『ダールグレンⅠ・Ⅱ』 サミュエル・R・ディレイニー 国書刊行会

 注)今回はマニア向けの話題なのでご容赦頂きたい。(笑) なお以下の文章は作品の性質上
   「ネタバレ」にはなっていないと思うが、設定や世界観について触れているのでこれから
   読むつもりの方はご注意を。

 世間ではいざ知らず、本書『ダールグレン』が刊行されたという事は、こと幻想/SF系の海外小説好きにとってはとんでもない大事件。なぜなら数十年に亘って噂ばかりが先行する幻の作品だったのだ。
 「アメリカで出版されるやいなや数十万部のベストセラー!」とか、「T・ピンチョンの『重力の虹』に匹敵する」とか、「長くて複雑なので“どこまで読んだ?”が合言葉に」なーんていう、まことしやかな話が伝わっていた。
 そんな折、国書刊行会から“未来の文学”というシリーズ(*)が始まり、刊行予定作品のリストに『ダールグレン』という名を見かけた時には大変驚いたものだ。その後、刊行延期という「危機(笑)」を幾度か繰り返したのち、このたび目出度くも発売の日を迎えることができた。発売当日に本屋の店頭で見つけたときは、正直、夢じゃないかと思ったほど。
 上下巻で計6,600円(税抜)という定価もさることながら、総ページ数1007ページというボリュームにもびっくり。本屋の棚で強烈に目立つ真っ黒な装丁とともに、文句なく2011年の最大の話題作といえるのではないだろうか。

   *…ウルフ『ケルベロス第五の首』やベスター『ゴーレム100』など、ファン垂涎の作品
     が目白押しの素晴らしい叢書。

 前置きが長くなったが、そろそろ内容についての感想をば。まずは“未来の文学”のパンフレットに載っている宣伝文の引用から ――
 『都市ベローナに何が起きたのか――多くの人々が逃げ出し、廃墟となった世界を跋扈する異形の集団。二つの月。永遠に続く夜と霧。毎日ランダムに変化する新聞の日付。そこに現れた青年は、自分の名前も街を訪れた目的も思い出せない。やがて<キッド>とよばれる彼は男女を問わず愛を交わし、詩を書きながら、迷宮都市をさまよいつづける……』
 本書の粗筋についてはこれ以上付け加える事は無いだろう。嘘偽りなくこれで全て言い尽くされていると思う。文字通りこれだけの話なので、本書に普通の小説みたいな「起承転結」や、もしくは「物語に隠された謎の解決」などを期待して読むと、見事に肩透かしを喰らうに違いない。それでは1000ページにも亘って何が書いてあるのかというと、記憶を無くしたキッド(=坊や)がベローナで体験する人々との出会いや想いが、(ときおり起こる不気味な現象とともに)延々と語られているのだ。
 では本書が退屈なのかというと、決してそんなことは無い。実はかつてピンチョンの『重力の虹』に挑戦したとき、あまりにも分かり難いために途中で挫折したという苦い経験があり、最初は確かに警戒して読み始めはした。しかしじっくり腰を据えて読めば何のことは無い。話の筋はとても分かりやすく、個々のエピソードも(派手さはないが)とてもリアルで、むしろ物語の豊饒さというものを、久しぶりにたっぷりと味わうことが出来た。
 身近な人の感想をみても概ね分かり易いと好評のようだ。(ただし好評なのは「文章の分かりやすさ」についてであって、話の内容については賛否両論あり。)
 ここからは自分が感じた本書の印象について書き連ねていこうと思う。ただし本書の解釈にはただひとつの「正解」というものは用意されていないので、読み手の数だけ答えが存在するとも言える。従って以下に述べるのは、あくまでも個人的なものであることを重ねてお断りしておく。もしも大枚はたいて買ったのに全然面白くなかった ―― なんて事になっても責任はもてないので悪しからず。(笑)

