『トランスクリティーク』 柄谷行人 岩波現代文庫

 ベルリンの壁とともにソビエト連邦が瓦解し、世界貿易センタービルが自爆テロとともに崩壊した現代にあって、「経済(産業資本)」、「民族/宗教」、「国家(国際政治)」という3つの主題は、これからの世界の行く末を決定する重要な要因である。地球環境や生物多様性、資源/エネルギーといった、最重要課題の解決もこれらの因子を抜きにして語る事は出来ない。もしも「哲学」や「思想」と呼ばれるものが、人が生きていく上において礎にならんとするのであれば、現代社会が抱えるこれらの問題に光を当てるものでなくてはならない…。
 ―― 柄谷行人がこんなことを本書で言っている訳ではないが、本書が2001年に出版された背景にはきっと、彼のこのような思いがあったに違いない。
 『探求Ⅰ・Ⅱ』における内省を経て『探求Ⅲ』の名で連載された本書が、やがて大幅な加筆修正を経て『トランスクリティーク』として世に出された訳だが、書名まで変わったその理由はテーマが前2作から大幅に変化してきた為。副題に「カントとマルクス」とあるように、コミュニケーションが成立しない“絶対的な他者”との関係を中心に考察した『探求Ⅰ・Ⅱ』と違って、本書では(それらを踏まえてはいるが)カントとマルクスの思想をジャンピングボードにして、資本主義と国家を巡るアポリア(難問)に関して、前著よりも更に踏み込んだ具体的考察と解決案を示そうとしている。それではさっそく内容について。

 著者が行おうとしている事をざっくりと纏めてしまえば次のようになるだろう。すなわちマルクスの『資本論』を批評的に読み解く事で、現代社会の閉塞感というアポリアを解決する手段を得ようと言う事。なお、全体が2部構成になっているが、メインは第2部の「マルクス」であって、第1部の「カント」はマルクス本人の意図を正しく理解するための「理論的な視座」を与えるために書かれたものである。
 それがどんな視座かというと、「A」もしくは「B」という二つの立場のどちらをとるのでもなく、また「どちらでもないというCの立場(=特権的な/隠蔽された第3項)」もとらないこと。すなわち「Aの立場からBを批評的にみるとともにBの立場からAを批評的にみる」という“いったりきたり(=トランスクリティーク)”という立場を戦略的に貫くということである。またカントが『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』といういわゆる“三批評”を書いたとき、彼が示した「超越論的態度」を用いてマルクスの著書を批評的に読み解くことで(*)、マルクスが思想を作り上げたときの問題意識へと遡行し、後世のマルクス主義者たちや思想家たちによって誤解されつづけてきた彼の思想が、現代に通用するものであることを示そうともしている。

   *…あくまでも建設的な意味合いの「批評的」であって「批判的」ではないので注意。

 第1部「カント」では、先述の“三批判”を巡ってカントの哲学的な方法論が論じられる。筆者によれば『純粋理性…』『実践…』『判断力…』はそれぞれ「科学認識」「道徳」「美術」(≒真・善・美)の領域について、それらが持つ特異性と互いの関係性をテーマにしているのだそうだ。それらを論じる際にカントが用いたのは、それまでの哲学が「科学」「道徳」「美学」について考える時に、それらに対して「主観と客観のどちらなのか?」という問いかけしかしてこなかったのに対して、ふたつのどちらか?を問うのではなく、「客観的(論理的)な対象であること」を“疑う”とともに「主観的(感性的)な対象であること」も“疑う”という、“行ったり来たり”の立場を貫くと言う戦略的方法だった。さらに重要なのは、カントの独自性はこの“疑い”そのものを主観性においた点であるということ。―ここらへん、説明が判りにくいがもう少しお付き合い頂きたい。
 (なおここで少し気になったのは、著者が述べるように“疑い”そのものを「主観」だと仮定すると、「“疑う”ことを“疑う”という主観」、さらに「“疑う”ことを“疑う”ことを“疑う”という主観」と言う風に合わせ鏡のような無限後退が出現することにならないのだろうか?ということだ。もっとも、自分が柄谷の論旨を充分に理解できていないが故の誤解なのかも知れないが。)

 話を戻そう。物事を判断する時ということは、「真か偽か(認識的判断)」「善か悪か(道徳的判断)」「快か不快か(美的判断)」という3つの判断を同時にもつことである。科学者の立場というのは、上記のうち「真か偽か(認識的判断)」だけを強調して、残りの二つの判断を取り敢えず括弧に入れてしまうということだ。道徳家や美術家も同様であり、自分の関係するものだけを強調して他の判断は括弧にいれるという立場である。これらのうちどの立場をとるにせよ、選択するにはもっと上位に「意思」のステージが存在しなければならない(はず)。それは「①選択が完全に本人の自由意思によるものだと考える(実践的な)立場」と、「②全ての選択は因果的で決まっていて人間に自由意思など無いという(=理論的な)立場」の二つだ。後者(②)の立場を違う表現に言い換えるとすれば、「一見自由な選択と思われることも、原実は因が充分に判っていないことによる誤解に過ぎない」ということになる。
 カントが主張したのはこの①②のどちらの姿勢が正しいか?ということでなくて、両方の姿勢を同時に持たなくてはいけないという戦略的方法論なのだそうだ。そしてこの“行ったり来たり”こそが本書の題名である「トランスクリティーク」である。(本当にカントがこういったのかどうかは知らない。カントの原著なんてとてもじゃないけど手が出ない。あくまでも柄谷行人が本書でこう説明しているということ。)
 以上、判りにくい表現で恐縮だが、第1部は柄谷の著書には珍しいことだが「読みづらい」ので、どうしても要約も難しくなってしまう。カントの思想そのものに原因があるので止むを得ないのかな?

 ついで本書の主題である第2部「マルクス」について。
 柄谷はベネディト・アンダーソン『想像の共同体』を引き合いに出して、近代国家のもつ圧倒的な侵襲性と強靭さが生みだされる原因を説明する。現代社会が持つ病理の原因が近代国家の特性にあるのは明らかであり、過去から多くの思想家たちが問題を解決するために様々な分析と行ってきたわけだが、著者によればマルクスの『資本論』が問題解決に最も肉迫した思想であるようだ。
 しかし如何せん、マルクスは自らの思索を整理せず体系立てないままに他界してしまった。そしてその遺稿を整理して「マルクス主義」として理論化したエンゲルスは、決定的な部分でマルクスの意図を読み違えており、その後の思想家や活動家たちは誤った(=効果の無い)対策を現代社会に行ってきたのだという。生半可な対抗策では、近代国家の強靭なパワーにからめとられてしまって、吸収/同化されてしまうのが関の山なのだ。
 ではなぜ近代国家がそれほどまでの強さを持つようになったのか? それを明らかにしたのがマルクスだということなのだが、結論を先に言ってしまうと「資本主義」「ネーション(国民・民族)」「ステート(主権としての国家)」という、従来バラバラだった3つの要素が一体化したのが「近代国家」の正体なのだ。3つの要素がお互いに補完しあいながら(**)、“他者”である自分以外の「資本=国民=国家」に対して経済活動を行う。その結果、或いは搾取が発生し或いは紛争が発生する。これは資本が維持される為に必要な“余剰価値”を、他者である共同体同士の取引き(これは“命懸けの飛躍”が前提)に求めなければいけない資本主義の宿命なのだ。
 しかしそれを解決するために(かつての共産主義国家のように)労働者による蜂起と資本家からの生産システムの奪取を行ってみても、結局は資本や国家の担い手が変わるだけであって、構造が変わらない以上同じ苦しみは続く。

  **…毛利元就の「三本の矢」みたいだね。(笑)

 それではどうすれば良いのか? 柄谷によればその解決策は(明文化されていないだけで、「マルクス主義」ではない)マルクス自身の思想に示されているのだとか。
 具体的には、従来の『資本論』解釈でなされてきたように「生産過程」において労働者が資本の解体を行うのでなく(そんなことをしても無駄)、資本への余剰価値の回収が行われる“現場”の「流通過程」に着目する。商品は資本によって生産されただけでは「価値」は生じない。消費者によって購入されるときに初めて「価値」が発生するのだ。(売れなければ単なる無駄な投資に終わる。)消費者がそれらの商品にどれだけの価値を付けてくれるのか? それは異なる共同体間の価値の違いに起因している。異なる共同体(=価値を共有しない他者)との取引きによって資本の維持が成り立つ以上、資本と一体化しているネーション(国民)やステート(国家)がナショナリズムを強調する方向に進むのは、必然的であるといえる。
 かといって他の「資本=ネーション=ステート」からの外力によってある資本の矛盾を解決しようとしても、一体化したネーション=ステートによって抵抗/排除されるのがおちである。かくして今日の資本主義は国際社会全体を巻き込み、貧困と共同体同士の格差を増幅しているのだ。
 これに対抗するには、外部からではなく資本制経済の内部においてあくまでも「合法的に」新たな流通過程の仕組みを作り上げる必要があると柄谷は主張する。しかもその流通過程は資本の基になる「貨幣」に頼ることなく実現されなければいけない。(でないと結局は今の資本に変わる新たな地位を占めるだけに終わってしまい、今の「資本=ネーション=ステート」の構図から何ら変わりがない。)

 どうすればそのような仕組みが実現できるのか? ここでも「トランスクリティーク」の方法がカギになるという。経済活動の本質は付加価値を付けた商品と貨幣を「交換」することにあるが、それ以外にも「交換」の方法は3つある。ひとつはマルセル・モースが明らかにした「贈与」のシステムであり、次に封建性社会における領主による「収奪と再分配」。そして最後のひとつが「アソシエーション」とよばれるもの。この「アソシエーション」こそが「資本=ネーション=ステート」の三位一体に対して唯一、トランスクリティカルな対抗手段と成り得る可能性を秘めている。
 既存の貨幣に頼らない新しいクレジットシステムのようなものを立ち上げ、それに基づいて剰余価値を生まない自主的な流通システムを作る事。現在の生活協同組合のような既存の(国家の)社会システムによらず、ネーションやステートのくびきから完全に切り離された組合的な仕組みを作る事。それを柄谷は「アソシエーション」による解決法と呼ぶ。理想は1871年のパリにおいて、蜂起した革命政府により一瞬だけ成立した、奇跡のような「パリ・コンミューン」。最後の章では実現の方法について、あれこれと柄谷自身が考えた具体策を提案している。

 実は最後の章に関しては少し異論がある。近代国家に対抗するには「アソシエーション」による交換を推し進め、内部から無効化してしまう以外に今のところ良い方法が無い、という主張には一応納得できる。またそのためには生産過程でなく流通過程に着目して、余剰価値を無くすことで資本のサイクルを断ち切る、という戦術も理解できる。問題なのはそれがどれほど大変なことなのか、肌身に感じてはいなのではないか?ということだ。自分の経験からすれば、これはあくまでもアタマによって導き出された机上の推論に過ぎない。泥臭い部分を実体験として判っているものでなければ、実行は難しいはず。ここに書かれている方法論は、あまりにも美しすぎる感じがする。
 ぶっちゃけて言えば、おそらく著者は消費者の欲動の恐るべき深さと強さを実感できていないのだと思う。消費行動は心の奥底のドロドロした部分と直結しており、理性で判断して物を買おうとする人間などほんの一握りに過ぎない。またボードリヤールが『消費社会の神話と構造』などで分析したように、消費社会においては消費者の購買への欲動を煽りたてる産業資本や広告・マスコミなどがひしめいている。彼らは「扇動して買わせるプロ」であり、圧倒的に素人であるアソシエーションの活動など、彼らがその気になればひねりつぶしてしまうことなど簡単である。
 誤解が無いように補足しておくが、自分は何も柄谷の思索を根本から否定している訳ではない。分析やそこから導かれる帰結には納得はしている。ただ現実の企業活動に関する知識不足や実現法に関する“ワキの甘さ”が、現代資本や経済に学術側からアプローチする際の限界なのかもしれないとフト思っただけ。
 あとがきで本人も自覚しているように、まだまだ発展途上の理論であり、だからこそ大きな可能性はあると思う。これからさらに深耕されて「強い(実行力を伴なった)」理論になることを期待したい。続篇である『世界史の構造』(岩波書店)を読もうか読むまいか、迷うところだなあ。

<追記>
 実はこの本は文庫で出たばかりの時、買おうか買うまいか迷って、結局買わずに置いた一冊だった。そのままいけば読まずに終わった可能性もある。急に気が変わった理由は竹田青嗣『人間的自由の条件』が出版されたことにある。竹田ファンなので即買いして速攻で読もうとページを開いたところ、冒頭に大きく「トランスクリティークのアポリア」と書かれており、(柄谷の問題意識は認めた上で、)本書の主張に対する批判を述べたいという竹田の言葉が書かれていた。なので『人間的自由の条件』を充分に愉しむためには、先に『トランスクリティーク』を読んだ方が良さそうと判断したわけ。
 ということで、これでやっと『人間的…』を読む準備が整った訳だが、まだ問題がひとつある。今回『トランス…』の内容についてかなり乱暴に要約してみたが、もしかすると半分くらいしか理解できてないんじゃないか?という心配が頭から離れないのだ。“お気らく読書”の立場としては別に問題はないのだけど、問題なのは竹田による『トランスクリティーク』の批判が理解できるか?という点。
 もしかすると、むちゃくちゃ強い格闘家同士がリングの上で戦うのを、遠くから眺めている観客のようになりそう。更にひどいのは自分がレフェリーをしなくちゃいけないわけで、どっちが勝ったかすら判断付かないんじゃないかという…(笑)

<追記2>
 おちゃらけついでに小ネタをひとつ。『資本論』の論旨に倣い、「読書」について考えてみた。
【資本論による説明】
 「資本」の本質は自己増殖する“貨幣”である。生産した商品が買われるかどうかは「命がけの飛躍」が前提となる。実際には商品が売れると仮定して、ある程度の見込みで作り続けるわけであり、それが「信用」というもの。「信用」は「売買」の関係を「債権者と債務者」の関係に変えてしまう。売れるかどうかという危機は余剰価値が生めるかどうかの危機に転化し、やがて過熱した「信用」による取引は「恐慌」という形で清算される。
 ⇒これを読書に当てはめてみると…
 「読書」の本質は自己増殖する“蔵書”である。買った本が読めるかどうかは「命がけの飛躍」が前提となる。実際には蔵書が読めると仮定して、ある程度の見込みで買い続けるわけであり、それが「(自分に対する)信用」。「信用」は「読むから買う」の関係を「買ったから(仕方なく)読む」の関係に変えてしまう。読めるかどうかという危機は(部屋に)置けるかどうかという危機に転化し、やがて「ブックオフ」という形で清算される。

 お粗末さまでした。
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