『千年紀の民』 J・G・バラード 東京創元社

 バラード作品をこのブログで取り上げるのは『クラッシュ』『夢幻会社』に続きこれで3作目。バラードの作品世界をより愉しむための方法として、『クラッシュ』の時は“景観”という切り口を考えてみた。『夢幻会社』では記号論的な見方で眺めることで、ひとつの作品を異なる位相で重層的に愉しむという実例を挙げてみた。続く本作品ではバラード作品を愉しむための切り口「その3」として、“パラノイア”というキーワードを提案したい。「バラードの到達点」と称される『千年紀の民』を偉そうに「切ってみる」なんて、正直なところ畏れ多いが、まあ上手くいったらお慰みということで。(笑)
 なお今回はバラード作品をある程度読んでいるのが前提なので、いつにも増してマニアックな話題が続く。(なるべく分かりやすくするつもりではあるが、)読んでいない方には退屈かもしれないが、平にご容赦頂きたい。

 まずは今回ご紹介する提案(仮説)を先に書いてしまおう。それは凡そ次のような内容。
『バラード作品は一種の“教養小説”ビルドゥングスロマン(*)として読む事ができる。』
 更にもうひとつ加えるとすれば次のような仮説も。
 『主人公が様々な経験を積む過程で、重要な役割を果たす人物/キーマンが登場する。
      主人公を新しい世界へ導いていくその人物は“パラノイア(**)”である。』

   *…ドイツを中心にして出来あがった小説ジャンル。主人公が様々な経験をする事で、
     人間的・精神的に成長していく姿を描く。ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修行
     時代』などが有名。
  **…きちんとした精神病理学的な意味で使っているのではなく、「偏執的/強迫神経的な
     性向」という程度にとって頂きたい。彼らはパーソナリティ(人格)に極端な偏りは
     あるが、多くの場合は知性や判断力は他の人と何ら変わりはない。

 話は飛ぶが、中世イタリアを代表する詩人ダンテの代表作『神曲』には、暗い森の中へと迷い込んだ主人公ダンテに同行して「地獄」「煉獄」「天国」を旅してくれる「案内人」が登場する。(物語の前半ではヴェルギリウスがその役を担い、後半ではダンテの憧れの女性であったベアトリーチェへと引き継がれる。)
 彼らの目的は、心に迷いを生じて途方に暮れるダンテに寄り添って歩き、時に勇気づけたり適切な助言を与えることで、ダンテを精神的な“高み”へと導いていくこと。様々な経験に即してタイミングよく助言することで、より効果的な成長が望めるわけであって、これは企業に勤めている人ならお馴染みだが、所謂“OJT(On the Job Training)”というものに他ならない。(笑)
 ―― このように主人公とともに行動して新たなビジョンをもたらす“導き手”がバラード作品の中には数多く登場し、そして彼らは皆“パラノイア”ということ。このような構図が、今回提案する「仮説」というわけだ。
 論より証拠、早速具体例を挙げてみよう。
 彼ら“導き手“たちはバラードの初期作品にすでにその姿を見ることが出来る。しかしその特徴がはっきりしてくるのはどちらかといえば中期~後期の作品であり、そちらから先に説明した方が分かりやすいだろう。例えば『コカイン・ナイト』で主人公チャールズの弟フランクを狂気へと導いたボビー・クロフォード。あるいは『スーパー・カンヌ』でグリーンウッド医師を無差別殺人へと追い込んだドクター・ペンローズ。そして『永遠への疾走』において、同行した多くの人々に破滅をもたらしたドクター・バーバラなども。
 一方、初期の代表作『沈んだ世界』でいえば、“導き手”にあたるのは、海賊/ストラングマンでもベアトリスでもなく、物語途中で(調査隊から脱走して)密林へと姿を消すハードマン中尉。彼は登場シーンこそ少ないが、主人公のケランズの精神に与える影響はとても大きいといえる。それに引き換え、物語中盤を盛り上げる為に重要な役どころであるストラングマンは、これほど刺激的な“景観”の中にいるにも関わらず最後まで俗物根性が抜けきらない。その結果かどうかは知らないが、ブログなどで感想を見る限りではキャラとしてどうも人気がないようだ。(笑)
 破滅3部作の2作目にあたる『燃える世界』でも同様で、富豪のミランダ・ロマックスなど魅力的な“パラノイア”が登場する。しかし主人公ランサムは“啓示”を得るチャンスが何度も訪れたにも拘わらず、世界の“変質”のもつ意味を理解することなく死んでいく。読んでいて思わず「しっかりしろよ!」と言いたくなってくる。『燃える世界』が“破滅3部作”の中でもっとも評判が良くない作品というのも何だかわからないでもない。『沈んだ世界』のストラングマンの人気の無さといい、どうやらバラードファンは俗物的なキャラを嫌う傾向があるようだ。(笑)

