『千のプラトー(上・中・下)』② G・ドゥルーズ/F・ガタリ 河出文庫

  注)前回に引き続いての2回目。まずは個別の章に関する断片的な感想の残りから。

【言語学の公準】
 この第4章は言語に関しての考察が述べられているが、極めて抽象的な議論が続くため前章より更に難解さが増している。本書を通じて特に理解しにくい章のひとつといえるだろう。
 人が何かを表現するために言葉を発すると、その場の状況はその言葉が持つ“意味”の範囲内に否応なく押し込められてしまう。イメージが固まってしまい、その言葉の射程内にしか理解が及ばなくなる。(*)

   *…たとえば「○○年○○月に革命がおこった」といえば、その時を起点にして革命と
     いう現象が認識されてしまうということ。(実際にはその前から様々な状況が進んで
     いて、その結果として革命が起きたはずであり、単純に線引きなど出来ないにも拘ら
     ず。)

 更に「言葉」というのは、実際の「行為」に直接ではなく間接的に結びつくものでしかない。従って言葉と実践(現実)との間には、必ず何らかの切断/認識のずれが起きてしまう。このような様々な解釈のされ方をドゥルーズとガタリは、「読行為の内的変数」という(相変わらず難しい)ことばで論じている。
 また本章でドゥルーズとガタリが主張する「器官なき身体(CsO)」という概念は、実現への道のりがどうやら極めて困難で苦痛を伴うもののようだ。だとすれば、それにより得られる効果がよほど大きくなくては実行するメリットはないのだが、その利点がさっぱり見えてこない。何故そこまでしてやらなきゃいけない事なのだろうか。「戴冠せるアナーキー」が重要なのだと強く言われても、何だか釈然としない。
 そもそも「分析」という行為は、人間が現実の世界を少しでも理解するために発明された知の技法であり、近代科学の基礎になっているものといえる。その字義は文字通り「世界を細かなブロックに分けて調べる」という事。しかし著者たちによるアジテーションは、(言語を始めとして)あらゆる「記号」に対して、複数の意味を被せたり類似した記号との間の境界を曖昧にすることで、世界全体を正体不明の大きな塊(=リゾーム)にしてしまうのが狙いのようだ。釈然としないのは、そのメリットがあまり明確ではないこと。なぜそれが必要な事なのか自分にはさっぱり理解できなかった。せめて素人にも分かるようにそれくらいは易しく書いて欲しかったなあ。
 それと余談になるが、本章でも前章に引き続いてバルトが批判の対象に挙げられている。しかし自分が読む限りでは、彼らの手法とバルトの記号論との違いはあまりないように思えてならない。「“言語の抽象機械”を打ち立てなくてはならない!」とか気勢を挙げているのだが、バルトが『エクリチュールの零度』で書いた主張と何が違うのか、自分には頭が悪いのでさっぱり分からない。(笑)

【顔貌性】
 7章では「顔貌性」というまた新たな概念が登場する。社会で言語・地位・役割といった「シニフィアン(=表現するもの)」が発動するためには、その前提として常にある記号系が存在しなければならないそうで(ただし意識されてはいないとのこと)、それを著者らは「顔貌性」と名付けている。(**)
 言葉を発する前にまずその人の「顔」があり、そこからコミュニケーションやあらゆる知的活動が行われるようなものか。この「顔」というものは様々な権力と親和性が高い。そもそも著者らはそこから「逃走」することを理想としているので、「顔」の解体に向かうべきと主張する。だがそれを実現するのは生半可なことではない。いくら「意味」を引きはがしても瞬時に何かを吸引して、また別の「顔」になってしまう様子はまさにブラックホール。それでも諦めずに常に解体しつづける事こそが大切なのだと彼らは述べている。

