『翼の贈りもの』 R・A・ラファティ 青心社

 今回はかなりマニアックな小説についてのつぶやき。

 決してメジャーではないがとても熱心なファンを持つ米作家、R・A・ラファティの久々の新刊短篇集。彼の本を読んだことがある人は判ると思うが、ラファティの小説には「豊饒」という言葉がぴったりくる。どれも文章の密度がとんでもなく濃い、すなわちひとつのセンテンスが持つ情報量が極めて多い小説ばかりで、うかうかしていると話の筋が全く分からなくなるほど。物語のタイプは違うが、まるでバラードの実験作品である「濃縮小説」のシリーズを読んでいるようだ。
 実はラファティ作品を読むといつも思い浮かべるイメージがある。それは屈折率の高い結晶を透かして向こう側の景色を見ているような、もしくはプリズムをいろんな角度から眺めているような感じ。読むほどに違った顔を見せてくれ、決して読み飽きる事がない。強いて喩えるならば「始原的」とでも言うのだろうか。あるいは何にでもなれる可能性を秘めた「iPS細胞(幹細胞)」と同じ種類の豊饒さとでも。
 色々な要素がごちゃ混ぜになって詰め込まれたのがラファティ作品の真骨頂。その中には彼の特徴として良く言われるように「アメリカのほら話」や「笑い」といった要素がもちろん存在はする。しかしそれが全てではないのだ。
 ラファティを語る上では外すことができない「笑い」についても少し述べておこう。
 彼の作品が持つ「笑い」は、乾いていて毒のある所謂「ナンセンス」と呼ばれるタイプに属する。抒情性がある「ペーソス」や当意即妙を軸とする「ユーモア」とは違っていて、文化人類学でいう「トリックスター」が引き起こす笑いに近い。そこが彼の作品を読んで豊饒さとともに神話性を感じる原因なのかも知れない。(チャップリンではなくてマルクス兄弟といえば映画ファンには分かってもらえるだろうか。もしくはマンガであれば、赤塚不二夫の『レッツラゴン』とか榎本俊二の『ゴールデン☆ラッキー』とか...。)
 したがって、笑いの要素が強い作品だけを集めれば、とてもコミカルな作品集に仕上げることだって充分に可能。それが日本における初めての短篇集『九百人のおばあさん』で自分が持った印象。
 でもそれを読んでラファティに対するイメージを固めてしまった読者(=自分のこと)は、その後にまるで毛色が違う『子どもたちの午後』や『次の岩へとつづく』といった作品集を読んで面喰ったり、更には難解なことで知られる長篇『イースターワインに到着』『悪魔は死んだ』を読んで、完全にお手上げになってしまうのだろう。彼の魅力は単なるほら話/笑い話を超えたところから始まるのだけどね。(それに気がついたのはかなり後になってからだった。)
 骨太で不思議な話を心行くまで味わいたい人には、本書はこの上ない「贈り物」になる本だと思う。

<追記>
 本書の作品はどれも面白かったが、特に気に入ったのは「だれかがくれた翼のおくりもの」「なつかしきゴールデンゲイト」「ケイシィ・マシン」「優雅な日々と宮殿」、そして先述した“始原的な豊饒さ”が炸裂する「深色ガラスの物語」の5作品。

<その後の追記>
 この記事をアップした夜、ラファティの翻訳家や研究者によるディスカッションがネットで配信されたので、タイミング良く観ることが出来た。色々と示唆にとんだ話を聞けて面白かったが、その中でも一番参考になったのはラファティとキリスト教の関係のくだり。とても敬虔なクリスチャンだった彼の小説において、登場人物たちがとても残酷な死に方をしたりするのは、「絶対的な神の前に身を投げ出すか否か?」という一神教の本質に起因するものかもしれない。そう言われて改めて考えてみると、おちゃらけた話の中にも旧約聖書にみられるような原始キリスト教における「残酷な神」の影がちらほらと見え隠れする気も。
 彼の小説で「ナンセンス」とみえた部分が、実は我々とは全く別の「ロジック」なのかも...という考えは非常に刺激的。旧作をそんな目で読み返してみたら、また違った姿を見せてくれるかも知れない。うーん、侮れないぞラファティ。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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