『マルチチュード(上・下)』A・ネグリ/M・ハート NHKブックス

 人文科学の学術書で2001年に世界的ベストセラーとなった『<帝国>』という本の続篇。前作も邦訳されているがなんせ税込で5,880円と高額なので、そちらは諦めていきなり続篇から読むことにした。(全部で3部作になり本書は第2作目。ちなみに3作目は2009年に出版された『コモンウェルス』という本で、こちらは未だ日本語版は出版されていない。)
 本書の内容は副題である「<帝国>時代の戦争と民主主義」という言葉を見れば言わずもがな。彼らが提唱する「帝国」という概念が世界をあまねく覆っていく様子と、それに伴い起こる「貧困」や「戦争」といった不幸。そして「帝国」に対する(おそらく唯一の)対抗手段である「マルチチュード」という新たな存在と、それがもたらす希望について語るのが本書の目的。
 前作を読んでいなくても、本書の冒頭でおさらいしてくれているのでさほど支障はない。むしろ前作では「帝国」の成り立ちや特徴に関する説明が大きなウェイトを占めて、「マルチチュード」についてはそれほど深い考察がされていないような感じなので、結論を早く知りたい自分としてはこちらをいきなり読んで正解だったかも。
 いずれにせよ「帝国」がもたらす災厄のもっともあからさまな例である「戦争」について語るのが本書の主題のひとつだから、本書を読めば「帝国」というのが何であるかも自然に理解出来るようには書いてある。もうひとつの主題である「マルチチュード」についても同様で、前作よりも深い考察をするために必要な大まかな復習がされているので支障はない。
 ところでネグリらは自らを「左翼」と称しており、彼らが実現を目指しているのは「真の民主主義」というものだそう。そして「帝国」はそれを実現する過程における最も大きな阻害要因である、というのが彼らの基本的な考えであり、それを乗り越える為の道筋を示すために書かれたのが本書というわけ。なお彼らによれば、現在のように「選挙による代表制」をとる社会システムは、原理的に「真の民主主義」には成り得ないものであって、いくら突き詰めていっても、「帝国」による歪みの解消は不可能なのだそうだ。
 本書の構成としては、前半部分には「帝国」を生み出すに至ったそれら「民主主義の問題点」についての詳しい分析が、そして後半部分にはその解決方法についての考察がまとめられている。それでは早速その詳細について――。

 歴史の授業で習ったように、かつてのビザンツ帝国(神聖ローマ帝国)においては、「教権(=キリスト教の最高権力)」と「帝権(=国家の最高権力)」が「神聖ローマ皇帝」のもとに集約されていた。これは最も極端な形での一極集中、すなわち「個人」への権力集中だったといえる。やがて時代は進み、貴族たちによる統治の時代(封建制)を経て市民による統治(民主制)へと移行してきたのが、ヨーロッパにおける統治形態の大まかな変遷。これはすなわち、王や貴族階級といった一部の特権階級だけでなく、あらゆる人々の生活を少しでも向上すべく奮闘努力した道のりだったと言える。しかし世界では未だに様々な問題が噴出して、不幸が無くなるどころかますます増えつつあるようにも見えるのは何故だろうか。
 この点に関してネグリらが述べている重要なことがある。それは上記の「教権&帝権生」「封建制」「民主制」のいずれの統治システムにおいても、「統治権力とイデオロギーが一体になっている」という点では何ら変わらないという事。たとえばビザンツ帝国において、当時の教権が代表していた「宗教」というのは、今で言えば「資本主義」や「共産主義」といった“イデオロギー”と何ら相違は無い。現在でも「民主主義」とか「人権」などの皆が“拠り所”とするある種のイデオロギーがあってこそ、初めて「国家」という形態が成り立っていると言える。すなわち「国家」というシステムにおいては、昔も今も変わることなく「統治権力とイデオロギー」が一体になって世の中を動かしてきたのだ。
 しかし誰もが当たり前と考えるそれらの仕組みこそが、実は“真の民主制”を実現するための阻害要因ではないのだろうか?―― というのが、本書において彼らが主張していること。

