『誰も知らない 世界と日本のまちがい』 松岡正剛 春秋社

 「資本主義は理想の社会体制なのか?」「違うとすればどこがまずいのか?」「そしてどこで間違ったのか?」...
 魅力的な疑問を本の頭にもってきて、松岡正剛は例のカッコイイ文体であちこち寄り道をしながらも、その論証を力強く進めていく。しかし、読み進んで最後の一文を読み終えたとき、達成感とともに、何かまだ読み足りないような感じも残っているのに気がつく。正剛の本はいつもそうだ。『山水思想』も『フラジャイル』も、そして『ルナティック』『日本という方法』もすべて。読んでいる途中は抜群に面白く、論旨に引き摺り廻される快感、ジェットコースターのようなわくわく感がある。しかし最後まで読み進んだ時、そこに待っているのはその本のゴールではない。最終的な結論があるような無いような、不思議な読後感にむしろ、「これで終わってしまっていいのか?」とも思える戸惑いが生まれる。この感じを何か別のものに喩えるなら、まるで未完のまま中断してしまった大仏次郎の大河小説『大菩薩峠』や、国枝史郎の伝奇小説『神州纐纈城』に近いのかも知れない。もしくは宮田登の本を読んだ時のように。
 宮田登の著作も、(少なくとも今まで読んだもので判断する限りは、)同様に最終的な着地点がない。彼の場合も、曲がりくねった道をあちこち連れ廻され、その間はとても楽しい思いをするのだが、ページが残り少なくなっていき、最後はどこに行くのかと思ったら突然立ち止まってそのまま。宙ぶらりん。とは言え、今まであげたどの本も途中が抜群に面白いんで、別に不満はないのだけれどね。
 宮田の著作が、本人の意図とは別のところで結果的に着地点がないのに比べ、松岡正剛の場合は、自分でわざと意識して結論出しを避けている節が感じられる。論旨を積み重ねることで主張を形作るという“足し算”ではない。ひとつひとつの論旨は「○○ということがある。」「××ということもある。」といった明確なものではあるが、それらはただ羅列されるだけで、必ずしもつながって意味をなしてはいない。しかしそれらの論旨を補助線として離れた所から眺めると、実は素描のようにある形を作っているということなのかも知れない。(ただ自分には、未だその形がはっきりと見えてはいないのだが...。)これではまるで、著作で述べている「日本という方法」つまり「“主語”ではなく“述語”としての日本」を、著作を記すうえでも自ら実践しているようではないか。これが意識してとっている戦術なのか、それとも無意識のスタイルなのかはこちらの理解力の不足もあって、よく分からないが。
 “引き算”という考え方、結構面白い。ただ、どこまで成功しているかは別。
<追記>
 歴史学の泰斗である、網野善彦の著述スタイルと好対照。網野の場合はまず冒頭で主題および結論(仮説)が提示される。結論はシンプルかつ今までの通説をドラスティックに変えるものであり、とても興味深い。そしてその後は、先述の仮説を論証する作業がこれでもかというくらいに続く。「こんな証拠がある」「こんな証拠もある」「別の角度から見るとこんなものも」と、次々挙げられていく根拠の数は、もしかすると1冊あたり100を超えるのではないか? いい加減いやになることも(笑)。
 一方で松岡の場合、冒頭ではっきり「こんなテーマです」とは言うが、その後は事実の羅列はあっても「こんなことがある」というだけで、「それはこんな証拠です」とは決して言わない。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR