『妖怪談義』 柳田國男 講談社学術文庫

 妖怪を古代の信仰対象であった神の零落したものと考えること。そして山姥/山人を、里の人とは違う何らかの実在として考えること。柳田にとって日本中から集められた膨大な民俗学的な資料は、この2点を論証する道具としてのみ意味を持っていたように思える。
 単なる迷信として軽視され急速に失われつつあった各地の伝承や昔話に、学術的な「意義」を見出して民俗学という学問の礎を作り上げたことは、どれだけ評価されてもされ過ぎということはないだろう。しかしまた、その「意義」の射程の限界ゆえに彼が批判されてきたのも事実である。しかし今の視点で柳田の結論の不備を指摘するのはたやすいが、論旨の欠点をいたずらにあげつらうのを取り敢えず保留にしてみよう。零落した神や異人種の存在が事実か事実でなかったかはともかくとして、少なくとも伝承が残されてきたことは確かなのだから。
 今あらためて、柳田民俗学の後の時代に生まれた新しい見方でもって、彼が集めた伝承を素直に見つめ直したら何かが見えてこないか?例えばレヴィ=ストロースのいうように「野生の思考」が駆使された結果としてこれらの伝承を見たらどうだろうか?もしかすると『神話論理』で華麗に展開されたように、日本国中の河童伝承や化け物の呼び名の分布や変遷で、美しいカレイドスコープ模様が見えてくるのではないか。一次資料に直接あたって調べた訳ではないので勝手な想像でしかないが、柳田國男が本書で挙げている文献の列を眺めていると、そんな妄想が浮かんできて楽しくなってくる。「ザシキワラシ」だの「一つ目小僧」だの、「河童(川童)」に「小豆洗い」に「天狗」だの、ここで取り上げられた妖怪の一つだけでもいいから、自分で元の伝承をひも解いて分析してみたらきっと面白いだろうなと思う。でも面倒なのでとてもそこまで手は回らないし、そんな時間があったらその分、もっと本を読みたい(笑)のでダメだが。
<追記>
 世の妖怪好きは誰も同じようなことを考えると見え、京極夏彦が『妖怪の理 妖怪の檻』(角川書店)を出した時には思わず笑ってしまった。あの本、興味のない人にはややこしい小理屈を並べているだけかもしれないが、本人は書いている間中、面白くてしょうがなかったと思うよ。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR