『ダールグレン』補遺 ―― もしくは自分はなぜ“満点”をつけたか

 先日『ダールグレン』の感想をアップしたあとに、それを読んでもなぜ“満点”つけたのかが分からないというご質問を頂いた。もちろん『ダールグレン』が好きだから付けたのには違いないのだが、それだけで“満点”をつけた訳ではない。改めて読み返してみると、若干説明が足りないところもあったので、補足を加える事にした。題して『ダールグレン』補遺。
 
 自分が小説を読む時には概ね次のようなポイントで評価をしている。
 1.『すごい』
    その小説全体が醸し出すムードや圧倒感。ある程度は物量(ページ数)があった方が
    有利かも。
 2.『面白い』
    funnyではなくてinterestingとかamusingの方。興味深さとか脳味噌を使うような
    知的な面白さと、物語としての面白さを兼ね備えたものが評価が高い。
 3.『好き』
    直感的な好き嫌い。(きちんと理屈で説明できるものではない。)

 このうち『すごい』と『面白い』については何となくご理解頂けると思うが、最後の『好き』については少し追加の説明が必要だろう。自分の場合はどうやら「色んな切り口から読み解くことが出来る本を」好きになる傾向があるようだ。これは『面白い』の項目とも絡む内容にもなる。(なお下品過ぎるものやあざといもの、卑しく感じられるものはいくら出来が良くても評価は下がる。ただし最初からわざとそれを狙ったとおぼしいものは、場合により評価が上がることも。このあたりはその作品ごとで印象が変わるので一概にはいえない。)
 前回書いた『ダールグレンⅠ・Ⅱ』の感想の場合、上述の3要素のうち『すごい』については実物を手に取れば明らかだと思い言及しなかった。また『好き』については「敢えて触れない」ことにして、もっぱら自分が本書で『面白い』と感じた点について書くことにしたわけだ。(*)なぜなら自分が『ダールグレン』のどこに面白さを感じたかについては、(『好き/嫌い』とは違って)きちんと説明することができるから。

   *…その本が『好き』か『嫌い』かについてblogで書くことについて、自分はあまり
     興味を持っていない。印象批評が悪いとは言わないが、幾ら言葉を尽くして説明
     したとしても、結局のところはその意見に共感できるかどうかであり、今までに
     その手の批評を読んで面白かった記憶がないから。好きかどうかはその人の興味の
     対象や好みによって全く変わるし、昔読んで詰らなかった本をその後読み返したら
     好きになったなんてことは幾らでもある。
     ましてや理由も説明しようとせずに、「自分にとってその本が如何に詰らなかった
     か」を延々まくしたてるような、Amazonなどのカスタマーレビューに多いタイプ
     は論外。(笑)

 話を戻そう。自分にとっては『すごい』『面白い』『好き』の3つの要素が優れている作品が、「良い小説」ということだった。これらの要素は、自分がその本を読むことで自分の心の中に生じる充実感の元になっているもの。このうちひとつの要素だけが優れている作品なら世の中にいくらでもある。また「すごくて面白い本」とか「面白くて好きな本」なども、出会える確率は割と高い。しかし3つの良さを全て兼ね備えた作品に出会うのは、そう滅多にあることではないのだ。(**)
 そしてこの3拍子が揃っている稀有な作品というのが、自分が“満点”をつける小説であり、今までの『百年の孤独』『リトル・ビッグ』『ソラリス(国書刊行会版)』に加えて、今回『ダールグレン』が4冊目になったというのが前回に書いたことだった。


  **…こんなところで例に出して申し訳ないが、U・エーコの『フーコーの振り子』や
     G・ガルシア=マルケスの『族長の秋』などは自分の中では「すごくて面白い本」
     の範疇になる。これらは確かにどちらも素晴らしい作品ではあるが、『好き』の
     レベルがそれ程でもないので何度も読み返すにはちょっと躊躇してしまい、満点は
     つかない。(あくまでも自分の印象なので悪しからず。)

 では自分は『ダールグレン』のどこをそんなに優れていると思ったのか。
 前回は『すごい』の要素については殆ど触れなかったので、ちょっとだけ説明しておこう。まずは何がすごいかといえばあのページ数と書き込み。キッドがニューボーイらと繰り広げる芸術談義や、アメリカ社会における様々な考えを象徴する人物を、ベローナという「実験場」に登場させ、互いにぶつけあう様子。例えばカンプといういかにもアメリカのマジョリティ”WASP”(白人&アングロサクソン&プロテスタント)の代表のような人物を、その対極にあるギャング集団のリーダー・キッドが刊行した詩集の記念パーティでホストに宛がったり。また作品中におけるゆっくりとした時間経過の件についても、その理由が自分なりに納得できた時、まさに『すごい』と感じられるものだった。
 ちなみに本書には同性愛やフリーセックスなど性的な描写も多いが、あまり下品な印象は感じなかったのでOK。(これについては理由を訊かれても説明しようがない。ちなみにジャン・ジュネの『泥棒日記』はNGで、バタイユの『マダム・エトワルダ』はOKなのだが、ここらへんの違いも上手く説明できない。/笑)
 『ダールグレン』で謎(幻想)に満ちているのはベローナとキッド本人のみだ。他の登場人物は全て当時の等身大の人々がリアルな形で(カリカチュアライズされず)現実社会の問題を抱えたままに描かれている。
 幻想と現実の狭間を行き来する絶妙なバランスが、本書を読んでいて気分が良かったということかな。映画『アメリカン・グラフィティ』では当時の若者達の様子が描かれたが、『ダールグレン』では当時の人々が考えたり感じたりした内面的なことがそのままの形で1007ページの中に凍結保存されていると言っても良い。
 ギブスンが序文で称賛しているのは、きっとこういう点なのだろう。自分は当時のアメリカをリアルタイムで体験したわけではないが何となく雰囲気は想像できる。「自分にはピンとこない」とおっしゃる方もお見えかもしれないが致し方ない。それが個々人の読書体験というものだ。
 本書は当時の社会のひな型であるが故、あらゆる欠点や失敗もそのまま盛り込まれている。ただ、それらの欠点も含めて“全て”を盛り込もうと作者ディレイニーが企てたのだとしたら、その意気込みはほぼこちらに伝わってきたし、目的は完全に果たされたと感じた。それが「完璧な99点」と書いた意味。だからこそ自分の読書としては十全なものになったのだ。(念のために断わっておくが、自分は今まで『ダールグレン』自体が完全無欠の作品だなんてことはひとことも言ってない。自分の読書体験が“満点”だったと言っているだけ。)
 以上でお分かり頂けただろうか?

<追記>
 蛇足になるが、前のblogでベローナを夏休みのキャンプ体験に喩えた理由について、もう少しだけ説明を加えておきたい。

 そのイメージが頭に浮かんだのは、スコーピオンズの元リーダーであるナイトメアが語る次のセリフを読んだ時だった ――
「俺は、この霧の巣穴みたいな腐った街に骨をうずめる気なんてない。“ナイトメア”でいるのは、ちょっとした冗談なんだ。いずれセントルイスに帰って小さな外車でも買って、(中略)ふたたびラリー・H・ジョナスにもどる。そうなったら、ナイトメアなんて二度と耳にしたくないね。」(中略)「ナイトメアを脱ぎ捨てて、名前を手に入れる。」

 ベローナでは、スコーピオンズのメンバーのようにまるで源氏名(笑)のようなニックネームで呼び合う者もいるし、ニューボーイやカンプのように外の世界の名前をそのまま持ち込むものもいるが、基本的にはどうしようが自由。ただそれまでの自分の名を捨てた者は、それまでの“自分”も捨てて新しい人格を身につけている者が多いとはいえる。それが許されるのがベローナという特異な場所なのだ。
 そればかりではない。ベローナという場所では(訪れるのは難しいが一旦辿りつけさえすれば)、そこに居続けるのも離れるのも含めて、何をしようがまったく本人の自由裁量に任されており、仕事をしなくても何かしら食べ物にありつくこともできる。
 そんな場所だからこそ、ナイトメアのように“外”の人格を一切忘れて“内”だけで通用する「ペルソナ」を身につけることも可能なのだ。キッドも一応は「マイク・ヘンリー・フ(?)」なんていう名前を思い出しかけるが、そんなものはベローナにおいて様々な経験をするのに、結果として何ら必要なものではなかった。

 夏のキャンプに参加している間、子供たちには普段の生活の記憶など必要などない。しかしやがてキャンプを終えて日常生活にもどって行った時、そこで経験した様々な出来事はかけがえのない財産となって、彼らの心の中に残るに違いない…。
 キッドにとってベローナとはそんな場所だったのではないか? そして自分が『ダールグレン』に魅かれるのも、ベローナがそんな場所だったからではないのか?
 本書を思い返すたび、そんな気がしてならない。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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