『シャーロック・ホームズの記号論』T・Aシービオク&J・U-シービオク 同時代ライブラリー

 著者のひとりT・A・シービオクは高名な記号論の学者。本書はシービオク夫妻がプラグマティズムの哲学者として知られるC・S・パースとコナン・ドイルが創造した名探偵シャーロック・ホームズに対して、記号論的な比較分析を行った名著。なお特別付録として、著者が書いた別の論考「ネモ船長の船窓(*)」とともに、巻末には山口昌男とシービオクの対談「記号学の広がり」も収録されていてお買い得。岩波書店の同時代ライブラリーの一冊だが、同シリーズとともに消えて今では入手困難なのが残念。(岩波現代文庫で出ないのなら、講談社でも筑摩でもいいから是非とも拾って欲しいものだ。)

   *…ジューヌ・ベルヌ『海底二万里』に出てくるノーチラス号の船窓の話題をきっかけ
     にして、やがてコナン・ドイルへと話を進めホームズ物における「窓」の記号論的
     分析を行った論考。

 本書は執筆の動機がとても分かりやすい。ひとつは「記号学」という学問が(バルトを例にとる迄もなく)社会のあらゆる事象について分析を加えられる“武器”に成り得るという観点から、身近なホームズ物を題材にして実例を述べるということ。論より証拠というわけ。そしてもうひとつは、一般的には哲学者として広く知られているパースが、実は記号学でも極めて重要な貢献をした人物であることを明らかにし、パース再評価への道筋を付けること。以上の2点が大きな目的。
 ちなみに記号学者としてのシービオクの考え方については、巻末の山口昌男との対談で詳しく語られている。当時は「記号学は言語学の一分野に過ぎない」という認識も根強くあったようだが、シービオクはそれに反対している。逆に「記号学は言語学をその一部に含んでしまう広大な学問領域である」というのが彼の主張。ここらのやりとりを読んでいると、80年代の記号論ブームが懐かしく思い出されてくる。なんだか良く分からないなりに、「格好いい!」と思って色々齧ったんだよなあ。(笑)

 余談はこれくらいにして本題に入ろう。
 著者の切り口はふたつあって、まず第一はパース本人がまさに「探偵」としての才能を示すエピソードの紹介。殆ど知られていない彼のエッセイ「当て推量について」には、汽船の船員による盗難事件をパースが見事に解決して犯人を捕まえた経緯が詳しく述べられているらしい。その事件の際に彼が用いた思考法こそが、後にパース自身によって「推測(abduction/アブダクション)」と名付けられ、「演繹(deduction)」でも「帰納(induction)」でもない“第3の思考方法”として定義づけられたものだった。(**) ここらの顛末を読んでいるとまさにホームズばりの活躍なので、パースに対して勝手に感じていた「しかめ面しい哲学者」というイメージが大きく変わった。
 
  **…パースの定義によれば「推測」とは驚くような洞察に繋がる仮説の閃きの行為の
     こと。人間が動物の中で最も優れている能力である“当て推量”といってもいい。
     ちなみに「演繹」とは洞察も何もなくその仮説から必然的に導かれる答えを後付け
     する行為であり、「帰納」とは仮説を実験的に確かめるだけの行為(でしかない)
     というのも彼の主張。
     この「推測」という概念は、『デカルトの誤り』(ちくま学芸文庫)でダマシオが
     述べた「ソマティックマーカー仮説」とか、ジェームズ・ギブソンによって提唱
     された「アフォーダンス理論」にもつながるようなものだと思う。
 
 第二の切り口は全てのホームズ作品を踏まえた上で、ホームズの推理法が(作中で本人が述べているような)「演繹法」ではなく、まさに「推測(アブダクション)」であることを示し、ホームズを記号学者として位置付けようとするもの。
 ドイルが新しく小説を書くにあたって主人公である探偵のモデルにしたのは、医学の分野で彼の恩師にあたるジョーゼフ・ベル博士だったというのは、ドイル研究者の間では有名な話らしい。(自分は寡聞にして知らなかった。)
 そのベル博士のエピソードや人物像が本書の第3章に詳しく語られているのだが、それを読むとまさにパースとベル博士の人物像や考え方がピタリと重なっていくので驚いた。ベル博士は「初めて病院を訪れた患者から医者が信頼を得るかどうかが、後々の治療効果に大きな影響を与える」という信念を持っていて、患者の信頼を得るために、容姿のちょっとしたヒントから患者の職業や経歴をずばり当てていく。その様子はあたかもホームズ作品(のもちろん”聖典”)を読んでいるかのようであり、またそこでベル博士が用いていた思考方法はまさに「推測(アブダクション)」に他ならない。
 ここまで読み進んでくると、ホームズが記号学者であると結論づけた著者の主張もすんなり納得がいく。実を言えば最初はなんとまあ突拍子もない事を言うもんだと思っていたのだが...。まさに論理のアクロバットとはこのような事を言うのだろうか。たまたま見つけた本でこんな経験ができた時は、趣味が読書で本当に良かったなあと思える。

<追記>
 本書があんまり面白かったので、次には是非ホームズ物か記号論のどちらかを読みたいと思い、迷った挙句に選んだのが以下の2冊だった。
 ・『シュロック・ホームズの冒険』
  (ホームズへの愛情あふれるとても良くできたパロディ集)
 ・『ロラン・バルト映画論集』
  (まだ『エクリチュールの零度』を読むほどの気力は無いし『神話作用』に手を出す程の
   お金もないので、まずは軽めのところで。)

 ―― 結局はどちらかじゃなくホームズと記号論の両方を並行読みとは、我ながら単純だ
    ねえ。(笑)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR