『新約聖書Ⅱ』 文春新書

 前書の『新約聖書Ⅰ』に続いて、本書ではイエスなき後の使徒たちによる布教の様子を描いた「使徒言行録」と、彼らが書いた(とされる)「書簡集」、そして「ヨハネの黙示録」の3つが収録されている。(要するに新約聖書から4大福音書を除いた残り全部ということ。)
 出版の意図はキリスト教徒でない人が手軽に聖書を知ることが出来るようにということなので、佐藤優が『Ⅰ』と同様に懇切丁寧な解説を書いてくれていて、素人にも大変とっつきやすいので助かる。

 4大福音書においては、イエスが生まれてから処刑されるまでのドラマチックな生涯を通じて、キリスト教思想の真髄が語られていた。本書では弟子たちによる信仰告白やその後の布教の様子を通じて、キリスト教が徐々に人々の間に広がっていく様子が克明に綴られている。
 これはこれでそれなりに興味深いのではあるが、如何せん「スター俳優」が退場した後に脇役だけで延々と演じられている舞台劇、もしくは本篇の小説よりも長い外伝を延々と読んでいるようで、いささか寂しい。
 ただし使徒の中でも特別な存在であるパウロ(*)について、人となりがとても良く理解できたのは収穫だった。最初はキリスト教を迫害する立場であったにも拘わらず、ある時に劇的な回心を遂げ、その後はキリスト教普及と教団設立の原動力となったパウロ。ユダヤ人でありつつローマの市民権を持ち、なおかつ“狂信的な”キリスト教徒である彼が、自分の古巣であるユダヤ教に対して挑発的な言動を繰り返すたび、怒り狂う敬虔なユダヤ教徒たちパウロの間に挟まれて困惑する律法学者およびローマ帝国の行政官たち。読んでいると当時の様子が目の前にありありと浮かんでくるようで苦笑を禁じ得ない。

   *…彼は他の使徒たちと違い生前のイエスに直接教えを受けてはおらず、後になってから
     使徒に加わった人物。ちなみに彼パウロは異教徒をキリスト教に帰依させることを
     専門にしていて、ユダヤ人の改宗を専門にしたペトロやヨハネとは“受け持ち”を
     うまいこと分担していたようだ。

 以上が「使徒言行録」で、次は「書簡集」について。佐藤の解説によれば、新約聖書に収められている「書簡」には大きく3つの種類があるとのこと。
 ひとつは前述のパウロが書いたとされる「パウロ書簡」13通。例えば「ローマの信徒への手紙」や「コリント人への手紙」など、書簡の宛先による名前が付けられている。(もっとも現在では、そのうち6編は別人が書いたものと考えられているらしい。)
 もうひとつが「公開書簡」とよばれる7通。「ペトロの手紙」とか「ヨハネの手紙」など、パウロ以外の使徒が書いたとされているもの。(こちらも、明らかに別人が書いたと判明しているのも中にはあるようだ。)
 そして最後が、上記の2種類のどちらにも属さない「ヘブライ人への手紙」。作者は不明だがかなりの知識人が書いたものと目され、初期のキリスト信仰の思想が事細かく語られている。
 どの書簡にも共通することだが、これらは当時の人々にあてたアジテーションのようなもの。文字通りの「説教」であるわけで、中身は筋も何もなくただひたすら神とイエスに対する自分の熱い思いが語られたもの。したがって異教徒であり無神論者でもある自分にとって、(知的興味で読んではみたが)失礼ながら正直言ってさほど面白いものではなかった。
 更にきつかったのは、当時の頑迷なユダヤ教徒を説得するためのメッセージだということ。彼らを説得するにはユダヤ教信仰(すなわち旧約聖書の内容)に関する極めて詳しい知識と、キリスト教がユダヤ教の神との契約を踏まえた上で如何に普遍化されたものであるか、についての理論が必要になる。つまり知識不足の部外者が理解するには、かなり無理があると言う訳。最低でも旧約聖書を一通りは読んでおかないとしんどいと思う。(子供向けの『聖書物語』を読んでいるだけじゃ、やっぱり太刀打ちは全然無理。/笑)

 ただし読み辛くはあるのだけれど、内容はすべてどれも初期のキリスト信仰のあり方が示された文章であって、キリスト教の本質を理解するうえではとても参考になる。
 たとえばキリスト教の真髄が(浄土真宗における阿弥陀信仰にも通じるような)絶対的な他力本願であり、唯一神への絶対的な帰依であるということ。
 いわく、ユダヤ教のように「肉(体)」と「律法」に生きるのでなく、神への「信仰」と「義」に生きるべきとか、絶対的な神からみれば、信仰/身分/貧富/賢愚などに関係なく人々はみな平等だとか…。(これって人権意識の萌芽といえるかも。)でも一方で「自分にふさわしいことをせよ」といって、身分や男女の差をわきまえるべきとも。つまり近代において人権とは「個々人の完全平等」を前提とするが、(当時の)キリスト教においてはあくまでも「神からみると人間同士の違いなんて単なる誤差」という意味の“平等”ということか。

 話は変わるが、パウロ書簡においてパウロがユダヤ教に対する彼の見解を述べているくだりが面白かった。もともとユダヤ教の「律法」とは、唯一神(ヤハウェ)がかつてモーゼと取り交わした約束のこと。パウロがそれをどうみるかというと――
 
 子供のように未熟で詳しいことが分からない間は、とにかく理屈も無くルールを守らせることが肝心。ユダヤ教の律法というのは、神が人類に対してそのようにさせてきたもの。
 でも大人になって、ルールのもとになる理由(=倫理や目的)が理解できるレベルになったら、枝葉末節の規則に拘らずとも自分を律することで、状況に合わせてルールを変えてしまうことも可能なのだという。(たとえばユダヤ人にとって絶対的なルールである割礼を否定しても構わないとか。)すなわち自分はユダヤ教よりも上の立場にあると主張しているのだ。
 パウロによって大成された「キリスト教」の教えによれば、ユダヤ教は神の教えの“簡易版/お試し版”のようなもの。イエスに至り初めて真の教えが示されたというわけ。しかしあとの宗教によって“不完全”と決めつけられた側は、どんな風に思ったんだろうか? 当時のユダヤ教徒が怒り狂ったのも分からないでもない気がする。

 さて本書で最も長い「書簡集」のパートを過ぎると、次はいよいよお待ちかね「ヨハネの黙示録」になる。このパートは本当に面白かった! これを読むだけでも本書を手に取る価値はある。
 映画やドラマ、文学などありとあらゆるところで描かれてきた災厄のイメージの源泉になるのが、この「ヨハネの黙示録」だと言っても過言ではない。描かれているのはヨハネが幻視したとされる、この世の終わりに訪れるシーンの数々。たとえば次のような内容は、誰もがどこかで聞いたことがあるはずだ。
「7つの封印」「(天使が吹く)7つの喇叭」「白・赤・黒・蒼の色をした4頭の馬とそれに乗る騎士」「飛蝗の王」「天から落ちてくる“ニガヨモギ”という名の星」「666という数字(獣の刻印)」「海と地から上ってくる怪獣」…そして「ハルマゲドン」。
 これから欧米の映画や小説を見るときには、今まで以上に愉しめることを期待したい。

 しかしながら、結局のところ新約聖書を通読して一番印象に残ったのが「ヨハネの黙示録」というのでは、我ながら救われないなあ。(笑)

<追記>
 なんで人間は恐ろしいもの/怖いものについて考えるのが好きなんだろう。絵画の世界に限ってもボッスの『快楽の園』(右扉側の図)やブリューゲルの『死の勝利』など沢山あるし、日本でも『地獄絵図』で執拗なまでに描かれる亡者への拷問だとか、例を挙げれば枚挙にいとまがない。これがいわゆる「怖いもの見たさ」というやつか。
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