『定本 想像の共同体』 ベネディクト・アンダーソン 書籍工房早山

 注:のっけからで恐縮だが、今回は今まででいちばん長いので覚悟して頂きたい。(笑)

 現代の国際社会で様々な軋轢の原因となりつつも、人々をひとつに結びつける心の拠り所にもなる「ナショナリズム(国民主義)」というものがある。本書は、この厄介かつ不可思議な概念がどのようにして生まれ広がっていったかについて探求し、その後のナショナリズム研究の先駆けとなった政治学の新古典的な一冊。「ナショナリズム」についての著者の姿勢が冒頭で端的に表されているのでまずは紹介しよう。

 「国民はイメージとして心の中に想像されたものである。(中略)たとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は常に水平的な深い同士愛として心に思い描かれる。そして、この限られた想像力のために、過去2世紀にわたり数千、数百万の人々が、殺し合い、あるいはみずからすすんで死んでいったのである。」

 よいイメージとしてはオリンピックやサッカーW杯における盛り上がりが頭に浮かぶし、悪いイメージとしては世界各地で勃発する民族紛争やテロなどが思いだされる。日本においても右翼の街宣車や靖国参拝、東アジアにおける反日運動などキナ臭い話題には事欠かない。一方で大晦日の除夜の鐘や唱歌「故郷」の「♪ウサギ追いし かの山、コブナ釣りし かの川」というフレーズを聞くと「日本人でよかった」という気にもなる。韓国語における「ウリ(=我々)」という言葉がもつ概念に近いと思うが、「日本国民」というのも時と場合によって適用範囲が自由にかわる伸縮自在な概念といえる。
 うっとうしくも懐かしくもある、このアンビバレントな感覚は何なのだろうと前から不思議で仕方が無かったのだが、本書を読んでストンと腑に落ちた。ロールプレイングゲームで喩えるなら、まるで「○○○はレベルがあがった。“ナショナリズム”の呪文をおぼえた!」というくらいの感じ。(笑) キチンと理解できているかの復習も兼ねて、以下にまとめていこう。

 ナショナリズムの正体とは何か、それは次の言葉を引用すれば充分だろう。
  「ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではない。ナショナリズムはもともと存在していないところに国民を“発明”することだ。」(byゲルナー)
 ひとつの共同体として想像される「国民」という概念は、実は18世紀末になって初めて“発明”されたものだという。そんな新しい概念がなぜこれほど急速に世界各地に広まり、定着することができたのか? その理由はナショナリズムがもっている特徴にある。いずれの国においても、(たとえ建国から日が浅い国家であっても、)当事者は遥かな過去からの連続性を強調し「○○国民」としての正統性を主張するからなのだそうだ。
ではなぜこぞって連続性を主張しようとするのか? 
 著者の考えによれば、18世紀に登場した科学や新たな哲学・思想によって、それまで数百年に亘って心の拠り所になってきた人々の宗教感が揺らいだのが発端だという。そのため、人が生きる上で避けて通れない、病/悲しみ/老い/死などの“生の苦しみ”を受け止めてきた仕組みが崩壊してしまった。それに代わるものを求めた結果、死者や過去との連続性をもたせることで自らの生に意味を持たせる手段として、あらたに「ナショナリティ(国民としての帰属意識)」や「ナショナリズム(国民主義)」という概念が18世紀末に発明されたというわけ。ナショナリティが自らの正統性を過去の価値観に求めようとしても、古くからのそれは既に断絶してしまっているので不可能である。とすれば、正統性を主張するためには遥かな過去からの連続性を"捏造“するしかない。(このあたりの論理は、クーンが科学史の研究を通じて「パラダイム」に見出した特徴と全く同じなので納得できる。)
 34ページに良い例があげられている。
 「わたしがフランス人に生まれたのは全くの偶然である。されどフランスは不滅である。」
                                   (byドブレ)
  ―― フランスなんて国が出来たのはそんなに昔じゃないんだけどねえ。

 以上がナショナリズムが生まれた「Why(なぜ?)」の部分。次に挙げられているのが
「How(どのように?)」についての分析。
 著者は世界各地の事例を詳細に検証して、ナショナリティが何を核として生み出されていくのか検討していった。その結果、その始まりには大まかな幾つかの流れがあることに気付いた。
 まず世界で最初にナショナリズムが発生したのは南米であるということ。その影響を受けて次にヨーロッパにおいて、南米とは違う型のナショナリズムが発生したのだということ。そしてヨーロッパでおこった「ナショナリズム」という“考え方”は、列強諸国のアジア進出によって東アジア地域にも浸透し、ついで第2次世界大戦後にはアフリカや中東地域において、植民地からの独立の為に利用されて現在に至ったということ。
 これらの流れを頭に置いた上で、幾つかあるナショナリズムの型を知れば、現在の国際社会を理解する足がかりは出来たと言える。

 「ナショナリティ」とは、ある規模をもった集団が自分たちの団結を促すために作り上げた思想的な枠組みである。団結が必要になる背景は色々あるだろうが、いずれにせよ外部からの弾圧によって集団に危機が迫っていると意識されたときが、ナショナリティが生まれるきっかけとなる。著者によれば危機意識をどの階級が持ったかによって2つのパターンが考えられる。ひとつ目は独立運動の際などに民衆運動として下から盛り上がる「民衆ナショナリズム」と呼ばれるもの。もうひとつは政府が上から大衆のナショナリズムを煽る「公定ナショナリズム」である。ラテンアメリカ諸国がスペインから独立したケースは「民衆ナショナリズム」と考えて良いだろう。後者の例としては、日本の明治政府が推し進めた富国強兵策や臣民教育などが考えられる。これら「公定ナショナリズム」は、やがて帝国主義への端緒をひらくことになるものといえる。
 ちなみにコロンビアとかチリなどの国境線は、スペイン統治時代には単なる行政上の区分に過ぎなかったのだそうだ。ではなぜそれぞれの地域が強固な「国」という意識にまとまったのか? その経緯をみることがナショナリズム発生の秘密をとくカギになる。

 スペイン統治時代においては、現地の支配者層であった「クレオール(=植民地生まれの白人)たち」は、母国から赴任してくる者たちに対しては一段劣った存在として扱われていた。母国からみると「現地生まれ」という感覚が強く、行政組織上の待遇面でも差別されていたという。長年に亘るこれらの不満や母国に対する劣等感がやがて本国に搾取されているという認識へと変わり、怒りが飽和点を超えて遂に「独立国家」という選択がなされた。その時に怒りを「結晶化」する上で核に利用出来そうなものがあれば、それは何でもよかったのだ。それが単なる行政上の区分であっても、身近に利用できる手ごろなものをみつけてあれこれ理由を付けて団結心を煽る。それがクレオール達を中心に進められた母国からの独立運動のエンジンとなっていった。
 ナショナリズムというものは、いちど出来あがってしまえば自己強化を図ることになる。国際社会において他の国家に主権を行使する権利を持つのが「国家」という存在なのだとすれば、「国家」は(自己保存のために)経済的な利害や自由主義といった衣をまとって急速に形をなし、「自国民」というイデオローグで観念の自己再生産・強化を図ろうとする。その結果、ナショナリズムが定着していくことになる。
 また当時の中南米地域で新興出版業者が始めた「新聞」という新しいビジネスも、同じ言語・同じ地域の人々に共同体のイメージを植え付けるのに一役かったそうだ。(これについては少し補足が必要だろう。)
 グーテンベルグによって始まった西洋の出版業は、18世紀になって「小説」という新たなビジネスを見つけたことで、図らずも人々の啓蒙を果たすことになったのだという。
 「小説」という表現形態は従来の神話や説話とは違い、複数の人物の状況を同時進行で表現することでストーリーを進めていく。著者によれば、これにより「自分以外の人々の行動が今この瞬間にも同時進行で存在している」という考え方が広く社会に浸透したのだそうだ。自分が会ったこともない人を「同胞」として意識する土壌ができたこと。同じ言語を喋る人々がある規模で生まれ、自覚されたということ。このように抽象的な観念上の存在を「仲間」として意識できる土壌が完成した時、伸縮自在の適用範囲をもってある特定集団への帰属意識が生まれたといっても過言ではない。
 以上が南米におけるナショナリズム台頭の大まかな内容。続いてはヨーロッパにおけるナショナリズムの動きについて。

