『迷宮としての世界(上/下)』 グスタフ・ルネ・ホッケ 岩波文庫

 「マニエリスム」と呼ばれる美術様式がある。本書はドイツの評論家(哲学者?)ホッケによって書かれた、「マニエリスム」についての極めて長大な論考。文庫になる前の元本は、1966年に種村季弘によって紹介されて、その後の本邦におけるマニエリスム研究の嚆矢となったものである(とのこと)。ただし著者にとってはマニエリスム美術について語ること自体が最終目的ではなく、あくまでも手段に過ぎない。真の目的は「ヨーロッパ常数」について語ることにある。(「ヨーロッパ常数」とは何か?については後述。)
 ところが本書の副題には「マニエリスム美術」とあるだけだし、本書を読んでもそんな事はどこにも出てこない。実はホッケの考えの全体像が示されるのは、何と一番最後の第30章に至ってからなのだ。美術史の一分野についての本だとばかり思って読んでいると、話がどんどん横にそれて題名通りの「迷宮」に入り込んでいくことになる。
 解説で高山宏氏も述べているように、本書はまず後ろから読んで全体像を頭に入れた上で、改めて最初に戻って読んだ方が理解しやすいだろう。でもいちいち全部読んでいられない人のため、以下にまとめて書いてしまう。(笑)

 もともと「マニエリスム」という名前は、16,7世紀(すなわち後期ルネサンスとバロックの間)に出現した“ある種の特徴”を持つ美術様式に付けられたものだった。(以下「狭義のマニエリスム」と呼ぶことにする。)
 美術史における狭義のマニエリスムというのは、それまでの「古典主義」から逸脱した絵画に対して付けられた蔑称の意味合いが強かったらしい。「古典主義」がギリシア彫刻のように自然な姿態の描写を主体としていたのに対し、「マニエリスム」と呼ばれた絵画は、例えば凸面鏡をつかってわざとイビツな構図にするなど、技巧に走り過ぎて一種異様な雰囲気を持っている。多くの人が知っている画家といえばアンチンボルド(*)などが挙がるだろう。最初は宗教的な寓意を持たせるなどの目的で、画家の精神的な主張を絵に盛り込むための手法だったはずだが、やがていつの間にか理念の追求は“珍奇性”の追求へとすり替わってしまい、“芸術性”とかけ離れた別の価値を示すようになった。それらの一群を指し示すために造られたのが「(狭義の)マニエリスム」という言葉だった。ちなみに日本では「衒奇的(げんきてき)」という訳語もあるようだ。

   *…野菜や書籍を組み合わせて人の顔を描いた作品が有名。

 ホッケの恩師であったクルティウスという人物は、後に「マニエリスム」という美術用語を“単なる自然描写”から逸脱した作品群全てに対して使用することを主張した。彼が「マニエリスム」の範疇に含めたのは、「紀元前200年前後のアレクサンドレイア」「1、2世紀ごろのローマ『白銀ラテン』時代」「17世紀半ば~18世紀半ばに亘る最盛期のバロック」、そして「19世紀初頭のロマン派運動」「20世紀初頭~半ばのダダおよびシュールリアリズム運動」などである。
 クルティウスの主張は正統的な美術史の中では定着しなかった(という話もある)ようだが、ホッケはその主張を継承/徹底し、絵画から対象を更に文学の分野まで広げた。すなわち修辞的な技巧を多用した詩や散文なども「マニエリスム」の概念に含めてしまったとのこと。(これを仮に「広義のマニエリスム」と呼ぶことにする。)
ちなみに「マニエリスム」の意味は「マニエラ(=手法/様式)を重視する主義」ということであって、ラテン語の“manus(=手)”から派生した「人の手による技術」に由来する。すなわち「(自然物をそのまま描写するため)具体的知覚にそぐうよりも、(作者の)心理的体験や情動に重きを置く芸術の手法」のことである。具象ではなく抽象的であったり非現実的な表現を特徴とする。
 「広義のマニエリスム」の例としては、ミケランジェロの宗教画などにおいて苦悩を表現するために人物に異様なポーズをとらせたり、文の意味が崩れてしまうほど韻を踏むことにこだわった詩などをイメージすると雰囲気が分かりやすいかも。

 前フリの説明のつもりが長くなってしまった。要するに本書『迷宮としての世界』というのは、著者ホッケが膨大な例証を挙げて「広義のマニエリスム」に対する自らの主張を説明した本なのだ。
 「広義のマニエリスム」にまで至ってしまったホッケはもはや歯止めが効かない。彼によれば「マニエリスム」とは単なる美術・芸術の概念ではなく、ヨーロッパの思想や文化の奥底深く流れる潮流のひとつであり、もう一つの潮流「古典主義」に対峙するものという事になる。―えらく大仰な話になってきた。(笑)
 彼の言葉を借りると、「古典主義」とは神による世界の秩序を重んじるものであって、「整然とした」「端正な」「自然主義的な」といった修飾語がよく似合う。極論すると理性や規範に対する親和性を持ち「“明るみ”に出されるもの(≒顕在化)」を優位とする価値観の総称ということになる。
 それに対して「マニエリスム」とは、作者が表現しようとする概念や頭の中のイメージが溢れだして創作物にまとわりつき、何とも形容し難い「豊饒な」「奇怪な」「ユニークな」形に結晶したものといえる。曖昧さや神秘性に対する親和性を持ち「“秘匿”されたもの(≒隠された叡智)」を優位とする価値観の総称である。
 このふたつを合わせ鏡のように一対のものとして捉えることで、ヨーロッパを支配する思考方法の祖形が解明できると著者は考えており、それを「ヨーロッパ常数」と呼んでいる(ようだ)。

 このあたりの話、つまり著者のスタンスは(あとから読み返してみると)実は巻頭の「緒言」で確かに述べられてはいる。述べられてはいるのだが、美術史における「狭義のマニエリスム」に関するガイドブックを期待して読み始めた読者には、何が書かれているのか全く理解が出来ない。そして先程も述べたように、再びこれらの話題に戻って著者の考えが包括されるのは、およそ670ページ後の(!)第30章に至ってからなのだ。(初読で全体像を理解するのは、はっきりいって不可能に近い。)
 その代わりといっては何だが、最後まで読んで全体像が理解できた時には、目の前がいきなりパッと開けるような爽快感があった。もうすこし詳しく言うと、第30章「神の隠喩」においてホッケはテーマを更に「神の想像」という領域にまで進めていく。「古典主義」は(神を)具象的に想像する方法であり「マニエリスム」は(神の)抽象的な想像を目的とする方法であるとし、それらが相俟って西洋の2大潮流となるというところまで話は及ぶが、流石にここまで広げ過ぎると著者の手にも少し余るようだ。美術におけるマニエリスムをテーマにした本書は一旦ここで終了する。そして「ヨーロッパ常数」を巡るホッケの思索は、文学や詩といった修辞に関する続篇『文学におけるマニエリスム』に引き継がれることになる...。
 まさかこれだけの大著が2部作の“前篇”に過ぎないとはホッケ恐るべし。もしもマニエリスム論の全貌を知りたければ、これ以上の労作であるらしい続篇を読まなくてはいけない訳だが、とてもそこまでお気楽読者のパワーは続きそうもなく、一応いまのところは本作で打ち止めとしたい。(笑)

 それではつぎに本書に関する感想を。
 第1部は「(広義の)マニエリスム」の様式に関する総論が続くため、狭義と広義の区別すら理解できていない読者にとってハードな状況(笑)が続く。そこで救いになるのは豊富に収録された奇妙な図版の数々である。不思議な雰囲気を待つそれらの絵は、難しい議論を読み進むのに疲れたときのちょっとした清涼剤代わりになる。
 本書が俄然面白くなるのは、死の不安/神と天使/時計/廃墟/キュビズムといった、「マニエリスム美術」を代表する各モチーフに関して各論が展開される第2部から。イメージを膨らませる為の道具としてよく用いられる使われるアイテム等を個別に取り上げていって、膨大な例章でその概念を解説する構成をとっている。その為に随所に掲げられた膨大な絵をみているだけでも楽しい。
 「マニエリスム」の代表作家としては先述のアンチンボルドやミケランジェロの他、エル・グレコやブリューゲル、ルドン、シャガール、それにエルンストやダリ、ピカソ、デュシャンといった画家たちや、詩人のブルトンなど錚々たる名前が挙げられている。対する非マニエリスム(古典主義)の代表作家としては、ダンテ、シェイクスピア、レンブラント、モーツァルト、ゲーテ、J・S・バッハなどこちらも凄い名前のオンパレード。
 自分が思うにどのような概念であっても、一度造られてしまうと時間とともに様々な意見が纏わりついて大きくなっていき、やがて雪ダルマのように膨らんでいく。そしてその結果、当初とは違う意味に使われ始める。おそらく「マニエリスム」においても同様で、時の権力/秩序の象徴たる「古典様式」に対置するものとして、無秩序や改革・革命というイデオローグを持たされたのではないだろうか。(**)

  **…そのまま先鋭化が進んだばあい、行き着く先は、“頽廃”もしくは“狂気”への
     散逸か、はたまた“倒錯的な猥雑”さか? いずれにせよ最終的には自閉症的な
     ナルシシズムへと堕することになりそう。

 ただこれらの膨大な論考を通じて著者が示そうとした結論自体については、ちょっと首肯しかねる点がある。まずひとつめは「(広義の)マニエリスム」に含まれるものと含まれない物の線引きが良く分からないこと。
 ホッケはミケランジェロやレオナルド・ダ=ヴィンチまでマニエリスムの範疇に含めてしまっているが、そこまで入れておいてレンブラントが含まれない根拠がさっぱり理解できない。あらゆる創作物には程度の差はあれ何らかの形で作り手の意図が込められており、「不自然なポーズ」のごときものまでマニエリスムに含めてしまうなら、どこに線引きするかは殆ど自由裁量になってしまわないか? スーパーリアリズム絵画はおろか写真ですら、意図的な構図や演出を完全に排除することは出来ないだろう。
 また、キュビズム(ピカソ)やデュシャンのように技巧的な奇想と、ブリューゲルやボッスのように技巧は普通だが書かれている対象物が異様なものを全て同列に語ってしまうのもどうかと思う。技巧に走り過ぎてしまったが故の「演出過多」と、手法は古典的だがテーマ自体が「奇想」になっているものとは分けて考えるべきではなかったか。個人的にはせめてミケランジェロなどは外すべきではないかと思う。自分の意見が絶対的に正しいとは思っていないが、少なくともここまでマニエリスムの定義を広げ過ぎると、収拾がつかなくなるだろう。却って意味のないものになると思われるが如何か。
 次に納得できない点は、あらゆるマニエリスム美術の目的を「神への奉仕」という観点で説明しようとしているところ。ベルクソンやハイデガーまで引き合いに出して懸命に説明してくれてはいるが、精神的なものや技巧的なものを全て一神教的な世界観に集約してしまうのはちょっとなあ。西洋美術とは全く別の流れをくむ“奇想の系譜”が存在することを知っている我々日本人としては、「若冲や蕭白は神への奉仕はしてないぞ!」と言いたい。月岡芳年なんてどう考えても宗教とは正反対の指向だし。
 それに西洋においてもマニエリスムの理念が宗教に因っているのは、せいぜいが市民社会の成立する頃までであって、それ以降の美術作品も全て同じとは思い難い。カンディンスキーやミロの抽象画のどこに宗教的な崇高さを感じればよいのか、自分にはさっぱり分からない。
 このあたりの話はもしかしたら続篇『文学におけるマニエリスム』で全て解決するのかもしれないが、そこまでつきあう気力は無いしなあ、うーん。(笑)

 以上、長々と書いてきたが、巻末の高山宏氏による解説がとても好かったので、それに触れて最後としよう。
日本に本書が初めて紹介された経緯や、マニエリスムを巡ってその後に繰り広げられた熱気ある議論の様子が、生き生きと描かれていて素晴らしい解説になっている。本書を翻訳・紹介したのが種村季弘だったこともあって、面白いことが大好きな種村や友人の澁澤龍彦らは基本的にホッケの立場を支持したらしい。その彼らが70年代の思想シーンを牽引したため、日本におけるマニエリスム理解は本書の考えに沿った「広義」のものになっているようだ。
 高山宏氏によれば日本におけるマニエリスムの例としては、先述の若冲や蕭白はもちろんのこと、漫画家の丸尾末広や荒木飛呂彦、果ては水木しげる迄もが含まれるそうだ。(自分が思うに松井優征の『魔人探偵脳噛ネウロ』も仲間に入れるべきかと。)

<追記>
 話はころっと変わるが、本当に本書の文章は読みにくかった。専門用語が多いだけじゃなく文意が掴みにくい。いわゆる「翻訳調」による読みにくさとも違う。例えば文の最初と最後で意味が繋がらなかったり。おそらく原著自体が悪文なのだ。翻訳にあたってはきっと苦労しただろうと思う。
でも自分は悪文については山口昌男で訓練を積んでいるので、内容さえ面白ければこの程度ではへこたれはしないのだ。(笑)
 思うにある種の思想家にとっては「何を書くか」だけが重要であって、「どう書くか」は大した関心事ではないのだろう。ちなみに文学者は逆で「どう書くか」に腐心しているが、両方を上手くこなせる人は稀であって、「何を書くか」が単になおざりにされているだけの人も多い。何事もバランスが大事ということだね。
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優とも劣らない。

たまたまのtweetに導かれ、このブログに辿りつきました。あの松岡正剛先生にも勝るとも劣らない読み手と拝察いたします。よろしくお願い致します。

sollers様

はじめまして。ようこそいらっしゃいませ。

と、とんでもない。
セイゴオ氏と比較なんて滅相もないです(汗)。

あれこれとつまみ食いする節操のない管理人ですが、
よろしければまたお越しくださいませ(^^)
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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