  **…例えば“白人”である事などがそう。現在のマーケティングでよく用いられている
     「ペルソナ(仮面)」という概念に近いかもしれない。

【ヌーヴェルバーグ三篇、あるいは「何が起きたのか?」】
 ここでは素材として文学がとりあげられる。3篇の中短篇小説を引き合いに出しながら、世界に関する2通りの解釈の仕方について説明。でも説明にでてくるのは「近くを見る人」と「遠くを見る人」という表現で、相変わらず読者を煙に巻いている。(笑) 文章中で「有糸分裂」など唐突に生物学の用語を比喩に使ってみたりして、あらゆるジャンルを越境する“パフォーマンス”として自分たちの思想を示そうとしているようにも見える。ここまでくると、もはや文学的というよりも芸術表現に近いかも。用いる用語ももはや比喩(メタファー)ではなくて寓意(アレゴリー)と化している。

 ここでドゥルーズたちが用いている戦術は「子供」だ。
 既存の価値観や世界の解釈の仕方(=彼らはそれを「線」と呼ぶ)とは別の「線」を自在に引く存在である子供。いずれ彼らも大人になるにつれてどこかの「線」に収束していくのだろうが、子供でいる間は常に新しい「線」を引き続ける。子供らが無意識に行っているこの作業を、敢えて大人である我々が意識して実行していくべきと著者らは主張する。それは即ち、既存のエクリチュールに囚われない独自の「逃走線」を引くということに他ならない。
 しかし既存の価値感を否定するのは構わないけれど、その先どちらに向かおうとしているのだろうか。行き当たりばったりでは路頭に迷ってしまうだろう。自分の周囲(世界)の存在を無責任に否定するだけですむのは、周囲が確固たるものである場合に限るはず。周りが支えてくれるのを当てにしているだけでは、単なる駄々っ子と変わりがない。世界中が互いに否定し合うだけになってしまったら、単なる混濁したスープが出来上がるだけであり、破壊だけでは先に繋がる展望は見えてこないと思う。
 しかし「建設の前の破壊」ということだけに焦点を絞れば、本章の主張は従来の閉塞感や固定した価値観(テーゼ)を打ち破るための意図的な手法としては極めて有効だろう。まだ社会に対するアンチテーゼを提示する前の状態でしかないとは思うが、でも彼ら自身はアンチテーゼを出すこと自体を否定しているんだから仕方ないか。(笑)

【ミクロ政治学と切片性】
 ここ第9章でのキーワードは「切片」。これも分かり難い概念だが、例えば「ドルは通貨の支配的切片」、「ブルジョアジーは資本主義の支配的切片」という具合に使われている。『自分を捉えて離さない他者との共振関係』もしくは『自らを支配する超コード化したシステム』と言い換えることも可能らしい。
 著者らによれば、人が生きていく過程には「恐怖」「明晰さ(≒世界を理解できたという思い込み)」「権力」「情念(≒ニヒリズム?)」という4つの危険があるらしい。その4つの危険から逃れようとして、人はしがみつける何らかの切片を自ら求めるのだとか。なぜなら自分の所属するところ(切片)への所属意識を「硬化」させることで、より安心する事が出来るから。なおこのような様々な「切片」というは、“群衆”と“脱領土化した流れ”が出会うところに自然と生まれてくるものだそう。
 きっとこの過程がさらに徹底されていくと、『マルチチュード』でネグリらが述べたように、「政治の一形態として常態化した戦争」が世界に蔓延することになるのだろう。行き着く先はファシズムの自滅的国家であり、テロと<帝国>の果てしない戦いがつづく阿修羅の世界であったりするわけだ。

【強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること…】
 もしかしたら本書の中で読んだ時にいちばん面白い章かもしれない。メルヴィルの『モービィ・ディック(白鯨)』からスピノザまで、はたまた怪奇作家・ラブクラフトからエクスキュルの『生物から見た世界』まで、様々な文学作品や著述家たちを引き合いに出して、「生成変化」と「多様体(≒切片)」の関係性について言及する。(怪奇小説ファンとしては、狼男や吸血鬼という単語が出てくるのを見るだけで嬉しくなってしまった。)
 著者らによると「生成変化」と「多様体(≒切片)」というのはイコールで結ばれるものらしい。本章ではその根拠となる理由について、「異なる多様体間における行き来」という概念を使って説明している。(すいません、要約しても面白さが全く伝えられない。/笑)
 後の方ではさらに話は進み、博物学を例に自然科学や人文科学など様々な科学/知性における“枠組み”にまで発展。(なおこの“枠組み”は本書では「観念の形式」と呼ばれているが、「パラダイム」のことにほぼ間違いないだろう。)

【「領土化」の難点と効果について】
 この章は、ある種の価値基準・判断基準である「点」と、先程も挙げた世界の解釈の仕方である「線」についての解説。常に「点(視点)」を固定してしまうことのデメリットと、そこから脱出する為にどんな「線」が必要かを規定している。でもここでも少し引っかかる部分が…。
 本来「点」と「線」というのは表裏一体のものであるはずだろう。だとしたら、エッシャーの絵のように「黒と白」や「地と図」が反転したら、どこにでも無限に「点」が現れてしまうのではないか。その場合どんな「線」を引いても脱出することは不可能となる。それでも敢えて「線」を引いたとして、(批判にはなっても)新たな価値基準の創造には成り得ないのではないか。(すいません、直感的な印象なので間違っているかも。)

 『ヌーヴェルバーグ三篇』の章でも書いたように、世界を壮大なパロディとして読み替えようという発想は良いが、パロディは本物があってこそ初めて成り立つものといえる。現在のように世界そのものが脆弱で揺らいでいる時代には、破壊ではなく建設を、あるいは混沌ではなく道筋を示す事こそが必要ではないだろうか。 

【遊牧論あるいは戦争機械】
 この12章と続く13章ではかなり骨太な議論がなされる。内容的にみて本書の中でいちばんの山場といえるかも。
「戦争機械(≒暴力による解決を図るメカニズム?)」は「国家装置(≒現国家システム)」の外部にあるという“公理”から始まる本章はやがて、「戦争機械」の本質へと切り込んでいく。このあたりルネ・ジラールなどの問題意識に近いのかなあと思いながら(高くて読んでいないのです^^;)、興味深く読んだ。
 本章によると『至高の外部にある形式(外部性形式)』というもの、名付けて“情動の思考”というのが「戦争機械」の本質なのだとか。それは背反するような多くの特徴をもったものだそうで、例として列記されていたのは次のようなものだった。
 曰く――「思考を主体に帰属させるのではなく、出来事すなわち「此性(これまた説明が難しい概念!)」としての思考」「本質を規定する定理的な思考でなくて、解決策は王道科学に任せてしまい自らは何も生みだそうとしない問題提起的な思考」そして「民衆に訴える思考」…。
 「戦争機械」というのは、ドゥルーズやガタリにとって対処が必要な“危険”のひとつなのだろうか?などと思いながら、最初の辺りを読んでいた。しかし読み進んでいくとどうやら違ったようだ。(***)
 章の後の方になると「戦争機械」が「国家」に対する戦略である「遊牧民的な思考」と同一視されていくことになる。そして遊牧民的(ノマド的)な思考を従前たる国家的思考を乗り越えるためのものとして利用し、読者の前に提示しようとしているみたいに見えてくる。あれっ、彼らは「戦争機械」を否定する立場じゃなかったのかな?「戦争機械」は否定してその大元にある「遊牧民的思考」は認めるわけ?

 ***…ただしいきなり読解の難易度が上がるので、そう言いきれる自信はない。なぜなら
     「国家的な概念/王道科学」と「遊牧民的な概念/遊牧科学・巡航or移動する科学
     (ブリコラージュみたいなもの?)」の違いを説明するために、著者たちはある喩え
     を用いているのだが、更にその喩えを説明するために別の喩えを持ってくるという
     抽象化の二乗を行っているから。とっても分かりづらい!

