『世界は分けてもわからない』 福岡伸一 講談社現代新書

 本書のテーマをひとことで説明するのは正直かなり難しい。視野の拡大/縮小、意識の俯瞰/集中、あるいは世界の統合/分割とでもいえば良いのか…。どのような形で切り取るのがいちばん相応しいだろう?とりあえず本書に倣って、マップラバーとマップヘイターについての話から始めてみようか。

 本書に出てくる「マップラバー(map lover)」とは文字通り地図が大好きな人のこと。対する「マップヘイター(map hater)」とは、はなから地図など頼りにしないタイプの人だ。前者は全体の鳥瞰によって世界における自分の立ち位置を把握したうえで行動する。対する後者は、自分に隣接するものと自分の関係によって、その都度ふるまい方を変えて行動する。(悪く言えば無計画で行き当たりばったりのタイプとも言える。)
 全てを地図のように整理して捉えるのが好きなラバーの方は、普段はとても効率的に物事をこなすことができる。しかし、こと状況が混沌とする事態に陥ってしまうと、もはや手も足も出ない。そんな時に力を発揮するのは、実はヘイターの方。彼らは全体を見ようとしないため、普段はラバーに比べて効率が悪い。しかし刻々と変化する状況の中では、試行錯誤しながら最善の結果に辿りつけるのは、もしかしたらヘイターたちの方なのかも。
 著者は本書を書く際に、わざとマップヘイターのような書き方をしているような感じがする。著者お得意の分子生物学についての話かとおもってページをめくると、冒頭いきなりヴィットーレ・カルパッチョによる2枚の絵画「ラグーンのハンティング」と「コルティジャーネ」の話題からスタートする。かと思いきや、次は食品添加物であるソルビン酸が腐敗を防ぐ化学的メカニズムとそのリスクの話題へと。何かしら著者の意図的なものは感じられるのだが、なんせ話があちこちに飛ぶため、最初のうちはテーマが全くみえてこない。頭にハテナマークを沢山つけたまま読み進み、全体像が徐々に見えてくるのは、やっと半ばを過ぎたあたりからだろうか。
 このように次の展開が全く予想できない構成というのは、(小説ならともかくとして)本書のように評論的な著作としては極めて異例。あえて“文学的”な手法を使っているのだろうか。本書が出版されたのは前著『生物と無生物のあいだ』が評判になった少し後だったと記憶しているが、前著を読んで面白いと思った読者がそのまま本書を読んだとすれば、きっとかなりの戸惑いを感じたに違いない。

 とまあ、以上のように話があちこち錯綜するのを踏まえた上で、あえて本書のテーマをひとことで説明するならば、それは著者が感じているひとつの“懸念”といえるだろう。
 人類はこれまで世界を「科学」という名のもとにバラバラのピース(すなわち”科”)に分割して理解してきた。対象を絞り込んで深く探求することにより、確かに個々のピースの成り立ちについては理解が進んだかも知れない。しかし絞り込みの過程でこぼれ落ちてしまったものがあるのではないか?
 仮に著者の専門分野である分子生物学でいえば、例えば個々のたんぱく質の分子構造を幾ら調べたところで生命活動の本質は理解できず、たんぱく質や細胞同士のシンフォニックな関係性を通じてしか、決して分からないものがある。―― これこそが本書で投げかけられた疑問といえる。著者のそんな“およそ科学者らしからぬ”主張こそが、本書を通じて語られるテーマなのだ。
 思うに福本伸一と言う人物は、おそらく科学者としては極めてナイーブ過ぎる感性を持った人なのだろう。ある種の“文学的”な感覚をもっていると言っても良い。(本書を読む限りでは、本人も自らが科学者として“異端”であることを自覚しているような気がする。)

 「プロフェッショナル」すなわち専門家になるということは、何かを深く掘り下げる力を手に入れるのと引き換えに、それ以外の大きな部分を捨て去ってしまうに等しい。そもそも自然科学という学問分野およびその土台となる科学的思考というのは、キリスト教的な価値観である「神がこの世を造った意図を理解したい」という思いから生まれた。すなわち科学的思考とは、世界を成り立たせているルールを見つける為にもっとも効果的な思考方法と考えてもよい。しかし21世紀に至り世界のあちこちで綻びが出始めている今、西ヨーロッパを発祥とする近代的思考の弊害や限界が見えてきた今、もう一度「全体性」に立ち返って世界全体を見直す必要はないのか?本書には著者のそんな自省が大きく反映されているような気がしてならない。(*)

   *…思えば自分が会社で今の仕事を始めた時に心に決めたのも、
     「自分は“プロフェッショナル”ではなく敢えて“ゼネラリスト”を目指す」
     ということだった。本書を読んでいてそんな事まで思い出した。

 話は変わるが本書には次のような話題も。
 人間は何でもない画像やランダムな視覚パターンの中に、図らずも「顔」を認識してしまうパターン抽出能力というものを持っている。例えば本書で取り上げられているのは、心霊写真やジンメンカメムシ、それに火星表面につい“空目(そらめ)”してしまう謎の人面など。ありとあらゆるものに見出される「顔」の説明を読んでいると、人間がもつ世界の認識なんていい加減なものだというのがよくわかる。また空間的な境界だけでなく時間的な境界線もしかり。「命の始まり(誕生)」あるいは「命の終わり(死)」といった線引きも、個別の細胞単位まで突き詰めれば薄ぼんやりものへと置き換わってしまう。
 著者はこのような話題を通じ、人間による世界の理解というものが、本質的に混沌とした曖昧なものである世界に対し、人為的な線引きを施したに過ぎないのだという事を手際よくあぶり出していく。

 なぜそのようなパターン認識能力が生まれたのかというと、著者によれば大体次のような感じ。
 顔のパターン認識というのは、おそらく生物が生き残る上で有効な機能として発達してきたもの。例えば弱肉強食の野生の世界においては、いかに早く捕食者を発見できるかが生死を分ける重要なポイントとなる。そのためには本来「連続」であるはずの世界に敢えて境界線を引き、自分に向かう視線の存在(すなわち顔)を見つけることが、捕食者の発見スピードを早めるうえで最も効果的な戦略となる。
 「あれはいったい何だろう?」なんて考えているヒマがあったら、間違っていてでも良いからとりあえず捕食者らしき陰から逃げるべきというわけだ。そのような能力を極限まで磨きあげた種だけが現在まで残ってきたからこその能力なのだろう。
 元来はランダム且つ連続的で切れ目など存在しない自然というものに対し、無理矢理にでも分断による個別化とパターン化によって関連性を見出していくこと。そうして世界を図式化/単純化することは「安心」につながることであり、それがすなわち世界を理解するということに外ならない。

 本書は後半になってまたまたがらりと話が変わる。次に語られるのは、1980年ごろにアメリカの大学で実際に起こった実験データ捏造事件の顛末。おおよそ次のような話だ。
 ――高名な分子生物学者の研究室である大学院生が、細胞のガン化プロセスに関するある仮説(ATP分解酵素のリン酸化というもの)を検証する命をうけた。その大学院生は天才的な腕前を発揮し、数多くいたポスドクたちが誰ひとり成功しなかった実験を次々とものにしていき、ボスが望んでいたとおりの実験データを現実のものに。彼とボスが次々と世に出す“美しい理論”に裏打ちされた論文は、世界中を興奮の渦に巻き込んでいった。しかしやがてふとしたきっかけで、それらのデータは全て大学院生による捏造であることが判明、彼はその日のうちに研究室から姿を消し二度と戻らなかった...。

 彼がやった事とはいったいどのようなことだったのだろう? 著者は問いかける。その大学院生は、ボスが見たいと思った“絵”を実験の中から切り取って見せた。そう、散らばった点と線を結んでボスが「そうであって欲しい」と望んだ“星座”をとりだして見せただけと言えるのではないか。そう考える時、のちのインタビューでボスがその大学院生を指して述べた「治すすべのない病」という言葉は、まさしく我々自身が持つ「世界のモデル化/単純化」による意味付けに等しいと言えるのではないだろうか。そう考えると、巷に溢れている占星術や血液型占いやスピリチャリズム、その他諸々のカルト的な話題は全て、我々自身がもつ生物としての“業”のようなものなのかも知れない。

 以上、なんとか本書の内容を簡潔に説明しようと努力はしてみたのだが、やはりとりとめのない文になってしまい申し訳ない。本書の結論は以下の文にほぼ集約されているので、最後にそれを紹介して終わりとしよう。

 「世界は分けないことにはわからない。しかし分けてもほんとうにわかったことにはならない。」「私たちは世界の全体を一挙にみることはできない。しかし大切なのはそのことに自省的であるということである。なぜなら、おそらくあてどなき解像と鳥瞰のその繰り返しが、世界に対するということだから。」
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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