 先程も述べたように本書は細かなエピソードの羅列で構成されており、全体で何か「大きなひとつの物語」を描き出そうとするものではない。大雑把に分けると前半の「Ⅰ」では、ベローナという特異な空間に初めて足を踏み入れた主人公が、周囲の環境に徐々に慣れていく様子や、その過程で感じる不安と緊張などを中心に描かれている。後半の「Ⅱ」ではベローナにも徐々に慣れてきて、環境による不安が減った代わりに、周囲の人々との関係に伴なう焦燥感や怒りといった感情、そして出会いと別れが描かれている。(とは言っても「Ⅰ」と「Ⅱ」で内容がきちんと分かれている訳では無く、グラデーションのような感じではあるが。)
 読者は緩やかに続いていく個々のエピソードや、その時々のキッドの心象がまるで環境音楽のように自分を包みこむのに、ただ身を委ねていくだけで良い。
 そんな中で幾つか感じたことがあった。例えば次のようなことだ。
 ・本書の魅力の源泉になっている大小の様々な「謎」。
 ・リアルであるが故に余計に感じられる現実世界との微妙且つ異様なずれ。
 ・(メタ)フィクションとしての構成の妙。
 作者はこれらの「仕掛け」を作中に組み込んで全体をうまく構成している上、細部にも決して注意を怠らない。さすがに最初から読み返すのは骨が折れるが、途中で何度か軽く前に戻って読み返してみただけでも、会話が冒頭とラストで対になっているとか、あとの方で重要な役割をする人物が前でさらりと言及されているといった、作者が仕掛けた色々な遊びに気が付いた。まるでディズニーランドで「こんなところにもミッキーが隠れています!」と言われているようで、こういうのはとても愉しい。

 本書には最後まで解決されないまま放置される“謎”が多くある。それらを大きく2種類に分けてみると、ひとつ目はベローナという「場所」そのものに関する謎になるだろう。時期的には『トポフィリア』などの景観論が華やかりし頃なので、それらの影響もあるのかも知れない。
 ベローナはかつては200万人もの人口を誇ったアメリカ屈指の大都会だったが、今は1000人ほどがコミュニティを作り住んでいるだけの廃墟と化してしまっている。(どうやら何かのカタストロフィがあったようだが物語中では周知のことであるらしく、最後まで読者に明かされることは無い。) この場所では自然現象もおかしくなっている。季節の移り変わりはなくなっており、大気には常に煙や霧が漂っていて、遠くが見通せるほど空気が澄みわたることは滅多にない。ごく稀に晴れ渡るときがあると、決まってそこには「2つの月」や「異常に巨大な太陽」など、不吉な兆しともとれる天体現象が出現する。(本書における唯一のSF的なネタといえるものはこれぐらい。)
 またベローナは外の世界とは遮断されており(なぜだかは不明)、テレビやラジオは一切入らない。何かの拍子に訪れる者を除いて人の行き来も殆どなく、まるで外界から隔離された社会実験の場のようだ。
 次に本書のふたつ目の謎だが、それは主人公キッドにまつわるもの。彼はいったい何者で、なぜ記憶を無くし、何の目的でベローナを訪れたのか、そしてここで何をしようというのか?
 ―― すなわち本書におけるキッドの彷徨とは、ベローナが抱える”秘密”との出会いであるとともに、主人公が自らの”秘密”を探求する為のものでもあるのだ。

 話は少し変わるが、一般的な小説において「物語」が起こるのは、A/Bふたつの存在が対峙した時といえるだろう。AまたはBのどちらかによる相手側(BまたはA)の理解、もしくはお互いの相互理解(=コミュニケーション)のどちらのパターンにおいても、読者はまず自分の視点をどちらか片方に重ね合わせることで、他方を理解しようとするだろう。その場合、重ね合わせの対象の中に、ある程度は読者本人の価値感や常識と一致するものがあってこそ、初めてもう片方の存在の特異性に対峙することが出来るのだ。
 しかるに本書ではどうか。読者が頼りにするのは謎に満ちた主人公か、それ以上に謎に満ちた魔都ベローナのいずれか。読者は物語を読んでいる間、これらふたつの謎に併行して接し続けることになる。一応はキッドの視点で話が進行していくが、読者が主人公に寄り添えば寄り添う程に違和感が際立ってくる気がする。どちらかといえば起伏がなく淡々と進む物語であるのに、本書が全編に亘って異様な緊迫感に包まれている理由は、案外こんなところにあるのではないだろうか。

