『法然の編集力』 松岡正剛 NHK出版

 今年は法然上人の八百回忌、親鸞上人の七百五十回忌にあたる記念の年ということらしく、様々な記念行事が行われたようだ。(震災の影響で中止になったものも多いようだが。)本書もその一環で出されたのだろうか? 自分の好きな松岡正剛が、今度は浄土宗の始祖・法然について書いたという情報を仕入れ、発売日に早速買って読んでみた。
 本書は全体で3部構成になっている。第1部では著者による法然思想の詳細な説明がなされ、第2部は京都・知恩院に伝わる『法然上人行状絵巻』を抜粋して法然の生涯を解説。つづく第3部では今日の法然再評価の先駆けとなった論考の著者である、宗教学者・町田宗鳳氏との対談が収録されている。

 本書で松岡氏も書いているように、鎌倉時代というのは日本の仏教史においてひとつのターニングポイントといえるだろう。道元(曹洞宗)や日蓮(日蓮宗)、親鸞(浄土真宗)といった新仏教の開祖が活躍した時代。思想的に言えば、天台宗や真言宗といった「悟り」を目的とした学問仏教から、衆生の「救い」を目的とした実践仏教へと大きく変貌を遂げた時代と言えるだろう。そんな視点に立って考えると、今まで地味な存在だった法然と言う人物が、実は彼ら鎌倉新仏教の指導者たちの先鞭をつけた“パラダイムの変革者”として、俄然クローズアップされてくることに。
 それでは具体的に法然の何がそんなにすごかったのか? 本書によれば「称名念仏」とその発展形である「専修念仏」、つまり“南無阿弥陀仏”の六文字をひたすら声に出して唱えることで救われる――というのが画期的なところなのだ。それまでの仏教においては、悟りを開くための技術として仏を「観想(頭の中にイメージ)」することが専ら。チベット密教では人が死ぬ(すなわち“往生する”)前に、死の苦痛から救うために施すべき内容がマニュアル化されているが(*)、そこでも基本は全て頭の中に仏をイメージすることが中心。いずれの場合でも声に出して仏の名を唱える「称名」というのは、あくまで補助的な手段でしかなかった。
 そんな“補助的手段”を逆にメインにすえて「ただひたすら実践(称名)あるのみ」という、それまでの価値観を180度転換する荒業を行ったのが法然なのだ。

   *…『チベットの死者の書』という題名で訳されているので、興味ある人はどうぞ。

 本書で面白いのは法然がこの画期的な考えに至った理由について、彼が大変な読書家だったからだと推測している点。とてつもない量の経典を読む修行を通じて、法然には(著者が言うところの)「編集力」が養われていった。そしてその事により「専修念仏」という衆生救済のためのエッセンスを、数多くのテクスト(経典)の中から的確に拾い出してくることが出来たのだと。(このあたりの斬新な読み方は、まさに編集者・松岡正剛の面目躍如といったところだろう。)

 得度して正式に仏門に入ったいわば「仏教のプロ」が、修行によって悟りを開く(すなわち静まった心で善を積む)のを「定善(じょうぜん)」という。また“武者(むさ)の世”すなわち乱世に生きる民衆が、日々の生活に追われて修行も出来ず、乱れた心のままでそれでも懸命に善を積むのを「散善(さんぜん)」という。
 同じ“武者の世”に生まれたものとして自らを「乱想の凡夫」と呼ぶ法然。彼は明日をも知れぬ社会で修行を積むことも出来ぬ民衆が救われる道をひたすら探し続けた。そして読破した膨大な経典の中から、卓抜な編集力によって「散善」の重要性を掴み取り、“救いの仏教”である浄土宗を創始した。「南無阿弥陀仏」を一心に唱えることで、阿弥陀如来の絶対的なご加護(他力)によって「報土」に生まれることができる――すなわち「他力本願」の思想はまさにこの瞬間から始まったのだ。
 本書で面白い点は他にもある。例えば法然の情報編集力を「ブラウザ」「リンク」「カーソル」といった、コンピューター用語を用いてアナロジーで説明しようとする点。さすがはセイゴウ、この型破りなところが彼の持ち味。(そして自分が彼のファンになった所以でもある。)

 第3部の町田氏との対談もなかなか刺激的だった。氏によれば日本文化の祖型は「追放と復活」であるとのこと。(**)
 思うに四季に恵まれた風土である日本は、厳しい冬が過ぎて春が来るとまた新たな芽吹きが訪れるわけで、そう考えると確かに日本文化の土台には「生まれ変わって甦る」という意識があるような気も。
 もしかして「辛いことがあっても耐えてやり過ごす」という日本人のしぶとさの源も、案外そのあたりにあるのかも知れない。他には「新たな“希望”は中央ではなく常にマージナル(周縁的)なところからやってくる」という指摘も、我が敬愛する文化人類学者・山口昌男氏と重なる部分があって、何だか共感を覚える。

  **…ちなみにアメリカの祖型はピューリタニズム(新大陸で宗教的なユートピアを作る
     という意思と行動)。中国は覇権主義と一元主義であり、西ヨーロッパ文化の祖型
     はローマカトリックとのこと。これらの祖型は地域に独自のものであり、たとえ
     政治体制が変わろうが一貫して変わらぬものなのだとか。

 対談の話題はあちこちにとんで、中にはこんな話も。
 浄土宗および浄土真宗はどちらも阿弥陀一仏のみを絶対的に信仰するため、ユダヤ教やキリスト教など一神教との類似が指摘されるほか、既存の宗派から糾弾されてきたのだそう。後に一向宗など政治的な力を発揮する集団が現れたように、専修念仏による浄土信仰はファンダメンタリズム(原理主義)的な部分を本質的に持っているといえる。「東西を問わず、一神教には権力闘争に変容していく歴史的必然性がある」というのは町田氏による弁。
 うーん、そう言われてみれば、キリスト教でも「絶対的な神の前では万人みな平等」といいつつ、神を頂点とした宗教的なヒエラルキーが厳然と存在するしなあ。(少しでも神に近い人が偉いというルール。)
 逆に地上的な権力に対しては、極端な否定に走りやすくなり、そのため革命や闘争に結びつきがちなのかも。第1部/第2部が結構充実していたので、第3部はボーナストラック程度に考えていたのだが(失礼!)、意外や意外と刺激的な話が多くてとっても得した気分。

 昔に比べると最近のセイゴウの本はとても読み易いので、仏教思想全般に興味がある人なら読んで損はしないと思う。密教との違いなど考えてみるのも面白いヨ。好著。
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