 「“パラノイア”は(主人公に新しい世界の啓示を与える)“導き手”である」という視点で、もう一度バラード作品を眺め直してみよう。すると中期作品あたりまでは世界の変容をただ受け止めるだけで、主人公への積極的な関与を行わなかった彼ら“パラノイア”は、後期になるにつれて周囲の人々や世界への積極的な働きかけの姿勢を強めているように思える。これはバラードの関心が当初の「(景観の)観賞」から、その後「(世界との)合一」へと向かっていったからでは?という気もする。(***)

 ***…聞くところによると「景観」もしくは「環境」という言葉は「自分」という概念を
     含まないが、「世界」という場合には、それを認識する自分自身を含むらしい。

 参考までに、他の作品における“パラノイア=導き手”についても思いつくまま列記しておこう。(わりと曖昧な作品もあるので印象は人によって違うかもしれないが、自分はこう感じたということで。)
 まず『結晶世界』においては主人公サンダーズ博士に対するソーレンセンの存在が大きい。『コンクリート・アイランド』では前半がメイトランドによるサバイバル描写のため少しボリュームが少ないが、それでも後半に謎の女性ジェーンが登場すると、彼女が“導き手”であったことが徐々に分かってくる。(そこから始まる安部公房『砂の女』ばりのストーリーが面白い。)つづく『クラッシュ』では“自動車事故”が人類にもたらす新しい世界の啓示を、(文字通り命を張って)示したヴォーンがそれに当たる。(これは割と納得頂けるのでは?)
 短篇に目を転ずると、まさに“パラノイア”の宝庫といえる。例えば、架空のリゾート地ヴァーミリオン・サンズを舞台に幻想的な物語が繰り広げられる連作集『ヴァーミリオン・サンズ』から順に挙げてみると ――
  ・「コーラルDの雲の彫刻師」=レオノーラ・シャネル
  ・「プリマ・ベラドンナ」=ジェイン・シラシリデス
  ・「スクリーン・ゲーム」=エメラルダ・ガーランド
  ・「歌う彫刻」=ルノーラ・ゴールン
  ・「希望の海、復讐の帆」=キューナード&ラーデマーケル
  ・「ヴィーナスはほほえむ」=ロレイン・ドレクセル
  ・「風にさよならをいおう」=レイン・チャニング
  ・「スターズのスタジオ5号」=オーロラ・デイ
  ・「ステラヴィスタの千の夢」=グロリア・トレメインなどなど...ふう。
 作品によって程度の差はあれ、これだけ「変な人」が登場するというのはある意味で壮観といえる。もっとも、なにぶん初期の作品なので、彼らがきちんと主人公を“導いて”いると言えるかについては微妙なモノもあるが。

 以上、ここまでは「主人公vs“パラノイア=導き手”」というモデルがうまく当て嵌まるものを中心に紹介してきたが、そうではないタイプの作品ももちろん存在する。例えば以前に『夢幻会社』を取り上げたときには、この作品を「バラードにおける“特異点”」と表現したことがあり、それは今回の視点においても同様。『夢幻会社』では主人公ブレイク自身が周りの人々を導く“導き手”であり、こんな設定はこの小説だけ。また「テクノロジー3部作」のラストを飾る『ハイ-ライズ』においては、ラング/ワイルダー/ロイヤルという3人の登場人物の視点が交互に描かれとともに、お互いがお互いの“導き手”となって神話的世界の高みへと昇りつめていく(という風に自分には見える)。
 切りがないのでこのあたりで止めておくが、このように“パラノイア”という補助線をひとつひいて見る事で、新たな愉しみ方が生まれてくるわけで、バラード作品の奥深さには興味が尽きない。