 『ダールグレン』で気が付いた仕掛け“その2”。本書の舞台は現実世界に極めて近い世界であるが故に、微妙な差異が却って異常さを際立させるという話を先程したが、その元になる「リアルさ」は、おそらく小説内の時間経過が読者の実時間とシンクロさせている事によるのではないかということ。(**)
 解説で巽孝之氏も指摘しているように、『エンパイヤ・スター』など初期の作品では、まるで圧縮したような「濃密な文体」が特徴だった。(これは如何様にも深読みできる“多重化した視点”という意味で「マルチプレックス」と呼ばれ、ディレイニー作品の大きなウリとなっている。)
 それが本書では一転して極めて長大なボリュームとなっている。これは現実世界に極力近いリアルな時間の流れを作るという、はっきりした目的があったからではないかというのが、自分の推測。だからこそ「自分がまったく知らないうちに」何日も経過していたと知った時に、キッドが感じた心の衝撃が読者にも直接伝わってくると思うのだ。(つまり単なる修辞的な効果ではなく、構成上の必然があって書かれた長文だというわけ。)
 また例えばゼラズニイやジョアナ・ラスなど“うるさがた”のファンに受ける作家たちや、ギャング集団/ヘルス・エンジェルスといった名が実名で登場するのも、リアルを追求する上で重要な効果をもたらしているといえる。

  **…本書を読んでいる間、筒井康隆の『虚人たち』を思い出していた。その中で筒井は
     幾つかの実験を行っているが、そのひとつが小説内の時間と読者の実時間(=本を
     読み進むのにかかる時間)をシンクロさせるというもの。主人公が意識を失うと
     白紙のページがしばらく続くのはとても新鮮に感じた。

 自分が気付いた仕掛け“その3”にうつる。今までと同様に構成に関する話だが、これは誰もが「第7章 アテナマータ―災厄日記」を目にした時に一番最初に挙げる特徴だろう。すなわち最終章である第7章に至って、本書はそれまでの「物語」から「物語が書かれた紙片(***)」へと変貌をとげ、その瞬間に物語全体のフレーム/枠の存在が明らかにされるのだ。
 ただし紙片に書かれていること自体は、第6章までの内容からの続きとなっていて劇的な変化はない。ときおり生じていたキッドの主観時間と周囲時間との不整合も、紙片や書き込みがところどころ失われるという形で、それまでと同様に存在している。
 本書に突然「フレーム」が登場したことで、自分の受けたショックは大きかった。はたしてこの章の(そしてこの物語自体の)フレームを提供しているのは、いったい誰なのか? いやそれどころか、第1章の冒頭でキッド(と後に呼ばれる男)が体験した、現実か夢かすら定かでないある出来事を語っているのはそもそも一体誰なのか? あたまの中に沢山の「?」マークが浮かんでは消え、そして最終的に思いついた仮説とは、次のようなものだった。

 『本書全体の語り手はキッドではなく実はダールグレンではないのか?』

 そしてキッドが拾ったノートの最初の持ち主も、実はダールグレンなのかも知れない。キッドが書いた詩集「真鍮の蘭」に著者名が印刷されていないのに呼応するように、本書には著者名しか書かれていないのだとしたら…。
全体を貫く神の視点の持ち主が“ダールグレン”だとしたら、その場合「サミュエル・R・ディレイニー」という署名は果たして何者なのか?

 ***…ここでは筒井康隆『驚愕の嚝野』を連想。

 以上が『ダールグレン』において自分が感じた様々な構成上の仕掛け。こういった仕掛けを見つけるのも確かに大変面白かったのだが、「器」だけでなくそこに入れる「中身」も本を愉しむ上で大切な要素なので、続いては内容についての感想も簡単に述べておく事にする。
 キッドがベローナで体験することは、基本的にはビルディングスロマン(教養小説)の範疇に入るものだと思う。教養といえば、一番分かりやすいのはカントにならって「真/善/美」で括ることだろう。という訳で、ベローナにおける「真/善/美」について考えてみた。
 「真」:真実は無い。周囲の環境もキッド自身も本質は定かでなく揺らいでいる。
 「善」:WASPの代表たる宇宙飛行士カンプからカリスマ黒人ジョージ・ハリスン(!)
     まで、ありとあらゆる価値感の坩堝と化している。
 「美」:キッドやニューボーイによる詩作や芸術を巡る議論。
 こうしてみると、著者がベローナという隔離された都市(=特異点)を創造した理由は、学生やヒッピーによるムーブメント、ジェンダーや同性愛および有色人種といったマイノリティの問題、そして都会生活者の孤独と不安など、当時のありとあらゆる社会現象を縮図にして一緒くたに放り込む為だったような気がしてくる。(時代のニオイまでそのままの状態で、永久に閉じ込めたのが魔術的な都市ベローナというわけだ。)
 何となく「自分探しをしている若者が夏休みのキャンプで経験した出来事で人間的に大きく成長する」という、よくある青春ドラマのパロディのようにも見えてくるな。(笑)

