『胎児の世界』 三木成夫 中公新書

 東京出張の時には、帰りに東京駅・丸の内にある丸善4Fの松丸本舗へ時々寄らしてもらっている。新刊書店で「思いがけない本との出会い」が期待できる数少ない場所だ。(*)

   *…知っている人も多いと思うが念のために書いておくと、松岡正剛と丸善がタッグを
     組んだ、本の“セレクトショップ”。セイゴオが『千夜千冊』で取り上げた本は
     もちろんのこと、彼が責任をもってセレクトした本が所狭しと置かれている。
     でもこの場所、面白そうな本があまりにあり過ぎるので、本棚の角を曲がるたびに
     気になる本との「出会い頭の正面衝突」を繰り返してなかなか前に進めないんだよ
     ね。(苦笑)

 そんな松丸本舗の棚に書かれていたのが、松岡正剛の直筆による「こんな名著めったにない」という惹句だった。それを読んでつい心魅かれてしまい、ふところ寂しいのに買ってしまったのが本書『胎児の世界』というわけ。
 で、さっそく読んでみました、読みましたとも。読んでみて感想を書こうと思うのだけれど...。うーんと、困った。(笑)
 ひとことで言うと本書はある種の思想書なのだが、正直言って中身はブッ飛んでいる。もしも著者名を隠したままで読まされたら、岡本太郎が書いた本と言われても思わず納得してしまったかもしれない。茂木健一郎が自著の中で、若いころに多大な影響を受けた本として紹介もしているようだが、さもありなん。そんな感じの本だ。
 一読してみて、松岡正剛が“名著”と断言した理由は大変よく理解できた。しかし自分としてはそこまで本書の主張に対して手放しで賛同はしかねる。(20年ほど前に読んでいたら「何だこれは!」といってポンと放り出していたかも。)
 ただし誤解が無いように言っておくが、本書は決して「いい加減」な気持ちで書かれた本では無い。著者の想いはとても真剣である。書名と「東大医学部出身の解剖学&発生学者」という著者の肩書を見て、科学的な知見について書いた研究書だろうと勝手に勘違いして読んだので、思わず面喰ってしまったということ。
 だらだらと書き連ねてしまったが、これでは何のことかさっぱり分からないと思うので詳しく説明していこう。

 著者の三木成夫は大学で発生学の研究に没頭した経歴をもち、後には東京芸術大学の教授に就任している。そして鶏や人間の胎児を研究に用いた経験をもとに、地球上に存在する全ての生命を貫いている「記憶」について、自らの思うところを一冊にまとめた、それが本書。たしかに胎児の形態学的な知見なども書かれてはいるが、あくまでも「生命記憶」に関する自らの考えを読者が理解しやすくするための前奏曲に過ぎず、本書執筆の真の狙いは別にある。
 胎児には魚から両生類や爬虫類、そして哺乳類へと長い年月を経て進化してきた、生物の歴史(痕跡)の全て(*)が刻み込まれている。著者は鶏の卵が受精後4日から5日にかけて循環器系の劇的な変化を遂げる様子などの、克明な描写によってそれらを説明する。そしてやがて「生命」から「母なる海」や「地球」、そして「銀河宇宙」へと話は進み、最後には大宇宙と森羅万象がこころをひとつにして息づく「宇宙交響(=共鳴するリズム)」への共感に至って、著者独特の生命賛歌を高らかに謳い上げて幕を閉じる。

   *…いわゆる「個体発生は系統発生をくりかえす」ということ。

 思考の射程範囲は恐ろしく広い。「生命記憶」とか「胎児の見る夢」とか言う言葉が頻繁にでてくるのでもしやと思ったら、とうとう夢野久作(『ドグラ・マグラ』)にまで話は及ぶ。このように科学的な記述から詩的な独白までが同一レベルで語られているのが本書の特徴でもあり、また取っつきにくさの原因でもあるといえるだろう。

 次にどうしても納得いかなかった点について。
 著者は西洋の思想における限界を感じており、それに対するカウンターカルチャーとして、天皇制や伊勢神宮などに代表される日本古来の思想や、中国の老荘思想を賛美している。どうやらその理由(の少なくともひとつ)は、東洋思想の方が西洋思想よりも遥かに「生命記憶」に関して理解が深いからであるようだ。しかしその取り上げ方に問題がある。
 三木が好んで用いているのは、日本に古くから伝わる思考方法である「見立て」の手法だ。どんなものかというと、直接的には関係のない事柄を、連想ゲームのように列記することで、一種独特の繋がりを持たせようとするもの。文学や文芸作品で用いれば思わぬ効果を得ることもできようが、本書のように「思想」を伝えようとする本においてはそうはいかない。例えばかつて自分が『正倉院宝物展』を見て感激した体験を、日本人の先祖が遥かシルクロードより亘ってきた「記憶」によるものだと主張してみたり、伊勢神宮で20年毎に行われる「遷宮」が老荘思想における「道(タオ)」の実現であると言ってみたり、詳しい論証も無く直感をいきなり主張されても、果たしてどうして良いものやら途方に暮れてしまう。

 民族学者・折口信夫における『死者の書』のようなものと言えば想像が付く人もいるだろうか。要するに非常に “文学的” かつ “詩的”なのだ。まあもっとも、だからこそ著者は医学部ではなくて芸術学部の教授になった(なれた)のかもしれない。あまり真剣になって考え込まずにある種の“文学作品”として読めば、それなりに感動もするし面白いのではなかろうか。
 あ、今頃になって気が付いたのだが、本書は「論理と感性」や「西洋と東洋」といった枠組みどころか、もしかしたら「思想と文学」という境目すらも軽々と飛び越えてしまっているということか。…それならこの書き方にも納得。(笑)

<追記>
 最後になるが松岡正剛が本書を“名著”と断言した理由についての推論を付け加えておこう。
 松岡正剛が大好きなのはジャンルにとらわれず縦横無尽に、且つイマジネーション豊かに駆け回る思想の持ち主だ。本書の他にも立岩二郎の『てりむくり』(中公新書)などを、高く評価しているのがその証拠。彼(正剛)は「方法としての日本」の活用を以前から主張しており(=これは自分も納得)、日本古来の考え方に根差した上で、様々なジャンルの壁を越えていく三木成夫のようなタイプは、きっと「ツボ」であるに違いない。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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