『アポトーシスの科学』 山田武/大山ハルミ 講談社ブルーバックス

 研究者が書いた、(一応)一般読者向けの「アポトーシス(細胞自滅)」の発生メカニズムの解説書。専門家による科学解説書にありがちなパターンで、読者の知識レベルの想定がうまくできておらず、やたら専門用語や細かい記述が多いのはご愛敬。どのような手順で生体内においてアポトーシスが進んでいくのか大変詳しく書かれているが、あくまでも科学的な事実関係の記載が中心で個人的な思索や推論はほとんど述べられていない。それはそれで構わないのだが、刊行されてから少し時間が経ってしまっているので、できれば最新成果を盛り込んだ改訂版をだしてもらいたいところ。(しかし主執筆者が既に亡くなっているので叶わない夢だ。)

 「サイトカイン」と呼ばれる糖たんぱく質の一群がある。「ホルモン」と似ているが内分泌腺のような特定の臓器で作られるわけではなくて、全身に分布するリンパ球やマクロファージ、繊維芽細胞などで作られるものらしい。生理活性物質として免疫/造血/内分泌/神経などの各種系統に微量で作用し、細胞が増殖や分化するのを制御する。「サイトカイン」には何種類もあるようだが、ひとつで複数の機能をもったり、逆に複数のものがが同じ作用を起こすなど、複雑な相互作用をしている。サイトカインの過剰供給や欠乏は、細胞に対するアポトーシス(自滅)の起動シグナルとなり、信号を受けた細胞はやがて自壊して周りの細胞に吸収されてしまう。
 外傷や毒によって細胞が損傷を受けた結果によって起きる「ネクローシス(壊死)」とは違い、アポトーシスは炎症や痛みを伴わないのが特徴。(知らなかった!)つまり「プログラム化された」細胞死なのだ。
 語源はギリシア語に由来していて、「apo(離れて)」と「ptosis(落ちる)」の合成語。木の葉や花びらがハラハラと散発的に落ちる様子から名づけられた。厳密には細胞が死ぬプロセスも両者ではかなり違っていて、比較すると以下のようになる。

            ネクローシス(壊死) /  アポトーシス(自滅)
  1)プロセス開始     細胞質から    ⇔    細胞核から
  2)サイズ        膨大化      ⇔    凝縮化
  3)反応スピード     ゆっくり     ⇔    急激

 ぱっと見では「老化」と同じメカニズムを早回しでやっているような気もするが、専門家じゃないので良く分からない。(なんせ出てくる化学物質名も全く聞いたことないものばかり/笑) 損傷を受けて変異したり癌化してしまった細胞を排除/自滅させる仕組みと言う点では、少なくとも目的は同じような気がする。直観的には安楽死に近いのかな?

 白血球は自分の命と引き換えに異物を排除するわけだし、ミツバチや兵隊アリなどの高度な生物においても、自らを犠牲にして外的から巣を守ろうとする。アンコウのオスに至ってはメスの体に吸収合併されて痕跡しか残らない。自然界には「全ての命はかけがえが無く平等である」という考えがそもそも存在しないようだ。もっと大きなモノに使えるのが当たり前ということなのかな? もっとも人間だって建前こそ「平等」だがやっていることは全然違うが。(苦笑) 
 ――とまあ、以上がこの本を読んでの直接の感想だが、ここから先はちょっと哲学的なお題になる。本書に刺激されて頭に浮かんできた与太話としてもう少しお付き合い頂けるとありがたい。

 以前にも触れたことがあるが、H・マトゥラーナとF・バレーラが書いた『知恵の樹』(ちくま学芸文庫)という本がある。その中に出てくる重要な概念が「オートポイエーシス(自己創出)」というもの。どんなものかと言うと「生物を無生物から隔てている違い」とでもいえばいいかな。彼らによれば、次のふたつの特性を併せ持つものが生物なのだそうだ。
  ■自分の複製を作る。
  ■外部環境に応じて自分を最適化するとともに、周囲にも働きかけて変化させる。

 このアイデア(概念)の良いところとしては、単細胞に限らず多細胞生物はおろか人間などの高等生物までひとつの理論で説明が可能な点。それどころか著者らは強引にも「社会システム」の成り立ちまでも「オートポイエーシス理論」で説明し尽くしてしまう。この『知恵の樹』を踏まえて「アフォーダンス理論」や「ソマティック・マーカー仮説」などを読み継いできたのだが、本書に至って頭の中に「ハテナ?」が沢山浮かんできてしまった。それは「オートポイエーシス理論」の立場からすれば「アポトーシス」はどのように説明を付けるべきか?ということだ。「オートポイエーシス理論」に倣って対象を社会レベルまで広げた場合、「人体にとっての細胞自滅」と「社会にとっての死刑制度」を同じ次元で考えざるを得なくなるが、その場合「倫理」は一体どうなってしまうのだろうか?

 たとえばオートポイエーシスに倣って社会を大きな生物体に見立てると、国家によって執行される死刑とは、社会全体からみればアポトーシスにあたると言えるだろう。逆に体内細胞にとっては、アポトーシス(自滅)といえどもネクローシス(壊死)と同様に、外部からの理不尽な干渉によって強制された死、つまり死刑みたいなものとも言える。(それとも自爆テロのように英雄的な自己犠牲の一種だったりして。) 
 死刑の是非を問うにあたっては、判断基準を「細胞」でもなく「社会」でもなく、やはりその中間の「個人」におくべきだと思う。そうなると目指すべき水準はどこに設定すべきだろうか。「最大多数の最大幸福」などという多数決で一部が切り捨てられる世界ではなく、やっぱり「全ての生存に意味がある」世界ということになるのだろうか。(自然界ではそういった判断を超越したところで黙々と命が消えている訳だが…。)
難しすぎて正直よく分からない。

 少なくともオーウェル『1984年』のビッグブラザーが正しくないことは確かだ。ましてやビッグブラザーのふりをして自分の個人的な判断や好みを押し付ける、どこかの国の独裁者なんかも断じて違うということくらいは判る。しかしそれより細かい点になると、結局のところ自己了解の問題でしかなくなってくる気がする。自分が生きる上で必須の条件は自分が決めるしかない。自分が生きていく為には社会で守られることが必須と思う人であれば、社会の存続を第一優先に望むので国家による管理を受け入れるだろうし、社会の抑圧を強く感じる人であれば、極力個人(*)の生存を優先するだろうし。(このふたつの考えは絶対に相容れないな。)
 ちなみに国家の考え方としては、戦時下の日本や共産系国家はおおむね前者を優先していて、欧米系の資本主義社会は(すくなくとも建前上は)後者の立場をとっていると言える。

   *…あくまで一般通念としての個人のこと。「自分(あなた)自身」という、
     この世にひとりしかいない特別な存在のことではない。

 「正しい/正しくない」は論じる人の立場によってコロコロ変わる。絶対の真理というものが存在しないのと同じ。立場が違えば共通の議論の土台はなく、例えば「5cmと10cmのヒモではどちらの方が“青い”か?」みたいに、意味のない問題設定となる。…実存/存在/個人などどんな言葉で呼ぼうと構わないが、要するに「人間」に対する基準を、そのまま次元が違う社会に当て嵌めようとするから、こんなややこしい話になる。その意味では『知恵の樹』は最終章でちょっと話を飛躍させ過ぎたかも。

<追記>
 「社会VS個人」の関係について、思考実験をもう少しだけ続けてみる。
 癌細胞のように周囲の細胞に害を及ぼす部位が体内にできたら、人体の存続という立場から考えると癌細胞には気の毒だが死んでもらうしかない。でも癌細胞の立場にしてみれば、一方的に死刑判決を下されるのは納得できないだろう。逆に人体にしてみれば、更生の可能性が無いと判断された細胞には一刻も早く死んでもらうしかないといえる。
 癌細胞のように害を及ぼすものならまだ判りやすいが、「役に立たない」という基準で社会から差別や排除されるもの達もいる(たとえばある種の障碍者など)。人体に喩えるならホクロとかが、「邪魔だから削除」といわれたらどうか? そう考えると、美容整形と是とするか否とするかってことも、正義や倫理を考える上でのアナロジーとして面白い。ちょっと不謹慎と言われてしまうかもしれないが、死刑や捕鯨の是非などの社会問題も、結局はどの立場にたつか?ということだけであって、最終的には個人の趣味・嗜好になってしまう話なのかも?

 今回はテーマが大きすぎて、話が最後にとっ散らかってしまったがどうかご勘弁を。(笑)
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