『江戸の音』 田中優子 河出文庫

 平賀源内と上田秋成という2人の人物をキーワードにして、江戸時代の文化を論じた快著『江戸の想像力』(ちくま学芸文庫)の著者が引き続いて、前作では取り上げなかった江戸時代の「音楽」についてまとめた本。
 きっかけは『江戸の…』を読んで感激した作曲家・武満徹が、ただひとつ不満な点として「音のありようについて書かれていないのがやや食い足りない」と述べたこと。すなわち本書は武満のリクエストに応えて書かれたようなもののようだ。(それが機縁で田中優子と武満徹の対談も本書に収録されている。)
 構成は「江戸の音」を巡る3つの小論に対談を加えた4つの章からなっていて、比較的に短めの本なのでさらっと気軽に読むことが出来る。
 田中優子は本書をあくまでも「前作『江戸の想像力』の補填として」読んで欲しいといっている。その理由は自分の専門があくまでも近世文学を中心とした“書きもの”であって、音楽については門外漢なのできちんと語るには準備も実力も不足しているからとのこと。しかしなかなかどうして謙遜はしているものの、実際に読んでみると、なるほどなあと思わず唸りたくなる点は多い。本書における著者の意見を自分なりに簡単にまとめてみる。曰く―

 ヨーロッパで雅楽の演奏会があったが、演奏が始まっても田中以外は現地の人たちの誰も気づかなかった。あまりに周囲の環境に溶け込んだ音だった為、西洋の感覚からすると雅楽は「音楽」と認識されなかったようだ。
 ここから推測するに、日本の「音楽」の概念は西洋のそれとは根本的に違うのではないだろうか。日本人は脳で虫の音を音楽として認識するというのは有名な話だが、よく探せば同様の話は他にも沢山ある。
 例えば尺八。尺八が発明された中国では未だにメロディを奏でるための“普通の楽器”でしかないが、それが日本に伝わってからは何故か「枯れたような風の音」を出すことに重きをおくようになった。
 もしくは三味線について。中国の胡弓は勿論のこと琉球の「三線(さんしん)」にもなくて、江戸の三味線になって初めて出来たものに、「サワリ」と呼ばれる棹の構造(及びそこから作り出される音の効果)がある。これは“一の糸”の上駒を無くして三味線の絃が棹にわざと触れるようにしたもの。その状態で楽器を演奏すると独特の「ビビリ音」が発生する。
 また伝統的な江戸の謡曲においては、西洋音楽のような「音階(=相対的な音の高低)」だけでなく、「音色(=絶対的な音の高低)」の方を重視するとのこと。西洋では前後の音の相対的な高低に意味があり、仮にアルトのために書かれた曲をソプラノの歌手が1オクターブ高く歌っても「それなり」に聞くことができる。しかし江戸の謡曲ではもともと男性の低い声で歌う曲を、音色の違う女声で歌うと意味をなさなくなるらしい。

 うーん面白い。元来、日本では「音楽」と「(自然の)音」の垣根が低かったということか? 江戸の音楽が「額縁」に入れて飾っておくような特別なものではなくて、日々の暮らしの中で自然に存在している「音」や「声」と地続きだいうのは、「環境音楽」の発想にも繋がっていくのかも。
 著者はこれらの特徴を「音楽」の領域だけで考えるのでなく、(前作に引き続いて)江戸に独特な思想の表れとして捉えている。話題は楽器を演奏したり歌を歌うことから、やがて「音と声」「歌と和歌」や「物語/文学」との関係へと広がっていく。(たしかに昔は和歌や物語というのは、声に出して鑑賞するものだったわけで、ここらの論旨は納得できる。)
 話がここまでくれば後は著者の独壇場といって良い。音楽から謡/和歌/俳諧へとなだらかに繋がっていく「連」の思想こそが、日本文化を陰で支える大きな流れとして存在するのではないか ――田中はそう主張する。(*)
 俳諧の「連」で行われていたのは、前の句を受けて後の句を作る際の「付ける」という作法。これをひとことで上手く説明するのは難しいが、要するに前句の意味や言葉に「依りそう」ような感じで新たな意味や見立てを行うということ。「付け過ぎ」は野暮だし「付けない」のも駄目。しかも前々句まで後戻りしてはいけないという厳しくもややこしい約束事があるのだが、それが故にこの作法を重視した俳諧においては、松尾芭蕉の『猿蓑』などを見ると分かるように「繋がりつつ変わっていく」というオープンシステムが実現することになる。言ってみれば「予定調和を嫌う」ということかもしれない。
 また「連」においてこのオープンシステムのダイナミズムを確保するためのテクニックとして重用されたのが、「きしみ」とか「ずらし」といった手法なのだそうだ。まるで先程の三味線における「サワリ」にそっくりな方法がここにも存在している。

   *…このあたりの詳しい話は『江戸の想像力』の感想の時に書いたので、そちらを見て
     頂きたい。

 先にも述べたが、著者は自分の専門が近世文学なので音楽までは充分に手が回らず、まだ直感的で検証もされていない仮説だといっている訳だが、この内容を見る限りではそんな事は無いと思う。かなりの部分が正しいんじゃなかろうか。このあたりの考えは、おそらく松岡正剛が上手く「日本という方法」という言葉で上手くまとめてくれたものに他ならないと思う。
 大切なのは“主語としての日本”すなわち「日本とは何か?」という問いかけではなく、“述語としての日本”すなわち「日本ではどのような方法が取られてきたのか?」と問いかけていくこと。その過程でこれらの「仮説」の検証も自然と出来ていくような気がしてならない。

<追記>
 田中優子の一連の著作も、『空間の日本文化』(オギュスタン・ベルク)や『てりむくり』(立岩二郎)などと同じようにセイゴウのネタ本のひとつになっている。ここらの本を読んでいると松岡正剛の考えが非常によく分かるので、「一粒で二度おいしい」といえる。(笑)
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