 現在の民主主義は、有権者による直接選挙によって選ばれた代表者が会議を招集し、合議制で統治をおこなうことを基本としている。古代ギリシアにおけるポリスのように有権者の総意による直接民主制は少人数だから出来ることであって、エリアや人数が増えてくると実質不可能となる。そこで(やむを得ず)とられたのが代表制であり、この方式は民主主義を実現する上で最も理想に近いシステムであるとされている。しかし果たして本当にそうだろうか?
 代表者は自分を選んでくれた集団の意見を集約して会議に臨もうとするが、複数の意見を集約する過程でどうしても漏れる意見が出てきてしまう。また代表者本人の主観的な意見も(本人が意識する/しないに関わらず)盛り込まれることになる。その結果、最初にあった多様な立場・意見の一部(または大部分)は失われていく。
 先程の代表者は他の代表者と意見を調整して更に上位の会議体へと意見を上げることになる。いずれにせよ最終的には「国家」としてひとつの意見(政策)に纏め上げることになるわけだが、階層が上がるたびごとに民意の反映は原理的に難しくなり、多様な人々の考え方は抽象的な「主権」というものに集約されていくことになる。

 これは「代表制」がもつ限界で如何ともしがたいところだろう、「代表制」はあくまでもbetterであってbestではないのだから。――とまあ一般的には大体このように了解されているのではないだろうか。しかし本当の問題はそこから先にあるのだ。
 現在のところ、「主権」の最終的な形は「国家主権」であり、仕組み上は「国民」によって構成・運営される「国民国家」だということになっている。(「国連」はそれら国民国家の集合体なので主権はない。)最近は世界経済や地球環境問題を引き合いに出すまでもなく、国民国家の垣根を超えてグローバルに影響を与えあう世界になっている。その結果、国家の更に上のレベルに「帝国」という新しい支配形態が(新たな主権の担い手として)表れつつある、というのがネグリらの主張だ。この主権は決して人々の多様な意見を反映/集約したものではない。幾層もの段階を経て意見が集約されていく過程で、一部の人々に都合が良い判断に代わってしまっているのだ。(それらのすべての人々が悪意をもってそれを行っているという訳ではないだろうが…。)
 結局のところ多様な人々の意見や価値観を集約するという今の社会の仕組みそのものに、今の国際社会における貧困や戦争などといった不幸の大元が隠されていたという訳だ。
 これは決して極端な議論ではないと思う。例えば死刑制度を考えてみれば良い。社会の多数の幸福を維持するため、ある人間の命を奪う「権利」が国家には存在する。凶悪な犯罪であればこそ国民の合意のもとに維持されている制度ではあるが、ここに示されているのはすなわち「国家主権は個人の主権に優越する」ということに他ならないだろう。もしこれが凶悪犯罪に対する死刑といった極端な例ではなく、経済政策や一部の階層に対する社会制度の不備、もしくは他国に対する“自衛的な”侵攻であったらどうか。一部の集約された意見に基づいてなされる政策決定には、全ての人々の多様な価値観・意見が反映されていると果たして言えるだろうか。
 こうして、集約/単純化されつつ規模が拡大していく「主権」は、やがて国民国家同士の関係性のステージ(グローバリゼーション)へと発展し、その行き着く先に登場したのがネグリらのいう「帝国」という新しい支配形態なのだ。(*)
 ネグリらは言う。民主主義の問題を解決するのに必要なのは、(現在のような選挙による代表制ではなく、)あらゆるイデオロギーや価値観を等しく認め、共存させることができる統治システムでなくてはならないと。そのシステムはあらゆるイデオロギーから完全に独立したものであって、どこかに偏ろうとする動きを察知・牽制してバランスを保つことが出来なければいけない。人々の多様な価値感を等しく認め続けることが絶対原則となる。

   *…本書を読んでふと思ったのだが、もしかしたら究極的なある価値観への集約という
     のは、「一神教」における神への帰依に象徴されるものなのかもしれない。
     「帝国」の行き着く先は、世界を覆い尽くす神の如き単一の“意思(価値観)”
     ということではないのだろうか? 
     そしてネグリらがそれに対抗すべく求める処方箋とは、森羅万象がバランスを取り
     ながら共存して描くまさしく「曼荼羅」のようなものかもしれない。そんなものが
     本当に実現可能なのだろうか?

