『論語』 岩波文庫

 ぼちぼちと読んできた『論語』が読み終わったので、今回はおそれ多くも感想を述べてしまう。(笑)
 今さら説明の必要がない程の世界的な名著だが、孔子の時代にリアルタイムで書かれたものではなくて、後世の弟子たちにより編纂されたものだというのは今回初めて知った。言ってみれば新約聖書と似たような成り立ち。
 孔子と言えば乱れた世を立て直すための「政道」を説くにあたって、失われた古代国家“周”の政治を理想とし、「礼」と「徳」を持って語ったのが特徴。細かく言えば『論語』の中で孔子が述べるキーワードには、他にも「仁」とか「孝」とか色々あるが、興味のある人はビジネス書のコーナーに解説書が山ほど売られているので、本屋で各自で探して頂きたい。でもまあ、彼の主張を簡単にまとめるならば、基本的な考えは凡そ以下の文章に集約されていると思って良いだろう。

  「政」で以て導き「刑」で統制すると人民は法の網の目をすりぬけて恥ずかしいとも
  思わぬが、「道徳」で以て導き「礼」で統制するならば、人民は法をすり抜けることに
  羞恥心をもつようになる。

 つまり「縛りつけるのでなく思いやりをもって互いに敬い合う精神で臨めば、世の中は自ずとうまくいく」ということ。皆が漠然と心の中で感じている“当たり前”のことを、改めて言葉にしてくれたのが孔子の偉いところ。つまり『論語』で孔子が述べているのは「アフォリズム(警句)」みたいなものなので、おもわず「そうそう、そういうこと!」と言いたくなるフレーズを愉しめば良いのだと思う。

 実際に目を通して見ると、あまりに有名な本だけに、どこかで聞いたことがある言葉が次から次へと、まあ沢山有ること。(笑)
 でも基本的には弟子が書いた孔子の“言行録”なので、孔子の研究者ではない一般読者の自分には、正直いってどうでもいいような話も数多い。また“思想書”として『論語』を読んだ場合も、「周公の治世を理想とした君主論であり臣下論」であって、「君は君として、臣は臣としてそれぞれ本文を尽くす」というのがその基本。封建制度がとうに崩壊して久しい現代では、もはや通用しない内容も多い。
 ありていに言って中国の思想家たちは、我々が普通に考えるプラトンやデカルトといった所謂「思想家」とは少し違うものだと思う。孔子の場合は弟子たちに説く政治哲学がそのまま彼の人生哲学ともなっていて、日々の生活がそのまま自らの思想を実践していく場になっているのが特徴。だからこそ言行録がそのまま思想書としても読まれてきたのだろう。
 しかしその為に『論語』はひとつの問題を後世に残すことになった。それは「礼」や「徳」と言った言葉について、それらが指し示す意味を明確にしていなかったこと。「礼」という概念は当時の彼らにとって自明のことだったのかも知れないが、そこで言葉の解釈を曖昧なままにしてしまったが故に、後世の支配層による恣意的な解釈を許すことになった。結果、孔子の意図に反する形で利用される余地を残してしまった。
 極端な事を言えば、これらの言葉を“符丁”のようなものと考えても良い。例えば“互いに慈しみ礼を尽くすこと”に対する言葉として「仁」をあてる代わりに、「のっぴょっぴょー(byしりあがり寿)」という言葉にしたって構わない。別にどんな呼び名であっても、意味が分からなければ同じことだ。(笑)

 思うに孔子は「何を伝えるか」だけでなく、自分の意図が後世に正しく伝わるために「どのように伝えるか」についても、「何を」と同じくらい重要視すべきではなかったか。その結果、色んな”手あか“が付いてしまい、今の世の中で「『論語』が好きだ」と公言してはばからない人には、碌なヤツがいない気がする。(失礼/笑)
素直に読めば常識的な話が多くて、決しておかしなことは言っていないのにねえ。

 次に本書の構成について。
 全体は巻第一から巻第十までの10部構成になっていて、およそ500余りの小文が収録されている。それぞれの巻は2章に分かれているので全部で20章となる。とはいっても書かれている中身によって章が分けられている訳ではなく、読みやすいように単に適当な分量ごとに分けたという感じ。内容は孔子が語った言葉を始めとして、弟子とのエピソードや日常の様子など多岐に亘っている。個人的に好きな文章が多く収録されているのは、巻第一の「学而第一」と「為政第二」、巻第二の「里仁第四」、それに巻第八の「衛霊公第十五」といったところだろうか。
 本書を読み終えた後に、全部で500余りある話を「A=好いなあ」「B=まあまあだなあ」「C=どーでもいいなあ」という3つのランクに分けて、各々どれくらいあるか数えてみたところ、なんと全体の約70%がCになってしまった。(笑)
 さらに残りの30%のうちBが約25%を占め、Aは僅か5%にも満たない程度。あくまでも自分の主観によるものだから、他の人が見ればもっとAランクの比率が増えるかも知れない。でも弟子が「○○さんについての印象」を孔子に尋ねるエピソードなどは、誰が読んでも“どーでもいい”と思うんじゃなかろうか?
 但しCランクのものであっても、(為になるかどうかは別として)孔子に関する“物語”として読めば充分に愉しめる。最愛の弟子・顔回を無くした時に彼が慟哭しただとか、不遇の晩年に周囲の人々が孔子を噂する様子など、Cランクの文章を読み進んでいくと、次第に孔子の人となりが見えてくる。単なる「朴念仁(ぼくねんじん)」だと思っていた孔子が、次第に身近な存在に思えてくるから不思議だ(*)。そう考えると『論語』の付きせぬ魅力はむしろCランクの文章にこそあるといえるのかも。(ちょっと褒めすぎか。/笑)

   *…余談だが孔子の愛弟子・顔回が主人公の伝奇小説『陋巷に在り』(酒見賢一)は、
     このあたりの話を元にイメージを膨らませていったのだというのが、本書を読んで
     良く分かった。

 こう考えていくと『論語』に対する印象は『新約聖書』に対するそれと本当に良く似てくる。イエスや孔子の人間的魅力だとか、語られる思想の持つ奥深さとか。実際に中国では孔子廟が造られ、熱心な信仰の対象にもなっているようだし。
 そう考えると、儒家がキリスト教のような教団にならなかった理由は、孔子が一切「怪力乱神」について語ることがなく、その思想は現世における人生訓に終始していたこと(だけ)に尽きるのでないか。両者/両書におけるそれ以外のスタンスは殆ど同じといっても良い。

 最後に自分が特に「好いなあ」と感じたところを幾つかピックアップしておこう。(「こんな言葉が本書に由来するものだったのか」と驚いたものも含めて。)

 「朋あり、遠方より来たる、亦(ま)た楽しからずや」
 「巧言令色、鮮(すく)なし仁」
 「四十而不惑、五十而知天命(四十にして惑わず、五十にして天命を知る)」
 「温故而知新」
 「これを知る者はこれを好むに如かず(及ばない)。
         これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」
 「子不語怪力乱新(孔子、怪力乱神を語らず)」
 「顔淵(顔回)死す ―『噫、天予れを喪ぼせり(ああ、天われをほろぼせり)』」
 「過ぎたるは及ばざるがごとし」
 「君子は和して同ぜず(君子は人と調和するが雷同はしない)」
 「これの欲せざる所、人に施すこと勿(な)かれ」

<追記>
 「古典は若いうちに読むべき」なんて偉そうに言う人もいるけど、自分はそうは思わない。専門の研究者ならともかく、一般の読者にとって古典教養が必要になる機会なんて人生でそうざらに有るわけじゃない。とすれば殆どは自分のように「愉しみ」を得るのが古典を読む目的となるだろう。しかしそれらの本当の面白さを理解するには、それなりの経験と知識が前提になると思うのだ。なぜなら書かれた時代や当時の社会情勢、人々の意識が現代とはかけ離れているのだから。分からない部分は知識や想像力で補うほかない訳だが、それを人生の経験浅い人達に強要したって酷だと思うのだ。
 読書は別に難行ではない。全体の僅か5%程度(20余り)の名文を読むために、つまらないと思いながら『論語』を読み続ける必要なんて全然ない。(但し、くどいようだが専門の研究者を目指すなら話は別。また本人が古典に興味があるならそれも結構。)
 「古典だから読んでおくべき」みたいに教条的な感じで無理やり読まされたって愉しくないということ。一生懸命読んだ結果、ただ単に「我慢して読んだ」「つまらなかった」という記憶が残るだけでは、本人にとっても本にとっても可哀想だものね。
 若いうちは「古典を読め!」じゃなくて「古典も読んだら?」くらいで充分ではなかろうか。そのうち読みたくなったら、そのときに読めば良い。
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