『人間的自由の条件』 竹田青嗣 講談社学術文庫

 注)今回は長い文章になってしまって申し訳ない。もしかしたら今まででいちばん長いかも。
   (苦笑)

 大好きな竹田青嗣の著作が新しく文庫で出たのでさっそく買ったら、目次に「『トランスクリティーク』のアポリア」と書いてあった。そこで本書をより愉しむために先にそちらから読んだ顛末については『トランスクリティーク』の感想の時に書いた。無事に読み終わって準備も整ったところでようやくと本書に取り掛かったが、『トランス…』については最初の100ページ程度しか触れられていなかったのでちょっと拍子抜け。(笑)
 しかし本書自体については大いに満足できた。全部で500ページを超える大部の本であるにも拘わらず、いつものように素人にも分かりやすい説明と期待以上の面白さで一気に読み切ってしまった。
 ところで、気になる「竹田青嗣vs柄谷行人」の巨人対決(笑)についてだが、結果としては竹田青嗣の“貫禄勝ち”といったところだろうか。ただし変な誤解を招くといけないので補足が必要だろう。著者が『トランス…』を引き合いに出したのは批判を行うのが目的ではなく、あくまでも本書の執筆のきっかけというか、テーマが共通するので導入部として利用しただけのように感じた。

 著者には以前から、思索活動において一貫して取り組んできたことがある。それは現代社会における矛盾(≒生きにくさ)の解決にあたって、哲学が如何に貢献できるのか?ということ。「哲学」と聞くとすぐに「生とは何か」「存在とは何か」みたいな形而上的なことを考える学問と思われがちだが、(少なくとも竹田においては)そんな事は無い。今、我々が生きる場面において役に立つものでありたいというのが、彼の過去からの基本姿勢。過去の多くの哲学書を(わざわざ原語で読解して)虚心に学び直してきた(*)のも、その為の「武器」を手にする為であったとおぼしい。さすがは自分が密かに「闘う哲学者」と名付けただけはある。(ちなみに「何と闘うのか?」と聞かれれば、それは勿論「社会における矛盾」とに決まっている。/笑)

   *…彼の思索活動の原点にあるのはフッサールが創始した「現象学」なので、あらゆる
     虚飾を戦略的に捨て去って物事の本質をつかみ取ろうとするスタンスは、そこから
     来ているのだろうか。

 詳しい内容に入る前に、ここで本書における著者のスタンスをざっくりとおさらいしておこう。
 ■現代は資本主義&市民統治が基本となっていて、社会的な諸問題(貧困や格差、紛争など)
  の根本的な原因もそこに起因する。
 ■爾来、多くの思想家達が問題解決を図ろうとしてきたが、原因の根本にまで遡って考察した
  のはマルクスが創始した共産主義/社会主義思想しかない。(しかしその思想も、現実の
  国家による壮大な実験が無残な失敗を遂げた今、それに代わる妙案は存在しないといって
  良い。)
 ■ポストモダンの思想家たちが様々な分析と提案を行っているが、彼らは自らを特権的な
  批評家の立場において論じるだけであって新しいビジョンを何ら指し示してはいない。
 ■近代社会の問題の原因を探るには、それが成立した頃まで立ち返って考察を行うべきで
  ある。そうでなければ本質は見えてこない。(このあたり、「現象学」を武器とする竹田
  らしい考え方だと思う。)
 ■近代社会を成り立たせる考え方について最もすぐれた考察を行ったのはヘーゲルである。
 ■ヘーゲルの生きた19世紀初頭は、(神による王の主権承認を基本とする)封建社会が崩壊
  して近代市民社会に移行するとともに、まだ根強く伝統的な“神聖化された世界像”が
  残っていた時代である。したがって彼の思想にも色々と偏見や課題はあるが、それは致し
  方ないことである。
 ■今の視点でヘーゲルを全て切って捨てるのでなく、彼の思想の本質を捉えて優れた点を
  利用しない手はない。

 とまあ、大体こんなところ。
 先程の柄谷行人との話に戻ると、『トランスクリティーク』において柄谷が解決しようとする資本主義社会の矛盾は、まさに竹田が取り組んでいる内容に等しい。したがって柄谷の著作の意義について竹田は高く評価している。『トランス…』において柄谷が依拠しているのはカントとマルクスの思想(およびそれを成立させている思考方法)であるが、その着眼点もとても優れていると評価をしている。竹田が『トランス...』で問題視しているのは、柄谷はカントの認識論解釈について、当時のカントがおかれていた時代の視点ではなく現在の視点で見ているという点。たとえ表面には出てこなくても、あらゆる思索活動にはその思想家が生きた時代の社会背景や考え方が、色濃く反映されているとみて間違いない。そこを考慮せず現代の我々の視点で(都合の良いように)解釈するのは危険と著者は見る。それで画期的な見方が出てくるならそれでも良いが、竹田の見る限り誤った解釈によって柄谷が導いた結論は社会の問題解決のポイントを外してしまっているとのこと。
 具体的には次のような感じ。カントは「主体と客体があるかないか?」という問いには答えがだせないが、なぜそんな問いが生まれてくるのかについては説明が出来ると言ったそうだ。なので、柄谷のように「主体と客体をいったりきたり」という方法の発明者としてカントを読むのは、(自由な解釈/誤読は後世の者の権利とはいえ、)カントの時代背景を考慮すると牽強付会が過ぎるのだと。

 これはもしかしたら、柄谷が「評論家」で竹田が「哲学者」であるという立場の違いに起因するものだろうか?自分なりの分析を駆使して社会矛盾に何らかの答えを出そうとするのが、評論家である柄谷の使命であるとすれば、そこは哲学者である竹田にはなかなか踏み込んで行きにくいところ。その代わりに彼が貢献できるのは、問題の本質に立ち返って精緻な分析を行うことで叩くべきポイントを明確化し、公正な社会ルールを構築するための原理原則を指し示す、ということだろう。現に本書の最後で竹田は以下のように述べている。
 ―― しかしこの基礎理論を、実際にどのような具体的な社会的展望と目標へ転嫁できるかに
    ついては、われわれは、これらの概念をより厳密な形で検証する「近代社会」理念の
    “社会学的転移”を必要としているように思える。

 それではいよいよ本論である第2章からの分析について紹介していこう。(これだけの量の中身に細かく触れていくとキリがないので、なるべく簡潔にエッセンスだけを抽出するようにしたい。)

 著者の主張はシンプル且つ本質的である。ひとことで言えば「近代社会を成り立たせる公正かつ根本的な原理は、ヘーゲルが『精神現象学』で明らかにした『自由の相互承認』という概念である」ということだ。ホッブスが『リヴァイアサン』で述べたように、“弱肉強食の世界”を克服するには各自が自分の欲望を際限なく求めることをやめることが必要。しかしそれが絶対君主のような特権階級に集約されてしまうのでは意味がない。そこで近代社会が発見した新しい原理とは、他者同士が相互に尊重しあうことで初めて人間の「自由」は実現するというものだった。この概念はホッブスに始まりロック、ヒュームと続いてルソーの「社会契約説」へと至り、カントによる「自由」の根拠づけを受けて、最後はヘーゲルによって原理的な完成をみたものである。
 著者によると、この「自由の相互承認」という原理は当時の封建社会(絶対主権国家)において王の政治の“正統性”を根拠づけていた「神からの承認」に代わるものとして、市民による統治における“正統性”の根拠には(辛うじて)成り得た。しかしそこから先、共同体の間で起こる互いの主義主張の対立(**)を防いだり、個人が自らの自由な欲望のままにせめぎ合う、市民社会独特の利害対立を克服する原理としてはまだ不充分だったとのこと。

  **…例えばフランス革命後の恐怖政治をみよ。

 その後著者は、本書のキーワードとなる「自由の相互承認」が何かを正しく理解するため、一旦ヘーゲルの『精神現象学』における「人間の本質」について詳しい説明をおこなう。『精神現象学』における思索の流れをきちんと理解するには、同じ著者による『完全読解 ヘーゲル「精神現象学」』(講談社選書メチエ)を参考にするのが一番良いが、誤解をおそれず簡単にまとめれば「人間の本質」とは次のようなことになる。
 ―― 人間には何らかの確固たる“主体”があるわけでなく、根本は基本的に「無」。常に周囲との関係性において自分を発現していくものといえる。それぞれは自分に欠けているモノがあることを自覚しているが故、自分の外に向かって“自分に無いもの”を求める「欲望」が生まれる。この「欲望」を実現しようとする権利こそが、人間の「自由」に他ならない。
 世界にこのような「自由」な個人が多く現れてくると、次には自分ではない者(つまり「他者」)と自分が、ひとつのモノに対して同時に欲望を向ける状態が発生することになる。その時“自分”の側の優位を「他者」に承認させることで、個人は初めて自らの欲望の「強度」を自覚することができるのだという。すなわち人間的欲望の本質は、社会関係の中で各人が「他者の承認」を求めあうことで形成され、自然的「実体」があるわけじゃない。したがって欲望の対象における互いの優位/順列を決めようとする行為により、弱肉強食の世界は必然的に発生してしまうのだ。(このあたりは竹田の受け売り且つ自分なりに要約したものなので、間違いないかどうか保証できないので悪しからず。正確にいうと竹田もこの考えを自分の見解として述べている訳ではなく、ヘーゲル研究で名高いコジェーヴやラカンによる理解として紹介している。しかし概ねヘーゲル本人の考えを要約したものと見て差支えないだろう。)
 ヘーゲルはこのような「人間本質」の理解に基づいて彼独特の哲学を生み出した。それは“弱肉強食”を克服するにはお互いの「自由」を相互承認することが必要で、それによる自己実現の追求や社会的な「普遍的なもの(≒価値)」を互いに支え合いながら追求していくのが「社会実現の過程(=歴史)」であるというもの。ヘーゲルによれば「近代国家」とは社会実現の完成形に他ならなかったのだと、竹田は説明する。
 すごく乱暴な喩えをするなら、「自由の相互承認」による「社会実現」とは、イワシの大群やムクドリの群れのように不定形のグニャグニャした塊と思えばあながち間違いではないのかもしれない。確固たるものがあるのではなく、それぞれの支え合いで大きな価値が生まれてくるのだというイメージ。

 しかしヘーゲルが「社会実現の完成形」であると結論付けた「近代国家」という存在は、産業革命における社会格差や全体主義の台頭など、その後の歴史を通じて様々な矛盾や不幸を露呈してしまった。そしてその原因を追求し、近代社会の構想(仕組み)自体に根本的矛盾があるに違いないと考えたのが、マルクス主義やポストモダン思想なのだそうだ。
 繰り返すが、ヘーゲルは「自由」を根本に置いて、相互承認により個人の自由が実現していく過程を「歴史」と呼んだ。そしてその為の唯一の仕組みは(彼が生きていた当時に萌芽がみられた)資本主義社会・市民社会という名の「近代国家」であった。しかしマルクスはヘーゲル思想の根源に遡って考察を加え、社会矛盾が無くならないのはヘーゲル思想の大前提に根本的な事実誤認があったからだと判断した。ヘーゲルのように近代国家を個人の自由を承認するための仕組みの完成形」と位置付けるのでなく、「“所有”と“配分”にかかわる人間の支配関係の完成形」であるとみなした。その思想からはやがて共産主義革命の主張が、すなわち現国家(ブルジョアジー国家)による人間支配から我々を解放するため、抑圧された側の人間(プロレタリアート)による国家の奪取とその後の「国家そのもの」の解体に向かうべきという、所謂「マルクス主義」が生まれる事になったのは誰もが知っている通り。またマルクスの示したその道筋が的外れだったのも、その後の経緯を見れば明らかといえる。
 ただ、近代社会の矛盾が一気に解決できる原理がもしも在り得るとすれば、ヘーゲルの主張した根本原理(=行為を通じて為される自由の相互承認)を超えるものでしかない ――そう考えたマルクスの指摘自体は極めて正しかったといえる。そして残念なことに、矛盾を解消できる新たな原理は今だ発見されていない…。