 話は飛ぶが哲学者の竹田青嗣が著書『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)において、同様の問題を考察している。その本では、ヘーゲルが主張した「自由の相互承認」に立ち返る事こそが最も根本的且つ唯一の方法である、というのが結論となっていた。しかし(竹田自身も言っているように、)それはあくまでも原理原則の考え方に過ぎず、現実のものとしていくには具体的な社会活動の在り方を考えて行く必要がある。本書は「自由の相互承認」に基く社会システムに求められるべき「資質」を明らかにしたものだといえるのかも知れない。すなわち自分にしてみれば、本書は『人間的自由の条件』とセットで読まれるべき本なのだ。(ただし本書でもまだ考察は充分であるとは言えないと思う。まだ道は半ばであり、更に具体的な社会活動へと繋がる提言が必要ではないだろうか。それがもしかしたら3作目の『コモンウェルス』で明らかにされているのであれば、是非とも邦訳が待たれるところだ。)

 すこし結論を急ぎ過ぎてしまった。本書ではあらゆるイデオロギーから独立して、人々の多様な価値感/意見を等しく認める理想的な統治システムを実現するため、(著者曰く)唯一の希望であるところの「マルチチュード」について、前作『<帝国>』よりさらに踏み込んだ考察を行った本なのだ。
 本書の後半はこの「マルチチュード」についての詳しい解説に充てられているが、結論をさきに書いてしまうと、最も重要なキーワードは「<共>性」および「生政治的生産」ということ。
 9.11をきっかけとしてブッシュ大統領(2001年当時)が掲げた「正義の戦争」というプロパガンダに象徴される「他者への非寛容と圧殺」すなわち所謂「テロとの戦い」と言われるものによって、世界は「永続的な戦争状態」に陥ってしまった。
 戦争状態においては勝つことが全てに優先されるため、主権者である「国家」は基本的に民主主義の一時的な停止が許される。従って「永続的な戦争状態」になっているという事は、常に人々の意思よりも国家の意思が優先されることを可能にする。当たり前のことだが、(物理法則ならともかく)「主義」や「主張」に絶対的な“正しさ”なんて存在しないわけだから、結局のところはまるで昔の宗教戦争のような泥沼が常態化することになる。
 その行き着く先は「生権力(**)」、すなわち個人や集団、地球上のあらゆる生きとし生けるものの生(死)を直接支配する権力に他ならない。外部に対して行使される「戦争」、そして(表裏一体である)内部に対して行使される「警察権力」は、今やそれほどまでに絶対的な力を持つようになってしまっているのだ。

  **…フーコーが『監獄の誕生』などで執拗に追及してきた権力構造の最終形態。

 ナショナリズムの源泉となってきた「想像の共同体(***)」の中でも最も強固な「国家」という存在。ある国家における問題を他の国家による制裁や武力によって無くそうとしても、結局のところ強大国を中心とした「帝国」の強化に寄与するだけ。そしてその結果、今日のグローバル化は遂に「帝国」という更に巨大なモンスターを生み出すに至り、それに反対する人々による多くの抗議行動も起こっている。しかし逆に主権をもつ「国家」の側からは「国民」としての「責任」や「ガバナンス」といった“倫理”を強制しようとする動きもみられ、世界各地で争いが起こっている。(たとえば第4期の再選を果たしたどこかの首都の知事みたいに。)
 しかしいくら締め付けを厳しくしても、インターネットのように個人が直接繋がる手段を得た現代では、そこから溢れ出すものが必ずでてくる。中国の民主化運動しかり、エジプトやリビアにおける反政府活動しかり。日本では年越し派遣村や渋谷で行われた反原発デモなどがそれにあたるだろう。そしてその担い手こそが、ネグリらが本書の主題に据えた「マルチチュード」というものなのだ。

 ***…ベネティクト・アンダースン著『定本 想像の共同体』(書籍工房早山)を参照。

 とまあ、ここまで書いて何だが、実は「マルチチュード」という概念は漠然としすぎていて、本書を読んでも正直言って概要が掴みにくい。一言にまとめると、特異性や多様性をむりやりひとつに集約することなく、違いを互いに尊重し合いつつ且つ協調し合って共に行動するものとでも言えば良いだろうか(すなわち「<共>」というキーワードの意味はコレ)。
 孔子でいえば「(君子は)和すれど同ぜず」みたいな感じ。喩えは悪いが自分にとっては「百鬼夜行」というイメージも。(笑)
 もちろんこの概念は「国家」という社会システムを(今のところは)否定するものではない。むしろ生活を守るセーフティネットとしての社会システムは必要不可欠であるといえる。大切なのは、それらの社会システムが持つ最も強い力、すなわち「法的権利を決める決定」が、多様な特異性をもつ者の間のコミュニケーションと協調のプロセスの中で、キチンと行われると言うこと。それがすなわち「<共>」に基づく生き方なのだ。
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