 本書の評価は「謎」が「謎」のまま終わることを許せるかどうか?とか、上記のように社会論や文学・芸術論的な議論を好きかどうかによってもガラっと変わると思う。少なくとも自分にとっては、今まで「満点」をつけた『百年の孤独』『リトル・ビッグ』『ソラリス』に続く“4冊目”と呼んでも良いくらい、満足のいく作品であったといえるだろう。

<追記>
 自分が今までに満点を付けた上記3作品において、自分がはたしてそれらのどこに魅力を感じたのか、少し考えてみた。
 ■『百年の孤独』ガブリエル・ガルシア=マルケス(集英社)
   物語の細部の仕掛けや幻想感もさることながら、マコンドというひとつの町の誕生から
   消滅までを描いて、ひとつの「環」が閉じたという満足感を強く感じさせる。
 ■『リトル・ビッグ』ジョン・クロウリー(国書刊行会)
   例えば言葉にすれば失われる「儚いもの」(≒「フラジャイル」by松岡正剛)を、
   周りの輪郭のみを描写することで浮かび上がらせる。そしてそれら「儚いもの」の
   奇跡のような美しさが徐々に見えてくる過程が、読む者に至福の時をもたらし、
   いつまでも終わって欲しくないと思わせる作品になっている。
 ■『ソラリス』スタニスワフ・レム(国書刊行会)
   完璧なまでに緻密に作り上げられた仮構の世界を提示し、人間は「全く異質なもの」を
   どこまで理解可能かについて、あらゆる文学の形式や手法を放り込みつつ追求した、
   “百科全書”のようなスリリングな作品。この世の全ての問題について語られたような
   満足感が得られる。
 以上、3作品にはそれぞれ異なる魅力を持っていたわけだが、本書『ダールグレン』はそのどれとも違っていた。(社会学的な論点を盛り込んだという点もそうだが、もっと大きな違いがあるとおもう。)
 3作品には読後「完璧な円環が閉じた」という強い感覚があったのだが、今回は逆に「円環が閉じない」という強い感覚をもったのだ。敢えて完結しない事により、狙いが全て表現できるという逆説。最初から「不完全であること」を目指して、しかもそれに完全に成功しているという不思議。そのような意味で本書を「完璧な99点」とでも呼んでおきたい。これからも何度か戻って来ることになりそうな、そんな予感にみちた一冊だった。
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「リトル、ビッグ」について

初めまして。いつもこのブログを見ている読者の一人です。
このブログの深い考察は、私の読書体験を豊かにしています。ありがとうございます。

ディレイニーといえば、いつの間にか国書刊行会のホームページで「ドリフトグラス」が刊行予定書籍になっていますね。無事刊行されると良いのですが...楽しみです。

ここからが本題です。ジョン・クロウリー「リトル、ビッグ」の事です。以前この絶版本を何とか手に入れ読んだのは良いものの、余りにも抽象的過ぎて、途中で挫折してしまいました。私はファンタジーを余り読まないので、合わないのかとも思いました。
しかし、舞狂小鬼さんがこの小説に対して満点をつけているのにはびっくりしました。素直にすごい読者だと思いました。
そこで再び読んでみようと思うものの、長くて気力が必要なのでなかなか決心がつかず今に至ります。

そこで質問します。「リトル、ビッグ」を読み終えて素直にどんな感想を持ちましたか?この本で描かれている寓意は努力次第で読み取れるものなのでしょうか、そしてその答えは素晴らしいのでしょうか?

なんだか分かりにくい質問ですね。少ない書評では、「リトル、ビッグ」はなかなか理解できない物語として認知されているように思われます。そこで、この小説に愛着を持つ人なら良く分かるのではないかと思いコメントしました。

長文になりました、すみません。お時間のある時に答えていただけたら嬉しいです。

reclam様

いつもご訪問ありがとうございます。過分なお褒めの言葉を頂戴しまして恐縮です。

ディレイニーの『ドリフトグラス』はついに12/下に刊行されるようですね。ちょうど今日、ツイッターで情報が廻っておりました。収録作は多分どれも持っていると思うのですが、「エンパイア・スター」が新訳になるようなので読み返せるのが愉しみです(^^)

さて『リトル・ビッグ』の件、ご質問いただき有難うございました。この本、私は大変に気に入っているのですが、カスタマーレビュー等では酷評されていたりして、同好の士がいないので大変淋しい思いをしています。なんとかご理解いただけるように頑張って書きだしてみますね。

まず自分が読んだ時の事を正直にお話しますと、最初の四分の一あたりで一度挫折しました。再び読み始めたのは数か月経ってからです。その時の記憶からすると、おそらく上巻は読み進むのが結構つらいと思います。
この物語を大きな円に喩えるとすれば、円のRが大きすぎてちょっと見には直線にしか見えない感じです。なので、読者はどこまで行っても全体像の片鱗が見えてこないので、ひたすら前に進み続けなければならず辛くなるのだと思います。
私の場合は上巻が終わるあたりまでが山でして、下巻に入ってからは徐々に勢いがつき、四分の三あたりまで来ると物語の輪郭が薄々見えてくるので、ページをめくる手が止まりませんでした。

物語が示そうとしているものは、たぶん完全には読み取れないと思います。(自分も自信は無いです。)それは作者が言葉では示せないものを、描きだそうとしているからではないかと思っています。
その方法とは、鉛筆の描線でデッサンを描くのではなく、「塗り残した余白」によって浮かび上がらせる感じです。ですから最初のうちは無駄な線が沢山あって絵が見えないので途方にくれますが、それらの集積でぼんやりと像が浮かび上がってきたときに、背中がぞくぞくするような感触を味わいました。

ヒントを書くとすれば、それは「現実の世界から永遠に失われてしまったものの残滓」ではないかと思っています。失われたものですから直接描写することは出来ないわけで、ただ「それが無くなってしまった痕跡」を書くしかないわけです。あれだけのボリュームが必要だったのも、それが理由ではないかと。

もしも再チャレンジをされるのであれば、途中でどんなに不安になっても、作者を信じてそのまま読み進められることをお薦めします。何かを暗示しているらしいという事が見えてきたら、あとは自分なりの仮説をたてて読まれると良いのではないかと思います。
もしも読まれたあとで今ひとつ解らないということであれば、またコメントをいただければ、私なりの仮説をご紹介させていただきたいと思います。(というか、この本について話したいだけなんですけどね。/笑)

また宜しければどんな記事にでも結構なので、コメントをいただけると嬉しいです。長々と失礼いたしました。それではまた。

詳細な回答、ありがとうございました。

ここまで詳細に語ってもらえるとは思っていませんでした、さすがです。
やっぱり最後まで読む必要がありそうですね。近々頑張って再挑戦し、読了する事があれば感想をコメントしたいと思います。

お礼として、おすすめの小説などを教えたいのですが、これがなかなか難しい。このブログの記事の傾向を見ると、怪奇・幻想・SF小説を中心にしているように思います。しかし、最近の私の読書傾向は純文学に偏っています(ウルフ「新しい太陽の書」を面白く読んでいた時代が懐かしい)。
そこで、今でも印象に残っている怪奇・幻想小説をいくつか挙げたいと思います。

「シュルツ全小説」ブルーノ・シュルツ
「アルゴールの城にて」ジュリアン・グラック
「ムントゥリャサ通りで」「ダヤン」ミルチャ・エリアーデ

舞狂小鬼さんが読んでなさそうなものを選んだつもりですが、いかがでしょうか?特に、シュルツはマルケスやカフカが好きならぜひ読んでほしいと思います。

また長文になりそうなのでこの辺にしておきます(私の周囲では小説について語る人がいないのです)。また、機会があればコメントしたいと思います。

reclam様(2)

『リトル、ビッグ』はなかなか”歯ごたえ”がありますが、美味しいですので宜しければぜひ。ちなみに円のRの喩えは、ネットで知り合った他の方が仰っていたものです。なるほどと感心する表現でしたので使わせていただきました。

純文学ですか、それもまた愉しそうですね。私は純文学には詳しくないので、専らに幻想系に偏ってしまっていますが…。『新しい太陽の書』は面白いですよね。ウルフの作品ははどれも大好きです。

お薦めを教えて頂きありがとうございました。
どれも読んだことが無い作品ばかりです。
シュルツはやはり面白いのですね。店頭で散々迷ったあげくに止めたんですけど、 やはり買っておくべきでした。今度機会があればぜひ入手したいと思います。
他の二人の作家も面白そうですねえ。

本についてのこういったやりとりは愉しいです。またいつでもお越しください(^^)
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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