「謎」の観賞力、あるいはミステリ覚書

 先日、『エステルハージ博士の事件簿』についての感想をアップしたが、そこではとりあえず一番わかりやすいと思われるSF/幻想小説の視点から書いてみた。今度はミステリの視点からの読みをしてみたい。
 なお架空の歴史書として読むのは、自分には荷が重すぎるのでやめた。虚と実を見分けて読み解くのもきっと面白いだろうが、そのために割かなきゃいけない労力とかを考えるととても手が出ない、なんせ「お気らく」なんで。(笑)

  注:ここからは中身に触れるので、これから本書を読むつもりの人は読了後にすることを
    お勧めします。

 ミステリの定義は何か?と尋ねれば、おそらくSFに関するのと同様に千差万別な答えが返ってくるに違いない。ここでそれを仮に「何らかの“謎”に関する物語」とするならば、『エステルハージ博士の事件簿』は紛うことなきミステリである。第1話に出てくる食事をほとんど取らず眠ったままで年を取らない少女に始まり、最終話に出てくる皇帝の生霊(?)まで、全ての話に何らかの「謎」が登場している。しかしここで先程の定義を少し変えて、その謎に「事件性」を求めるとするならば、そしてその謎の「合理的解決」を前提とするものだけがミステリであるとするならば、話は全く違ってくる。
 何を「事件」とするかにもよるのだが、事件性のある謎は全8話のうち僅か3つしかなく、一応の合理的な解決をみるものも半数しかない。詳しくは下記のとおり。

       <提示された謎>   <事件性>  <謎の合理的解決>
   第1話  年をとらない少女    無し       無し
   第2話   国宝の盗難      有り       有り
   第3話    人熊        無し       無し
   第4話    ―(*)      有り       有り
   第5話  未知の力と人体消失   無し       無し
   第6話  実在したローレライ   無し       有り
   第7話  錬金術による黄金    有り       有り
   第8話  皇帝の生霊(?)    無し       無し

   *…悪魔崇拝教団が登場するが特に謎らしいものは無い。自分たちを正規の宗教法人
     として認めるように彼らが役所に申請をだしたことでおこる、ドタバタの顛末が
     語られている。

 こうして見ると、事件性があるものは一応何らかの形で解決がなされていると言えるが、合理的な解決がされず謎が謎のままで終わる作品も半数に上る。解決がなされない作品も何らかの形では、物語の(一応の)終結はされているわけだが、自分が想像するに、この作品に釈然としないものを感じた人達は、もしかして「事件性を持った謎とその合理的解決」という狭義のミステリの条件を無意識のうちに期待していたのではなかろうか?

 「謎」の魅力についてはそこら中の評論やエッセイで語られつくしている感じがあるが、ミステリにおける「事件性」の重要度については、意外と意識してない人が多いのではないかと思う。しかし実は「事件性」というのはミステリを成り立たせる上で、とても重要な役割を果たしているのだ。それは何かというと「謎を物語の中でくっきりと浮かび上がらせるフレーム」の役割。
 ちなみにこのフレームがなくてもミステリとして物語を成り立たせることは可能だが、選択できるスタイルがかなり制約を受ける。チェスタトン『ポンド氏の逆説』や柳広司『百万のマルコ』のごとく、誰にでもわかるように明らかな矛盾として読者に提示するか、あるいは北村薫の『空飛ぶ馬』に代表される“日常の謎”タイプのように、感受性豊かな主人公によって、日常生活のふとした出来事に謎が「発見」されるか ―― すなわち「謎」をきちんと「謎」として読者の前に示すことができるセンス(チカラ)をもつ登場人物が不可欠になるのだ。
 そのチカラのことを、街角の何気ない風景の中に芸術を超えた「超芸術トマソン」を見出した、赤瀬川源平になぞらえて「謎の観賞力」と呼んでも良いかもしれない。
 偉そうにいうほど過去の作品を読んでいる訳でもないので恐縮だが、初期のミステリにおいてはこのあたりの「物語」と「謎」の区分けが、今に比べて遥かに未分化であったのではないだろうか? ポーの「群衆の人」やあるいはドイルの「赤毛組合」においては(すくなくとも物語の最初では)事件性がなく、ある出来事が探偵役の人物によって「謎」であると認定されて初めて物語が動き始める。いうなれば探偵は「謎」を周囲と違うものとして認識(鑑賞)する役割を果たしているのだ。(単に謎を解くだけでなく、謎を作り出しているともいえる。)
 『エステルハージ博士の事件簿』が戦前の探偵小説を彷彿とさせるというのは、ここらへんに関係がありそうと考えているのだが。

 ミステリを着物の柄に喩えるならば、土台となる物語の枠組みは「地」の部分にあたり、その上に描かれる謎が「図(図柄)」にあたる。「地」と「図(図柄)」の区分がはっきりしない初期のミステリにおいては、おそらく読者の側にも有る種の読解ルールというかテクニックが要求されただろう。しかし時代が移るにつれて技巧も洗練され、やがて誰でも愉しめるエンタテイメントとして確立していった。そんな今のミステリに慣れた読者が同じつもりで『エステルハージ博士の事件簿』を手に取った場合、(1975年という比較的最近の出版にもかかわらず)敢えて擬古調のスタイルをとった本書に戸惑うのは当然だろうし、逆に戦前の探偵小説を愛する読者からは概ね好評と思われるのもうなずける。
 ミステリ界では謎の合理的解決を放棄した小説も、広義のミステリ(「リドルストーリー」)として認められている訳だから、謎の扱い方に焦点をあてればミステリとして読むことは可能だし、謎の中身に焦点をあてればSFや幻想小説の文脈で解釈することも可能となる。もしも読者の判断に混乱が生じたとすれば、その一因は本書の題名を『事件簿』としたことにあるのかも知れない。無理にミステリっぽくせず、原題に忠実に『エステルハージ博士の探求』くらいの方が良かったのかも。

<追記>
 筒井康隆著の『現代語裏辞典』で「痴情」の項には次のように書いてある。
  「ちじょう【痴情】事件さえ起きなければただの恋愛。」
 まさに「事件さえおきなければただの謎」ということだ。(笑)

<追記2>
 仮に『エステルハージ…』の収録作品に関して、先述のように「事件性」と「謎の合理的な解決」の有無で①両方兼ね備えたものを『(狭義の)ミステリ』、②両方とも無いものを『SF/幻想小説』、③どちらかが欠けているものを『奇妙な味の小説』に無理やり割り振ってみる。すると①の『ミステリ』は第2話/第4話/第7話の3つ、②の『SF/幻想小説』は第1話/第3話/第5話/第8話の4つ、そして③の『奇妙な味の小説』は第7話のひとつとなる。とすれば、本書のジャンルが海外でSFに分類されているのも、あながち的外れではないということか。
 これはもちろん機械的に割り振った結果であって、ミステリ的な短編にもSFチックな謎が登場したり、逆にSF/幻想系の短編であっても(合理的ではないにせよ)一応の解決はなされるわけで、だからどうしたと言われればそれまでのことだが。(笑)
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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