『ストリートの思想』 毛利嘉孝 NHKブックス

 2000年ごろから顕著になってきた「①社会運動/②文化/③思想の一体活動」を「ストリートの思想」と名付け、それについて自らの経験を交えながら明らかにしようと試みた本。ちなみに著者は「カルチュラルスタディーズ(文化研究)」の研究者である。
 ここのところ10年ほど、世の中があまりにも目まぐるしく変化するので、正直いって何が起こっているのかよく判らなかった。しかし本書を読むことで、混沌としたこの状況は新しい価値観が顕われてくる兆しだったということが、何となく理解できたような気がする。周りが何となく見通せるようになったというか。
 自分のように理論優先型の古いタイプの人間には、本書のように理路整然と説明してくれる本はとても有難い。おかげで今の世を眺めるための新たな視点を得ることが出来た。

 いうまでも無いことだが社会科学は「社会」を研究の対象としている。「社会」とは個々人の意思が織りなす関係性な訳だから、そこで探求される結果には「真実」というものは存在せず、ただ「合意」があるだけ。(厳密な事を言えば自然科学においても「真実」はなくて、そう思われている「合意」しかないというのが、クーンによる「パラダイム」の概念。)
 従って本書のように現在進行形の内容を取り上げようとすると、読み手がどのような知識を持ちどのように考えているかにより判断が変わってくるので、客観的な評価は難しい。結局のところ書き手がその時代をどのような視点で捉えたか? という事なので、「○○年代は△△という時代であった」というように、どうしても後から総括する感じになってしまうのはやむを得ないところだろう。
 と、のっけから歯切れの悪い文で恐縮だが、本書について書こうとすればするほど自分の知識不足を感じてしまう。個人的には割と納得できる話が多いのだが、人が100人いれば100人なりの考え方があるわけで、他の人にも同じように感じてもらえるかどうか、はなはだ心もとない。けれど、少なくとも著者の書き方は「誠実」であると断言して良いだろう。以上、うだうだ書いていても仕方ないので早速本題に入る。

 本書は冒頭にも書いたように、2000年ごろから顕著になってきたある種の社会的な変化について分析をしたもの。現在進行形の社会的な傾向について書こうとすれば後出しの特権的な視点で断罪することは不可能であるため、本書で著者がとった方法は、その変化が生まれてくる元になった1980年代から現在までについて、著者の個人的な体験を交えながら活写しようとするもの。―― 結果としてこれが同じ時期に大学生活を送った自分の記憶とも重なり、読んでいてとても心地が良い。
 更に面白いのは、この手法がそのまま著者の専門であるカルチュラル・スタディーズの実践に繋がっているという点。
 本書に出てくるキーワードをかいつまんで紹介しよう。曰く―
 <1995年以前の時代>
  ・バブル景気
  ・デリダ/フーコー/ドゥルーズ=ガタリ/バルトといった“ポストモダン思想”
  ・山口昌男やバルトに代表される”記号論“
  ・浅田彰/中沢新一といった”ネオ・アカデミズム“の潮流
 <1995年以降の時代>
  ・オウム真理教事件
  ・阪神/淡路大震災
  ・バブル崩壊と“失われた10年”
  ・ニートや派遣社員と“格差社会” etc.

 切りがないのでこれくらいにしておくが、こうして見ると1995年を分水嶺として社会の雰囲気ががらっと変わっているのが良く分かる。これらを踏まえて2000年ごろから少しずつ明らかになってきたのが、著者が「ストリートの思想」と名付けた動きというわけだ。それがどんなものかひとことでいうと、一見左翼的な“社会運動”とサブカルチャーを中心とした“文化”、そしてそれらに付随する“思想”の3つが混然一体となった活動のこと。路上でのパフォーマンスを伴なうのが大きな特徴で、従来のように大学や論壇を中心とした「頭でっかち」の活動ではなく、実際に身体を動かして愉しみながら自然体で社会的な主張を行うもの。たとえば2008年末に湯浅誠らを中心とするNPOによって組織された「年越し派遣村」をイメージすると分かりやすいだろう。
 “社会運動”として見た場合、近年の新自由主義によって発生した様々な社会の矛盾に対して、弱者の立場から行う抗議という側面が強い。かつて「小さな政府」と「民営化」を積極的に推進した小泉純一郎や竹中平蔵は、彼らの最大の敵と言っても良いだろう。(笑)
 “文化”としては、路上(=ストリート)で繰り広げられるライブ活動やダンス、そしてヒップホップなどの音楽ジャンルに代表されるような所謂“サブカルチャー”が付随する事が大変に特徴的。古くはハウス・ミュージックや「ピチカート・ファイブ」といったグループによるサウンド、そして「じゃがたら」(懐かしい!)などを経て「ソウル・フラワー・ユニオン(*)」といえば分かる人もいるかな?
 最後に“思想”の面では「本来のポストモダン思想がもっていた政治活動としての側面」を強調するような思想となっている。これはドゥルーズ=ガタリ、フーコー、デリダといったポストモダン思想家たちが本来持っていたテイストなのだそうだ。すなわち「ストリートの思想」にとって“思想”とは、今までのような「“象牙の塔”の中の飾り物」ではなく、あくまでも実践としてあらわされるものといえる。またこの思想は必ずしも著作物によって世に問われるとは限らず、デモやNPO活動や路上ライブなどがそのまま彼らの思想の表現だというのも、今までにない大きな特徴になっている。

   *…阪神/淡路大震災のときに被災者に向けて名曲『満月の夕』の路上ライブを行った
     のが有名だが、もとは関西を中心に活動していた「ニューエスト・モデル」と
     「メスカリン・ドライブ」いう2つのバンドを母体に結成されたグループで、
     社会的なメッセージを込めた歌詞を載せたダンサブルな曲が多い。