 ついで竹田は、マルクス以外の思想がなぜ近代社会の諸問題を解決するに不充分であるかについて、ヘーゲルの『法の哲学』を引き合いに出しつつ検討を加えていく。
 結論から言おう。著者の考えによれば、ヘーゲルが提唱した根本原理である「自由の相互承認」を超える優れた原理は、現在でもまだ見つかっていない。そして様々な論客が数多くの概念を提唱しているにも関わらずいつつまでも問題解決がなされないのは、全てが問題の本質を取り違えた的外れな議論をしているからなのだそうだ。
竹田はヘーゲル思想を近代から現代に至る思想の根本と位置づけており、本書には近代化から現代に至る多くの思想家たちが登場する。いわくヴィトゲンシュタイン、ハーバーマス、メルロ=ポンティ、ニーチェ等々。そしてマルクス主義と同様に、資本主義および近代国家批判の急先鋒であったポストモダン思想が、なぜ社会の問題を解決し得なかったかについても、容赦ない検証を加えていく。
 その結果見えてきたのは、ポストモダン思想が新たな根本原理に成り得なかったのは、彼らのスタンスが基本的に(はるかプラトン哲学にまで遡る起源を持つ)「イロニー」という概念の一形態に過ぎないということだった。ポストモダン思想家たちは、主観的には「普遍原理」の本質を“知っている”が、その実現のための行為には加わろうとはせず、自分がそれを認識している“自由な”「主体」であることで満足してしまっているのだという。(***)
 しかし彼らが“知っている”と考えている「普遍原理」は、実はヘーゲルの根本原理まで立ち戻ったものではないため、正統性を互いに主張し合うだけで誰もが納得できる主張ではないのだ。「ヘーゲルのいう“自由”は古くて間違った考えであり、それを求めることを善しとすることから疑ってかからなければならない」という彼らの主張こそが事実誤認であって、それを突き詰めても(フランス革命後のように)互いの意見の対立を招くに過ぎず、いつまで経っても次のビジョンは見えてこない、そう竹田は結論付ける。
 分かりにくいところなので少し言葉を変えて説明してみる。
 何が「正しい」のかは、人や立場によって異なるのでひとつに決める事は出来ない。むしろただひとつの「正しさ」なんて存在しないというのが本当。みんながある意味「正しい」のだ。したがって「ヘーゲルではなく自分の方が正しい」というのは、自分にとっては充分に根拠ある意見かも知れないが、他の人にとっても根拠があるとは言えない。―― 簡単にするつもりが余計ややこしくなってしまったかな。(笑)

 ***…思うに竹田が柄谷を(認識が間違っていると考えているのに)評価しているのは、
     これらポストモダン思想家たちから一歩すすんで「アソシエーション」という対抗
     策を自ら実践しようと試みたところにあるのではないか。(なおそれが失敗に終わ
     った理由については、自分は詳しく知らないのでここでのコメントは差し控える。)

 それでは我々が行うべきは如何なることだろうか。竹田は続ける。
 「普遍的なほんとう(=絶対本質)」などというものは存在しない。そうだとすれば、そんなものを求める思索をいくら積み重ねても、互いに自分こそが「真」であり「善」であるという水かけ論になるだけ。「自由な相互承認」を超える本質原理が見つかっておらず、しかも現状では原理として不充分というのであれば、残された可能性はそれを極限まで推し進め、人間同士が他者を完全に「等しいもの」として認め合うことしかない。それを彼は「普遍的なものを巡る承認ゲーム」と呼んでいる。
 そのゲームに参加する資格は簡単で、大まかに言えば『①参加資格および、ルールの決定/変更の権限が全てのプレーヤーに対等に与えられる事に同意すること』、それに『②ゲームの目的が全ての参加者の納得感を得ること(=「一般福祉」)であって、特権者や固定的な勝利者を生むものでないことに同意すること』くらいしかない。なおこれは「妥当要求」(byハーバーマス)という言い方に置き換えてもいいかも知れない。「合理的な動機」に基づいた人間的関係を築き上げるのに最も重要な概念だそうで、簡単に言えば「権力的要求」や「サンクション(懲罰)的要求」に対立するもの。すなわち他者を否定して自らの主張を押し付けないということに他ならない。(分かりやすい言葉に置き換えるとすれば、すなわち「パワハラ」の否定ということか?)
 翻って「権力的要求」を突き詰めた先に最終的に現れるのは、「暴力装置としての軍隊」ということになるのだろうか。