 “暴力”というのは「自由の相互承認」(by竹田青嗣)と根本から対立する概念であって、この世のあらゆる社会ルールの礎になるものを否定するものではないのだろうか。将棋やチェスやトランプなどのゲームにおいて、盤やカードそのものをひっくり返す相手に対しては、一体どのようにゲームで決着をつけるというのだろうか。
 頭がこんがらがってきたので、あとは中に出てきた重要な指摘を書き出して本章を終わることにする。(笑)

 ・「数」という概念についての指摘。戦争機械にとっては、人を「数」という抽象的な概念と
  して把握することが重要。「数」とは氏族/血統的な関係や領土/具象的な組織関係に対峙
  するものである。

 ・「武器」(戦争機械に関係が深い)と「道具」(労働機械に関係が深い)の対比。戦争機械
  はターゲットを獲物として一日限りの利用をする“狩猟”という方法と、ターゲットに運動
  をさせて経済的/継続的な利用をはかる“調教”という方法の両方を駆使する。そしてこの
  方法は「武器」と「道具」という手段の利用方法におけるアレンジの違いがあるだけで、
  元来は同じものといえる。

 ・「国家」に属するものと「遊牧民」に属するものの対比。前者には軍人や兵士および労働者
  が含まれ、後者には戦士や職工が含まれる。旧態依然とした前者の成り立ちは後者によって
  生まれ変わる必要がある。

 最後に本章における誤認(と思われる点)をひとつ。
 著者らが述べる次の主張、すなわち「遊牧民にとって“絶対”という存在は聖なる場所に出現するものではなく局限されない。すなわち司祭や神に対する不敬を砂漠の遊牧民たちは持っている。」というのは、明らかな事実誤認ではないのだろうか。場所に限定されず彼岸に存在する絶対的な神を生んだのは砂漠なんだから。

【捕獲装置】
 ここでは12章からの戦争機械に関する考察が続く。テーマは国家(皇帝)がいかにして戦争機械(戦士)を国家体制に組み入れていくか(=「捕獲」)ということ。

 論旨の進め方としては歴史学の体裁をとっていて、原始社会から古代専制国家がつくられる様子を説明していく。その過程で正規の仕組みから漏れ出す(=「脱コード化」)人々によってできた余剰を吸収するものとして、軍隊や冶金業、商業といった制度が形成され、急激に国家としての体制を整えていったとされる。そして社会の「脱コード化」と「脱領土化」がその後更に進んでいき、ある閾に達した時に現在のような資本主義に覆い尽くされた世界が出現する…。とまあ、これが著者たちによって描かれたストーリー。まるで見てきたようにさらっと描かれているけどほんとかなあ? 検証しようもないから否定も出来ないんだが、典拠も示してないし学術的な信用度はどうなのだろうか。
 取り敢えず疑問はそのままにして先に進めることにする。

 資本主義の成り立ちに関する仮説を示した後は、「公理(≒ある集団の共同意思を代表するもの?)」に基づいて、現代国際社会における資本主義的な経済原理を説明していく。ただし御説ごもっともではあるが、現状認識に終始していてさほど目新しい知見はない気がする。資本主義が持つ「何でもあり」の無敵さが強調されるだけで、それに対抗するための先の展望は示されていないのが残念だ。
 今の世界の問題点への対処法としては、例えば「マジョリティの公理に対抗するには全てがマイノリティになるべき」とかいうばかりで、建設的な対抗原理は示せていない(と思う)。でもある公理(テーゼ)の要求に対抗するために別の理屈(アンチテーゼ)を主張するのは確かにかっこいいが、新たな公理を生み出すだけに過ぎないだろうし、彼らはアンチテーゼの提示を拒否しているのだからやむを得ないのかな?…うーん、さっきも書いたけど難しいなあ。しかし単に今の国家を壊すだけでは、ホッブスのいう「万人の万人に対する闘争」が再燃するだけだしなあ。(ここらへん、自分でも答えを持っているわけではない。)
 ま、いずれにせよ浅田彰らによってポストモダン思想が日本に紹介された時のキーフレーズ、「逃げ続けること」の元ネタがどこにあるのかが分かったのは、大きな収穫だった。
 