 ヨーロッパにおいても、出版によって地域ごとバラバラだった言語が整理され、ある規模で同じ言語を理解する人々が生まれ、会ったこともない人々を「同胞」とする意識されたという背景は、前述のラテンアメリカ地域と同じであった。しかしそこから先は少し違った動きを示していく。
 出版による啓蒙が進むにつれて、昔から知識(インテリ)層の共通語であったヘブライ語/ラテン語/ギリシャ語といった古代から伝わる言語の聖性や優位性は徐々に失われていった。またそれに伴って大学などの教育機関を中心にしてフランス語/ドイツ語/チェコ語など、土着の“卑俗”な言葉の重要性が増していった。こうして言語または文化・風習などによって区分された「民族」という概念が集団の核として取り入れられていった。ちなみにこの時代に勃興した国民音楽(ドボルザーク、スメタナ、バルトークなど)の考え方も、同じ視点で括れるとのこと。これらの「国民運動」を中心になって推進したのは当時の中産階級/ブルジョアジーであり、運動は出版やジャーナリズムを通じて徐々に社会意識として浸透していった。
 さてこうして19世紀半ばからヨーロッパに発生したのは「民衆ナショナリズム」であったのだが、そこから排除されそうになった旧支配者層/貴族らは、あわてて応戦を始めた。「我々の民族的なアイデンティティの危機」とか何とかいって様々なプロパガンダを駆使して国民を煽り、自分達に都合のよい体制を維持しようと画策した。それが「公定ナショナリズム」の始まりとなったということらしい。(「民衆ナショナリズム」を装って仕掛けたあざといやり口だな、これは。)

 ともかくこうして様々な経緯で生まれたナショナリズムのモデルはその後、アジアやアフリカなどで模倣されて複雑に入り乱れ影響を与えあい、やがて国際連盟ができるころには、民衆ナショナリズム/公定ナショナリズムを問わず、ともかく「国民国家(ネーション・ステートNation State)」が正統的な国際規範として定着して現在に至っている。なお集団を団結させるために最初の核になる概念はどんなものでも良く、言語や文化・風習以外にも「共産主義」などの「思想」やイスラム教といった「宗教」など様々なものが借用されているが、いずれにおいても、国家成立後は“過去からの連続性”を主張することによって、自分たちの国がその地域において永遠不滅の価値をもつことを述べている点では変わりはない。その地域にあった過去の「国家」とは全く関連が無いにもかかわらず(*)である。なお、これは「わが国・日本」においても同じことが言える。

   *…実はこれを維持・強化するのに重要な役割を果たした学問がある。それは19世紀
     初めに生まれた「歴史学」というもの。また当時発達した人口調査(=国民の
     特定)/地図(=国境線の策定)/博物館(=文化の線引き)といった仕組みも、
     過去から現在までをひとつの歴史解釈で連続させる動きを加速させた。

 以上が「How(どのように?)」についての概観。このあとは、ナショナリズムのために人が自らの命を進んでなげだそうとする「自己犠牲」の理由について述べる。
 なぜ「自己犠牲」がおこるのか? 簡潔に言えばそれは、ナショナリズムが人々を鼓舞しようとするとき、イマジネーションの源泉を人々が日常使う「言語」や「歴史的宿命性(=肌の色や出自、生まれついた地域や時代などそこに集いし人の同時代性など)」に求めるからなのだそうだ。
 誰しも自分の生まれる国を選んで生まれてくる訳ではない。そして自ら選んだものではない対象(自分が所属する国あるいは集団)のために自らの命を投げ出すということは、逆に「道義的な崇高さ」を帯びることになる。― これってイスラム原理主義者の自爆テロにも共通する認識だとおもう。フランス国歌の『ラ・マルセイエーズ』やアメリカ海兵隊の『星条旗よ永遠なれ』なんかを聞くのも同じで、「ああ、この素晴らしい国を守らなきゃ」という気持ちが高まってくるんだろうね。