 かなり脱線してしまったので話をそろそろ『千年紀の民』に向けよう。本書における“パラノイア=導き手”とははたして誰か? 読んだ人には一目瞭然だと思うが、実は本書の場合、主要な登場人物は殆どが“パラノイア”なのだ。(笑)
 ざっと名前だけでも挙げていくと、ケイ・チャーチルやヴェラ・ブラックバーン、それにデクスター神父や中国人女性ジョーン・チャン、はては主人公の妻サリーまで、周りの人はみな主人公であるデーヴィッド・マーカムに啓示をもたらそうと一生懸命。まるで彼が来るのを手ぐすね引いて待っているようだ。(“パラノイア”という点だけを見れば、本書はバラード作品の中でもかなり特異な作品と言えるかも知れない。)
 なかでも小児科医のリチャード・グールドはすごい。エネルギッシュに周囲を刺激・鼓舞し続けるその様子は、『コカイン・ナイト』のボビー・クロフォードや『楽園への疾走』のドクター・バーバラにも匹敵するほどのパワーを持っており、ひときわ強烈な印象を残す。
 グールドが企んでいるのは、彼の忠実な使徒であるケイとヴェラを使い、「善良なる一般市民」である中産階級が社会への反乱や無差別テロを起こすのを手助けすること。彼ら“導き手“が切り開こうとする新しいビジョンとは、一般的な見方をすれば「とてつもない”悪“」でしかない。(まるで笠井潔のミステリー「矢吹駆シリーズ」に登場する絶対的な悪の権化ニコライ・イリイチのよう。)
 しかしクロフォード(『コカイン・ナイト』)にせよバーバラ(『楽園への疾走』)にせよ、そして全ての“パラノイア”の集大成とも思えるグールド(本書)にせよ、彼らが世界に対して行う破壊行為の理由が、絶望や閉塞感に起因する倒錯的な「革命観念」ではない事を理解しないと、バラードの主張は理解できないだろう。
 例えば現代社会が抱える病理について、心理学者であるデーヴィッドが語ったコメントは次の通りだ。

 「(想像上の広大な神の不在という巨大な)空虚に恐れをなし、時間と空間のトリック、ひげを生やした老賢者、倫理的宇宙といった思いつくかぎりの底荷(バラスト)でそれを満たそうとする」

 この心理学の教科書通りとも言えるコメントに対して、グールドは次のように反論する。
 
 「無意味な宇宙にも意味がある。それを受け入れれば、あらゆるものが新たな意味を帯びる」

 ここに示されているのは、「従来のように“搾取される労働者階級vs欺瞞に満ちた資本家たち”といった、単純な対立の構図ではないぞ」という、バラードからのヒントではないのだろうか? ―― 深読みのし過ぎかもしれないけれど、自分としてはそのように解釈したい。(だってその方が面白くなるから。/笑)
 それではグールドを始めとする“導き手”たちの行動はいったいどのように解釈すべきだろうか?

 少し横道にそれるが、ここでもうひとつの“補助線”をいれてみたい。それはアントニオ・ネグリとマイケル・ハートによって提出された<帝国>(“Empire”)という社会学/政治学上の概念。湾岸戦争がもたらした衝撃により書かれた(という)、彼らの著書『<帝国>』の中で示された概念だそう。この本は出版されるやいなや話題を呼び、人文書では珍しいベストセラーとなった。(エラそうに書いてるが高いので読んでない^^;)
 それでは<帝国>というのがどの様なものかというと、グローバリゼーション(国際化)の進展によって登場してきた、今までとは全く異なる「主権の在り方」なのだそうだ。例えば従来では冷戦時代に見られるように国家やイデオロギーが世界を牛耳る主権の区分けに直結していた。しかしグローバリゼーションが極限まで発展した現代においては、たとえ先進国であってもアジアにおける中国やインドなど、発展途上国の意見を無視して国を成り立たせることは出来ない。
 現在の世界の主権は<帝国>と名付けられた新しい主権、すなわち「帝国主義的な単一の支配原理で統合された超国家的な組織体」によって動きつつあるのだ。―― これがネグリらが発見した新しい化け物の正体であり、彼らは「もはやいかなる強力な国家であっても、単独で自らの主張を押し通すことはできない」と述べる。
 しかし新しく誕生したこの究極の暴君に対して、我々の希望が皆無という訳ではない。<帝国>に対抗できる唯一の存在として近年急速に顕在化してきたのが「マルチチュード」と名付けられた存在であるのだという。
 「マルチチュード」とは、地域や国家・国民、企業などを超えた超国家的なネットワーク体のこと。多様性を維持したまま連携するという<共>(“the commom”)の活動を特徴とする。(ここらへん取っつき難いが、重要なところなのでもう暫くご辛抱を。)
 実はバブルがはじけて失業者が増えた2000年ごろから、日本でも良く似た活動が顕在化してきているのだ。例えば「年越し派遣村」を組織したNPOや、渋谷などを中心に広がりを見せている「脱貧困」のデモなどがそう。これらは70年代にあったような大学・論壇を中心とする政治活動ではなく、「社会運動/文化活動(サブカルチャー)/思想」の3つが一体化している、今までにない草の根的な活動である。(社会学者・毛利嘉孝はそれを『ストリートの思想』と名付け、同名の著書(NHKブックス)において詳しく考察している。)
 ネグリらによると、この活動の中心になるのは17世紀ごろの農民や19世紀ごろの工場労働者に続いて20世紀後半から労働の中心となってきた「非物質的生産」に従事する労働者たちなのだそうだ。「非物質的」とは物理的なモノを生み出さないという意味であり、営業職や教育者、著述家に企業の中間管理職などあらゆる“サービス業”を含む。ひとことで言えば「中レベルから高レベルの教育を受け、知的労働に従事する賃金労働者」のこと。これってズバリ『千年紀の民』で反乱を起こした「中産階級」そのものではないだろうか。
 勝手な推測だが、良く似た印象の『コカイン・ナイト』/『スーパー・カンヌ』/『千年紀の民』が出版されたのはそれぞれ順に1996年/2000年/2003年のこと。イー・フー・トゥアンの『トポフィリア』やエドワード・レルフの『場所の現象学』に先だっていち早く“景観”と“精神”の関係に注目した”予言者”バラードの事だから、『<帝国>』に先だってグローバリゼーションが抱える問題を察知したのが『コカイン...』や『スーパー...』の2作品だったという可能性だって無いとは言えない。そして2001年8月に出版の英語版『<帝国>』をもしもバラードが読んだとしたら、それまで漠然としていた問題意識が「中産階級による反乱」という形に結晶化していったのが『千年紀の民』だったりして...。そんなことを考えたくなるほどに、この<帝国>や「マルチチュード」という概念は本書を味わう上で実にしっくりきた。

 で、話は変わってここからは、ファンタジーとしての『千年紀の民』について考えてみる。
 本書は他の後期作品群と同様にミステリ的な手法をとっている。ビジネスエリート向けの新興住宅街チェルシー・マリーナの住民が起こした騒乱を背景に、ヒースロー空港で起こった無差別爆弾テロの犯人を探す形で物語は進んでいく。マリーナの住民たちによって築かれたバリケードやひっくり返った車、あるいは放火された住宅などの描写は、まるで1871年のパリ・コンミューンや安田講堂の攻防などを連想させるが、しかしそこには学生運動が華やかりし頃のデモ隊に見られるような悲壮感は存在しない。住民の子供たちが辺りを駆け回り、ピクニックやカーニバル的な要素も多くみられるその様子は、まるで前述の「ストリートの思想」に見られる新たな社会活動を彷彿とさせる。一方でヒースロー空港やテート・モダンにおける無差別爆弾テロは、犠牲者たちに「無意味な死」をもたらすだけ。それはまるで我々が生きなければいけない現代の「無意味な生」の陰画のような気さえする。
 グールドが言った「無意味な宇宙にも意味がある。それを受け入れれば、あらゆるものが新たな意味を帯びる」という言葉は、主人公マーカムが探し求める“ある事”に対する答えを暗示しているのだが、それはピクニックやカーニバルの陽気さとは対極に位置し、両者の間には絶対に越えられない深くて大きな深淵が口をあけている。翻ってチェルシー・マリーナにおける反乱を見た場合、それは抑圧に対するカウンターの意味合いが強く、無差別テロに代表されるような、暴力と殺戮による他者の否定とは全く相いれないものだといえる。
 この全く正反対の両極を“中産階級”というキーワードで括って違和感を思わせない魔法の技。ここにバラードが巧妙に本書に仕掛けた“ファンタジー”が存在している気がする。バラード作品にはSF的なガジェットやアイデアはほとんど登場しないのに、なぜか作品にファンタジー性を感じる点があるとすれば、それは主人公の前に現れるグールドたち、すなわち神話性を帯びた“導き手”の存在があるゆえではないだろうか。そして「聖と穢」「生と死」といった両極端の価値が違和感なく溶け合う“奇跡”を作り出せる場があるとすれば、それは「神話の世界」に他ならない。本書『千年紀の民』がそんな「奇跡の場」としての“バラードランド”の到達点であるというのは、まさにその点にあると言えるのかも。

