『ホモ・ルーデンス』 ホイジンガ 中公文庫

 ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』の時も感じたが、これら西洋で定義されている所謂“play”と、日本(東洋?)の“遊び”という言葉に含まれる概念とは、にて非なるものだと思う。したがって彼らがいくら精緻に考察を加えようが、いやむしろ分析をすればするほどそこから漏れ出てしまうものに違和感を感じてしまう。ヨーロッパにおいては必要十分かもしれないが...。
たとえば、“play”にあたる言葉で包含される概念は、『遊びと人間』においては次の4要素。
「競争(アゴン)」  …運動競技全般、チェスなど
「偶然(アレア)」  …籤やじゃんけんなど
「模擬(ミミクリ)」  …人形遊び、演劇、物まねなど
「眩暈(イリンクス)」 …メリーゴーランド、ブランコ、スキーなど
 そして『ホモ・ルーデンス』においては、「(実生活の制約やルールから)自由であること]「本物ではないこと」「(行われる時間や空間が)区切られていること」として定義され、それ以降の分析がなされている。ここには日本語の“遊び”からまず真っ先にイメージされる「泥遊び」や「鬼ごっこ」「かくれんぼ」といった一連の子供の遊び、「歌合せ」「句会」といった中世から伝わる文化的遊び、沖縄の「もうあしび(毯遊び)」や合コンなど男女のコミュニケーションに関する遊びは一切考察から抜け落ちている。また、日本語の“遊び”に含まれにくい活動として一連のスポーツが含まれている。ラテン語系の言語における、動詞としての“play”に含まれる「スポーツ競技をする」「楽器を演奏する」「(いわゆる)遊ぶ」という概念と日本語の動詞“遊ぶ”が意味する範疇が違っていることがその原因だろう。
 機械や歯車における“遊び”というように、日本語においてはこの言葉のもつイメージは、日常生活や本来の機能を果たす上で最低限必要な活動・性能に対する“余裕”とか、“ケ(穢、汚)”に対する“ハレ(晴)”とか、プラスアルファや付加価値の意味合いが強い。この部分が抜けてしまうと、読んでいる間中、ちょっと違うな?という感じを持ち続けることになってしまう。
 筆者は第2章において、ヨーロッパ諸言語や中国語、日本語、ネイティブアメリカンまで含んだ各言語における、「遊び」を意味する単語の比較分析をせっかく試みているのに、「遊び(play)」という単語が最も広い意味を持って使われているヨーロッパ諸言語が、世界の言語のなかでも最も進んでいるという結論を下している。
 当時の西洋の”最高知性”においてさえ限界がみえてしまうということの難しさと、その後の人類学の進展の中で獲得された、違う文化圏の考え方や価値観による相対的な物の見方を身につけることがいか重要な成果であったかということが、とてもよくわかる。
しかし、結局“遊び”とは何なんだろうか?
 レヴィ=ストロースなら果たして遊びを何と定義するのだろうか?もっとも、とっくにどこかで書いていて、単に自分が知らないだけか。(笑)
<追記>
 結局のところ、フレイザーの『金枝篇』のように、この当時(20世紀初頭)にはまだ人類学的な思想・研究は未発達で、いわゆる“安楽椅子”的な研究が主流だったということか。それとも進化論を生物学だけでなく社会学にまで応用しようとした当時の風潮の弊害なのか?初めに頭の中に結論があり、それを補強する形で証拠をあげていくというのは、今の知識でみるとどうしても牽強付会の感が否めない。石田英一郎の『桃太郎の母』においてもそんな印象はあるしたわけだし、まあ致し方ないのだろう。
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