 考えてみれば人間とは「言語」「人種」「地域」など色々な因子が入り混じって成り立っているのであって、単純に線引きなんて出来るものではない。そこに「国民」という人工的な線を引こうとする訳だから、絶対的なものに成りえないのはハナから明らかだ。文化や風習には愛着がありつつ、国体や政治体制に不満を持つ人がいたって何ら不思議ではない。大晦日に除夜の鐘を聞いて「日本人で良かったなあ」と思うのと、「もしも外国から攻めてこられたら銃を持って日本という国を守るか」とかいう議論は全く次元が違う話だと思うのだ。だけど「日本国民としてのアイデンティティ」という観点では同列に語られてしまうんだよなあ。なんか釈然としない。
 竹田青嗣が『人間の未来』(ちくま新書)で述べているように、弱肉強食の非情な世界になるのを防ぐためには、人間は(ホッブスの『リヴァイアサン』のように)お互いの主権をどこかに預けるしかない。「国民」が自らの主権を一時的に預ける先が「国家」と呼ばれる集合体である。だからこそ国家はルールを破った人間に対して死刑を執行する根拠をもつ、というのが近代国家の考え方だ。しかし国際社会においては、現在のところ相変わらず弱肉強食の野生のルールが適用されたままである。国際連合は主権をもった国同士が話し合う場であって、(ルールを守らない国に対して“国連軍”の名のもとに武力制圧を行う場合もあるが、)基本的には強制力を持つものではない。せいぜいが子供の社会のように「仲間はずれ」にしたり「皆で文句を言う」のが精いっぱいであろう。
 動物学的に考えれば、人間が集団行動をするのはおそらく自然な習性なのだと思うし、集団になることで個人で実現できない事もできるなど計り知れないメリットがあるのも事実。その意味ではナショナリズムという概念を発明したことは、近代社会のひとつの成果であるといっても良いかもしれない。しかしナショナリズムが県民性やお国自慢、学校自慢などと同じ水準で語られる限りにおいては問題は無いが、こんな不完全な国際社会において「民族」だとか「宗教」だとかの名を借りて極端な形で出てくるのはまずいと思うのだ。
 自分達の価値を守るための手段が、いつの間にか他の集団を排除する為の基準に利用される ――所詮「道具」のひとつに過ぎないナショナリズムが正統性を主張し始めるとしたら、そんな道具は無い方が幸せなのかもしれない。ジョン・レノンじゃないけど「国なんてない、そのために殺したり死んだりする必要なんてない」とか言いたくなってしまう。(ちょっと気恥ずかしいけど。) しかし「みんな同じ地球の生命体」という価値観を持つ人の中にも、捕鯨船に体当たりしてくるようなルール無視の輩もいるわけだし、結局のところ大事なのは多様性を認めるというか、自分の主張が唯一絶対的なものじゃないってことを常に自覚しておくことなのだと思う。誰だっけか、「君の言うことには全く賛同できないが、君がそれを主張できる環境は自分の命を賭けてでも全力で守る。」とか言った人がいたらしい。(それを言ったのが誰でどんな文脈だったのかは、すっかり忘れてしまったけど。)これっていちばん大事な事だ。正義を振りかざして相手を否定してかかるやつに昔からろくなヤツはいない。ブッシュとかね。(笑)

<追記>
 最後にちょっと感激したエピソードをひとつ。
 本書が初めて出版されたのは1987年で、今は無きリブロポートという出版社からだった。リブロポートといえばセゾングループの文化事業の中核をなしていた良心的な会社で、「儲けなくても良いから良い本を」というポリシーは今や伝説と化しているほど。事業としては書店部門のリブロとセットになっていて、ネオアカデミズムのブームを仕掛けた時の思い出などは、田口久美子『書店風雲録』(ちくま文庫)でも懐かしく紹介されている。
 ところで本書の出版社は「有限会社 書籍工房早山」という今まで聞いたことのない出版社。なぜこんな出版社(失礼)がナショナリズム研究の古典的名著といわれる本書を扱えたのかとても疑問だった。リブロポート版が絶版になってからは“増補版”がNTT出版から出されているが、本書は更にその後に出た“定本”(=決定版)である。初版あとがきも併録されているので何気なく読んでいたら、本書が初めて日本に紹介された経緯とともに「リブロポートの編集者・早山隆邦氏」に対する謝辞が書いてあった。あれっと思って本書の奥付をみてみると、出版者がズバリその「早山隆邦」ではないか。つまりはリブロポート時代に手掛けた「良い本」が絶版になったのを惜しみ、自分で出版社を興して再刊したというわけなのだろう。ベネディクト・アンダーソンの同僚でもあった訳者の白石隆・さや両氏と、早山氏の交流の様子が目に浮かぶようだ。
 昨今は出版不況と絡めて電子書籍化の話題が多く取り上げられるが、これこそ業界が死守すべき「出版文化」なのではなかろうか。本書がこれまで辿ってきた長い道のりを考えた時、(アンダースンの『想像の共同体』という著作だけでなく)この『定本 想像の共同体』という書籍自体が好ましいものに思えてきた。
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