 以上、長々と書いてきたが、現代の資本主義社会が持つ矛盾や問題を解決する特効薬というもの存在せず、お互いが他者を認め合う「自由の相互承認」にもとづいて「公正な合意のゲーム」を続けていくことが唯一の答えというのが、本書における最終結論である。極めて常識的で真っ当な意見といえる。懇切丁寧かつ非常に分かりやすく手順を踏んで説明されているので、自分が読む限りでは充分に納得できる結論になっていると思う。
 これ以上の根本原理が在り得ないとすれば、次に行うべきは本書が明らかにした原理に従って現実の社会改革のための処方箋を考えることだろう。本書のラストから、先述した竹田の言葉の続きを以下に引用する。

 ―― この先の理論的実践では、哲学の領域を離れて社会学的領域に踏み込む必要がます
    ます大きくなるだろう。そこでは社会=国家の本質、あるいは人間のナマの本質に
    ついての原理論ではなく、一定の目標に相関した社会の具体的構造と条件についての
    仮説が必要だからである。

 著者がこれから進んでいくのは果たして社会学的領域なのか、それとも柄谷行人のような実践を志す者たちに根本原理という強力な武器を提供すべくさらに知恵を絞るのか...。今後も竹田青嗣の活動から当分目が離せそうにない。

<追記>
 ヘーゲルが問題設定した次元まで遡らないと新しい原理は見えてこないということなので、恐れ多くも不遜にも無い知恵を絞って考えてみた。頭の体操もしくは冗談話として聞いて頂きたい。
 ヘーゲルが思索の出発点にしていて、且つ竹田青嗣も無条件で受け入れている前提条件に、「人間は生来“自由”をもとめる存在である」というのがある。ここを攻めることができれば根本原理を覆すことが出来ないか?と思って考えたのが以下の内容。(素人ごときの分際で恐れ多くもヘーゲルやマルクスに意義を唱えられるとすればであるが。)
 この前提条件は「個人」や「自己」というものを基本においている点で、西洋の一神教的な考え方であるとも言えるだろう。一方で東洋思想においては、老荘思想に代表されるように宇宙との一体化を理想として「個人」を重視しない考えが根強くある。もしも東洋思想の方が“本当”なのだとしたら、「個人」をベースにおいた考えから導き出される国家は生来歪んだものであり、原理的に矛盾が生じてしまうものとは言えないだろうか? これ以上突き詰めて理論構築する程の頭もないし、「全体主義とどこが違う!」と言われても上手く説明出来そうにないので馬脚を現す前にここらで止めておくが、ちょっと気になることではあった。ミツバチやアリの立場からすると、人間の悩み自体がナンセンスと言われるのではないのかなあと。
 これ以上考えようとすれば、人間にとって「自由」や「自己」とは何か?という議論に踏み込んでいかざるを得ない。そしておそらく脳科学や心理学、オートポイエーシス理論やアフォーダンス理論など、哲学と自然科学、医学の境界を飛び越えて議論を重ねることが必要になるだろう。そうなると読書blogの範疇や自分の能力を遥かに超えてしまうので(笑)、もうこれくらいにしておこう。

 でも最後にもうひとことだけ。自分で言いだしておいて何だが、『家畜人ヤプー』の世界が「あるべき世界」の姿だったりするのは絶対に嫌だなあ。(笑)
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