『イスラームの世界観』 片倉もとこ 岩波現代文庫

 著者の肩書は国際文化研究センター所長にして国立民族博物館名誉教授。本書はイスラムと我々の社会に関する比較文化論エッセイなのだが、読んでみて目からウロコが何枚もぽろぽろと落ちた。(笑)
 著者によればイスラム文化は「移動/動的」であり、対する日本文化は「定着/静的」を特徴とするのだとか。「うごく」あるいは「うつろう」と、「うごかない」あるいは「変わらない」と言う風に言い換えてもよい。イスラム社会で物事がスケジュール通りにきちんと動いていくことがないのは、彼らがルーズだということではなく、「神は一瞬一瞬を創造する」というイスラム独特の時間観があるため。身軽さや臨機応変さに積極的な価値を認めているのだそう。
 「おかわりありませんか」という言葉を挨拶に用い、(「一所懸命」という言葉が示すように)「不動」であることを美徳とする我々の日本文化からは、到底想像もつかない生き方だ。この「定着/静的」な価値観とはまさに農耕民族的発想によるもの。一か所に執着すると死んでしまうような過酷な環境で生まれた、遊牧民的な考え方とは全くの正反対といえる。彼らの場合、ひとつところにじっとしていると、心の中に「よどみ」や汚れが溜まってくるらしい。(もちろん文化は常に相対的なものなのだから、この二つの考えのどちらかが正しいというものではない。)
 このようにムスリム(イスラム教徒)の人々はあらゆる物事が移ろっていくことを前提とするため、「ハザブ・ル・ズルーフ(その時の状況次第)」という言葉をよく使う。人と約束をするときも、最後に「インシャーアッラー(神のご意思あらば)」という言葉をつけるのを忘れない。風向きに合わせて動くことは日和見主義として非難されるどころか、むしろ褒められるべきことなのだそうだ。(*)

   *…例えば結婚など、簡単に移ろってしまっては困るようなことにおいては、逆に彼らは
     厳しい縛りを設ける。具体的には「契約」に持ち込むのが普通であって、結婚契約書
     には契約解除、すなわち離婚に至った場合の処置の仕方まで予め具体的に書きこまれ
     るのだとか。日本のように相互の信頼関係を前提にして成り立つ文化とは、根本的に
     違っている。

 イスラム教は「“宗教”というよりもひとつの“生活体系”である」とさえ言われる。従って、それが浸透している社会においては「うごくこと」こそが、かように重要な価値観となる。その時、彼らにとって「道(=線)」は「都市(=点)」をつなぐ単なる手段ではなく、動くことでアイデンティティが獲得される「人生の目的」とも言えるものとなる。
 この「動の思想」というものは、今まで自分がイスラム文化に対して感じていた様々な違和感を、一挙に理解に導くキーワードとなった気がする。

 本書の後半はこれらの知見を元にして、日本にも古来存在した「動の思想」の痕跡を伊勢神宮の20年毎の遷宮や平安時代の遷都の記録などに求める話や、多種多様な文化、民族、宗教が平和裡に生きていく(=「共生」)ための知恵を探る話へと広がっていく。
 著者が提唱するのは「区別的共生」あるいは「まあい共生」と呼ぶ方法。価値観/世界観が異なっていることを前提にした上で、互いに「区別」をしながら交流していく。(注:「差別」ではない)
 必ずしも物理的な棲み分けは必要とせず、混住のまま程良い「まあい(間合い)」をもって区別と交流を続けること。――著者によれば、この方法は中東地域において歴史上ごく普通に見られるものだったのだという。(それが変わってしまったのは、「征服」を基本とする“西洋の衝撃”が中東地域にもたらされたため。)
 アジア/アフリカ/ヨーロッパという3つの大陸の接点に位置し、「宗教の博物館」とまで言われるほど多くの宗教がひしめき合っている地域だからこそ、対立と抗争を避ける仕組みが自然と工夫されてきたのだろう。それがかれらの「移動の哲学」とか「動の哲学」と呼ばれるものであるとすれば、世界各地へと自ら移ろっていくムスリムたちの生き方は、異質なものだと忌避するのでなくて、むしろ積極的に見習うべきものなのかも知れない。

<追記>
 E・ホール著『かくれた次元』においては、アラブ人が著者に対して見せた態度、すなわち「半固定空間(≒公共空間)」における無礼なまでの接近や、逆に移動中の彼らの進路を遮ることに対して異常なほどの怒りを見せる様子が書かれていた。「個体距離」や「社会距離」の文化的な違いだろうとは思いつつ、その理由が分からなくて不思議で仕方なかったのだが、本書を読むとそれが当然だったのがよく分かった。結局のところ彼らにしてみれば、停まっている状態とは移動の合間の「仮の姿」に過ぎないわけだな。納得。
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