 以上で個別の章に関する感想を終わるが、最後に再び全体に関して書いておきたい。
 概してポストモダンの思想家たちの著作では「何が書かれているか」だけでなく、「どのように書かれているか」もとても重要視されているようだ。従って本書を理解する上では、おそらく文体に着目することもかなり大切なポイントになる。もしも自分に可能だったら原書(仏語)で読むべきなのだろうが、かといってそれは仏語はおろか英語すら満足に操れない自分の語学力では到底無理なこと。こんな時、「舶来の思想」を知る上での難しさを実感する。はたして他の人はどう感じているのだろう。
 とりあえずネットで本書のカスタマーレビューをググッてみた。結果は大絶賛の嵐。でも良く考えたらいい加減な気持ちでは読み通せない本だけに、カスタマーレビューを書きたいとまで思う人はドゥルーズ/ガタリに惚れ込んでいる人が多いのだろう。皆に何となく共通しているのは、折にふれ何度もあちらこちらを読み返して、インスピレーションの源泉にしようという様子。どの人も本書を完璧に理解している訳ではなさそうで、ちょっと安心した。自分の読解力が全然足りてないというわけではなさそうだ。(笑)
 もういちど繰り返すが本書で自分が理解しているのはせいぜい3分の1程度といったところ。残りの3分の2についてはここでは一切書かなかった。(だって分からないんだから。/笑)だからこれから本書を読もうという方は、もしかしたら残り3分の2で素晴らしい洞察を得る事が出来るかも。ご興味がある方はぜひ頑張って頂きたい。(笑)
 でも分からないなりに本書が面白いと感じられるのは、まるで詩のように読む者に色々なイメージを想起させるからなのだろう。いうなれば読者にわざと誤読させるために書かれた文章と言えるのかもしれない。

 この『千のプラトー』という大著を読んで感じた印象をまとめると、ポストモダン思想はやはり現代社会の問題点に関する分析が大変優れているなあということ。惜しむらくは(既に何度も書いているが)問題に対する処方箋が充分に示されず、あれもダメこれもダメを繰り返している点。竹田青嗣によって「ニヒリズムに陥っている」と批判されてしまったのも、むべなるかな。その意味では、一歩踏み出して「行動の人」になった柄谷行人に対しては、実はひそかに期待したりもしているのだ。いやホント。

<追記>
 長くなるがもう少しだけご辛抱を。
 ポストモダン系の思想書は得てして難しいものが多いが、必ずしも思想家の全てが難しい文章を書くわけではない。先述の竹田青嗣や柄谷行人のようにとても論旨が分かりやすい文章を書く人だっていくらでもいる。彼らの著作を読む体験は自分にとってストレスもなくとても快適なもの。
 もちろんその一方では、松岡正剛や山口昌男のように文意をやや掴みかねるタイプ、すなわち“分かり難い”文章を書く人もいる。ただし彼らの文章にはそれはそれで独特の魅力があり、ただ読み難いだけでは無い。だからこそ読み続けている訳だ。
 そんな事を考えた場合、はたしてドゥルーズ/ガタリの文体は、フランスの人たちにはどのように受け止められているのだろうか。母国語を使う人々にとっては、独特の魅力がある文章なのだろうか。いや彼らだけではなく、同じように文学的表現を多用するバルトやボードリアールだってどうなんだろう。
 日本人が翻訳によって読む時には難解さばかりが目立つようだが、フランス人からすればもしかしたら読んでいるだけで気持ちが良い文体なのかもしれない。うーん気になる。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

No title

はじめまして、
「千のプラトー」読まれたんですね。
構造主義やポスト構造主義の本は、
ほとんど読んでいませんので、
コメントは避けるべきかもしれませんが・・・・・・。

フランス語原文も果たしてこのような読後感が
残るのか否かについては同感です。
日本語だから、「?」な表現なのでしょうか。
カミュの異邦人なんかは、全くの別物という話も耳にしますので。

「アンチ・オイディプス」や、本書は、
昔の左よりの活動家サン達が絶賛しているような気がします。
あくまでも憶測ですが。

kappamamaさん

kappamamaさん、こんにちは。

ポスト構造主義の本は読みにくいのが多いですが、
とりわけドゥルーズ/ガタリの著作は”キビシイ”気がします(笑)。

それがポスト構造主義に特有のものなのか、
それともフランス語に独特のものなのかはよく分かりませんが。

内容は面白いんですけどねえ。
最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR