気も^^;)
 なにぶんフェミニズム運動については色々と議論がなされるところではあり、本書の内容についても多々意見があるのは承知の上。しかし自分は「一方の性(=男)であること」、すなわち当事者であることから逃れる事は出来ない。また今まで生まれ育った過程で培われてきた価値観を土台にすることでしか、物事を考えられない事も充分に承知している。だからこそ却って、違うものの見方を敢えて自分にぶつけることで広い視野を得たい、という気持ちが強い。
 そう考えると、本書が自分に満足を与えてくれる理由がぼんやりと見えてくる。それはおそらく視座を相対化できるという点なのだろう。凝り固まった常識に揺さぶりを掛けて、男という自分を相対化して考える。本書を読んだことは、そのとてもいい訓練になったと思う。

 蛇足になるが、本書を読んで思いついたことを。
 「論理的に考える」ということは、ある意味対象をモデル化/単純化することに他ならない。何事もついついモデル化して考える癖があり、「世界を“あるがまま”に愛でる」というのが苦手な自分にとって、「神は細部に宿る」という言葉は心にとどめておきたい言葉。もちろんそれがすべてではないし、論理や構造をつい求めがちな自分もいるのだ―― という事は認めた上での話だが。現実世界にある問題の答えは「論理か現実か」「イチかゼロか」という二者択一にはない。求める道は天にも地にもなく、その間にこそあるような気がする。

 少し判り難かったかな? また別の書き方をしてみる。
 世界を動かす論理には2つの極があるのではないかと思っている。片側の極にはひとつの価値観へと収斂させようとする「暴力」(***)があり、そして反対の極にはあらゆる異なった価値感を共存させようとする「相互承認」がある。男と女もしくは同性愛・性同一障害などを巡る一連の性差別や、黒人やヒスパニックなどの人種問題、アイヌや琉球、チベットといった民族問題や社会的なマイノリティの問題など、あらゆる問題はこのふたつの極の間にあるのではないか。そしてこれらの事柄が「深刻さの違い」というグラデーションを描きながら、地域ごとパッチワークのように散りばめられているのが、現在の国際社会であり日本の社会ではないだろうか。
 見ようとしなければ決して見えてこないこれらの問題に対し、本書は俯瞰する視点を与えてくれたように感じる。もうしばらくジェンダーの辺りをうろうろして見るのも面白いかもしれないな。

 ***…暴力というものは本質的に「(己に敵するものに対する)絶対的な否定/邪悪」
     と、「(己が庇護するものに対する)圧倒的な権力/聖性」という二面性を持つ
     といえるだろう。
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No title

古い記事に対するコメントで恐縮です。『第二の性』の感想は少ないので、楽しませていただきました。
蛇足と仰っている最後辺りの文章に関しまして。「論理か現実か」という対比と、「イチかゼロか」「暴力か相互承認か」という対比は、意味的に断絶しているように感じます。
「論理的に考える」ということは、対象のモデル化(近似)を伴うことではありますが、それが価値観を収斂することにつながるでしょうか。近似によって、イチとゼロの間を目指すのが、本当の論理化なのではないかと思えるのですが、いかがでしょう。その点において、『第二の性』が不完全であるということに関しては、同意致します。

Sb様

こんにちは。拙ブログへのご訪問ならびにコメントをありがとうございます。

そうですね、「論理的」という言葉を少し乱暴に使い過ぎたかも知れません。最初にあったのは、世界を認識するのに「モデル化・単純化」のと「あるがままに受け入れる」という二つの対照的なスタンスがあるのではないか?という漠然とした思いでした。
そして『第二の性』を読んでいるうち、著者の考えに触れて、そのことを思い出したのでした。

論理を「考えること」の本質とすれば、おっしゃる通りだと思います。
よろしければまたお越しください(^^)
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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