 このように「ストリートの思想」とは今までになかった新しい活動/概念であるため、従来の思想で捉えきることはできない。そこで分析のための強力なツールとして著者が選んだのが「カルチュラル・スタディーズ(**)」という訳。(このあたり、哲学・思想に興味のない人は何の事かさっぱり分からないかも知れない。/苦笑)

  **…日本における「ポストモダン」や「カルチュラル・スタディーズ」の受けとられ方
     は、欧米におけるそれとはかなりの隔たりがあるらしい。イギリスに留学して直接
     その”風”にあたった著者ならともかく、バブル時代の“ネオ・アカ”ブームで
     多少齧った程度の自分が、生半可な知識で本書を判断するのは難しいと感じた理由
     はここにもある。もっともそのあたりの知識については、本書の中できちんと解説
     してくれているので素直に読めば大丈夫だと思う。最初に「カルチュラル…」と
     いう言葉を聞いたとき、ちょっとした胡散臭さを感じたのは事実だが。(笑)

 先程の繰り返しになるが、本書によれば「ポストモダン」や「カルチュラル…」に特徴的だったのは、それらが単なる理論ではなく極めて政治的且つ実践的な側面をもった思想という点。いやむしろ、現代の社会構造に対する分析と、批判に基づく政治的/社会的な改善活動が先に在り、それと不可分なものとして同時発生的に生み出された思想だったと言う方が正しいかも知れない。ところが日本にそれらの思想が紹介された際、政治的な側面は意図的に抜かれてしまったと著者は述べる。そして西武セゾングループら当時最先端の流通グループによって、「ファッション」の一種として消費されてしまったのだと。
 ところがその後のバブル崩壊や湾岸戦争の経験を経て状況は大きく変わる。例えば以前から活発な活動をしてきた評論家・柄谷行人は、彼の思索において重要な里程標となる『トランスクリティーク』を著し、それ以降は単なる「思索」ではない「実践」へと傾注していった。このように多くの思想家がその主たる活動の場を大学から他へと移すことで、新たな思想の供給元として社会の指導的な役割を果たしていた大学の地位は、徐々に凋落していった。その代わりに新たな「“公共圏”としての公園(***)」の位置づけが増していき、やがて「ストリートの思想」を生みだす母胎になったのだという。
 以上、本書は“社会運動”“文化”“思想”の三位一体である「ストリートの思想」を、今後の社会における大きな潮流として位置づけようと果敢に取り組んだものといえる。(果たしてこの見方が正しいかどうかが分かるのは、もしかしたら10年後なのかも知れないが。)

 ***…これってまるで歴史学者・網野善彦などが提唱した「アジール」という概念、
     すなわち中世日本の各地に散在したという自由圏の現代版みたいだ。

<追記>
 カルチュラル・スタディーズに感じていたある種の「いかがわしさ」について、すこし補足しておきたい。以前はこれを“学問”の一分野としてしか考えていなかったため、「インタビュー(聞き取り調査)による対象者の深掘り」という手法そのものに怪しさを感じてしまっていた。インタビュアーの主観によっていかようにも結果が変わる、悪い言い方をすれば結果を恣意的に「捻じ曲げる」ことが可能ではないか?という点が気に入らなかったのだ。しかし本書を読んで少し考えを改めることにした。
 人間はニュートン力学で使うような「理想空間」に生きている抽象的な存在ではない。実在の社会の中で他人との関係性を持って生きている以上、生活をする上で何らかの意思/立場の表明は避けては通れない。(それを「政治的」と呼んでも構わない。)
 もしもカルチュラル・スタディーズが目指すのが純粋な“学問”であれば、上記のような特徴は批判にも値しようが、そもそも依って立つスタンス自体が違っているのだ。いうなればカルチュラル・スタディーズは単なる「学問」ではなく、「生きるための思想」を実践しているといってもいい。最初から社会的/政治的な活動と不可分なのがこの「文化研究」なのだとすれば、むしろ実践者の主観(=主張)が入ってこその研究成果なのだろう。好きか嫌いかということは別にして、彼らのやっている事がようやく理解できた気がする。
 なお本書は、ネグリらが学術書『<帝国>』の中で提示した主張を下敷きにしているとのこと。それによれば、本書で示されたような動きは同時多発的に世界中で起きようとしているらしい。もしそれが本当だとすれば、現在進行していることは文字通りの社会的な「パラダイムシフト」なのかもしれない。そして世界のあちこちで起きている紛争が、もしも旧世代と新世代の「考え方の枠組み」の違いに起因する“軋み”なのだとしたら、若い世代が社会の中心になる頃には自然に治まっていくのかも。その時には自らのパラダイムを変更できなかった人々は、社会の表舞台から退場していく事になるのだろうな。自分はその時どちらの側に居るのだろうか。舞台から退場する側ではなくて、舞台で踊り続ける人々の中に居られたら嬉しいんだがなあ。

<追記2>
 本書を読んでいる時にずっと頭に浮かんでいたのは、今回の「東北地方太平洋沖地震」が発生してからツイッターに時々刻々と書き込まれていたコメント群だった。昔のようにマスコミの発表を一方的に受け取るだけでなく、ひとりひとりが直接繋がって情報を伝え合い助け合って、自発的な最善の“行動”に結び付けていく様子は、まさに「ストリートの思想」の実践に思えてならなかった。デマや非難中傷などももちろんありはしたが、そのような人がある割合で混じっているのは現実社会だって同じ事だ。バーチャルな空間ではあるけれど、おそらく「ストリートの思想」とはこのような事なのだろうな、と感じ入った次第。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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