<追記>
 蛇足だが最後にもうひとつだけ補足を。
 バラード作品の主人公たちは皆一様に、“パラノイア”たちに導かれ神話的世界を遍歴する中で、死の淵をのぞき込むような危険を体験する。彼らのうちある者はそのまま“あちらの世界(笑)“へと旅立ってしまうし(=『沈んだ世界』『スーパー・カンヌ』など)、ある者はかけがえのないビジョンを得て無事に元の世界へと帰還してくる(=『結晶世界』『クラッシュ』『楽園への疾走』など)。
 このように“導き手”による地獄めぐりの体験を、(教養小説に倣って)主人公が経験しなければならないイニシエーション(通過儀礼)であると見做せば、前者はいわば“魔”に取り込まれてしまった犠牲者であり、後者は帰還してひとつ上の社会の一員になった者たちといえる。『千年紀の民』がどちらを描いた作品か、それはまだ読んでいない人のためにここでは明かさないでおくが、ラストまで気を抜けない極めて完成度が高い傑作であるとだけは断言しておこう。バラードのファンなら自信を持ってお薦めできる一冊。

<追記2>
 今回は書きたい事が沢山あり過ぎて困ってしまった。書き足りない事はまだまだ山ほどある。たとえば同じ“パラノイア”を題材にしているのに何故ディックとバラードではこれほどの違いがあるのか?とか、両者における“視点”の問題とか。更には、そもそもバラード作品における“神”の存在とは何なのか?とか。しかし今の自分の力量を考えるととてもじゃないが手に余る話題だし、仮にやったとしてもとても「お気らく」では済みそうもない。というわけで、とりあえず今回はこれくらいで。(笑)
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ブログ主さま、みごとな『千年紀の民』論をありがとうございます。バラードの到達点ともいうべき多層的な作品に正面から取り組んで、バラードの意図したものをじつに深いレベルで摘出されていることに感銘を受けました。とりわけ、ネグりとハートの「帝国の」概念を援用して分析なさったのはとても鋭いと思います。おっしゃるとおり、バラードは「帝国」を読んでいた可能性が高いと思われます。
主人公を導くパラノイアという観点も正鵠を射ているといっていいでしょうね。そういう意味では、『夢幻会社』という特異点をのぞけば、バラードの作品はつねにおなじものを描いていたということもできそうです。
主人公を導く存在につきましては、ぼくも昨年のSF大会のブログに拙論を掲載しておりますので、よろしければご覧ください。

 http://blog.tokon10.net/?page=4

このつぎは『夢幻会社』と『奇跡の大河』についてお書きになってくださるのですね。とても楽しみにしております。

RE:『千年期の民』

まもるさま、コメントを有難うございます。翻訳をなされたご本人から過分なお褒めのお言葉を頂きまして恐縮です(汗)。しかも好き勝手に書き連ねた仮説や推測へのご賛同まで。まるで立派な勲章でも戴けたような気分でとても嬉しいです(笑)。
ご紹介いただいた「終着の浜辺」論を早速拝見いたしました。なるほど、主人公を導く存在に「死」の影があるというのは気がつきませんでした。確かにおっしゃられるとおりですね。チェルシー・マリーナの人々とグールドの間に横たわる深淵の正体は「死」だったということでしょうか。また導くものたちが求めるのは「時間と空間からの解放」というのも納得です。
ところで『奇跡の大河』の件、ツイッターのつぶやきをご覧になられたようで。実はまだあまり考えておらず、漠とした思いつきなので、果たして巧くまとまるかどうか...(^^;)。ちょっと時間がかかるかもしれませんが、宜しくお願いします。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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