『デカルトの誤り』 アントニオ・R・ダマジオ ちくま学芸文庫

 元は2000年に講談社から『生存する脳』という題名で出版された本。今回、原著どおりの題名になって復刊されたようだが、前よりも今の名前の方が良いと思う。(副題は「情動、理性、人間の脳」という。)中身がどんなものかと言うと、「心と脳」や「心と身体」の関係についての新しい仮説の内容と、その仮説に至るまでの経緯が詳細に述べられている。ちなみにそれらは、事故により脳を損傷した患者の記録を分析することで得られたものである。
 もっとも、先ほど題名を褒めはしたが、最初にこの本のことを知った時は『方法序説』か何かをネタにした哲学・思想系の本だとおもって、正直なところ食指が動かなかった。「いまさらデカルトねえ…」という感じ。でも内容を知って本屋に買いに走る時には逆に「なんてオシャレな題名!」と思ったのだから、なんていい加減な。(笑)
 ところで本書で指摘された「誤り」とは一体何のことか? 本の中では何故かだいぶ後ろの方になってやっと説明されるのだが、もったいぶらずに先に言ってしまおう。それは「心身二元論(*)」のことである。

   *…人間の「自意識」を「肉体」とは別のものと定義づけた考え方。脳というハード
     ウェア上で走る意識というソフトウェアといった概念や、身体をコントーロルする
     中央制御装置として脳を位置づける考え方は、全てこの「心身二元論」の範疇に
     含まれる。

 心と脳は分離していない。脳というハードウェアの上で心というソフトウェアが走っている訳ではない。それどころか心の働きは、身体性と切り離して考えることは出来ないひと続きのものである。 ――デカルト以来西洋で認識論の礎となってきた「心身二元論」、つまり身体と切り離された司令塔である「私」というものが存在するとした前提は、全くの誤りである! という著者ダマシオの強い思いが込められているのが、つまりこの『デカルトの誤り』という題名ということ。

 著者の仮説が生み出されるに至った事故というのは、火薬による爆破作業の失敗によって鉄パイプが左頬から頭頂に向けて突き抜けるという悲惨なものだった。被害者の前頭葉の多くは失われてしまったが、生命維持を司る脳の部位は幸いにも無事だったので、奇跡的に命だけは取り留めることが出来た。しかしキズが治ったあと本人の人格は一変してしまい、まともな社会生活は送れなくなった。この事例を詳細に分析していくことで、著者は新しい知見(「ソマティックマーカー仮説」というもの)に至ることになる。

 事故や腫瘍によって脳の両半球の前頭前野(特に「腹内側部」と呼ばれる右脳と左脳の間の溝の内側)に損傷が加えられると、推論と意思決定のプロセスや情動/感情の関係に障害が起こるらしい。その結果どうなるかというと、感情の起伏が平たんになって計画性が全く失われてしまい、周囲とのコミュニケーションや買い物に行くなどの日常生活にも支障がでてしまう。(この症状は先程の事例だけでなく、その他の事例によっても検証されている事実とのこと。)
 感情面以外の知的な活動、すなわち記憶/言語/運動能力/知力などには全く低下が見られず、医師による様々なテストをしてもいたって正常。しかし周囲の人間に対して思慮を欠いて場所をわきまえない下品な発言を繰り返したり、行き当たりばったりの無計画な行動で何度も同じような失敗を繰り返すため、まともな生活はおくれない。これが前頭前野を失った人間に共通する症状らしい。
 これらの症状について詳しく説明された後は、その原因分析からの推測によって著者らが仮説を生み出した経緯や、それを検証していく過程が細かく示される。ただそのくだりはちょっと冗長なので一気に飛ばして、最終的な結論だけを以下にまとめてみる。著者によれば、外部環境に合わせてその都度、人間(動物)が知的判断を下すのはおおよそ次のような手順によるのだという。

 ステップ1:外からの刺激が体表や目・耳・鼻などの知覚器官からの情報として脳に送ら
       れる。(例=初めての道を歩いていたら大きな犬がいるのが見えた)
       注)身体の感覚器官は結構インテリジェントであって、様々な情報はある
         程度は先に整理/取捨選択された上で脳に送られる。
 ステップ2:脳はそれらの情報に基づいて①感情の想起(例=犬は怖い)、②判断(例=
       犬から離れた方が良い)、③更に高度な判断(例=道の反対側は工事で通れ
       ないので引き返す)などを行う。
 ステップ3:脳による新たな情報が身体にフィードバックされる。(例=怖さを感じて血圧
       が上がり、呼吸が激しくなる) 身体はこの状態を維持することで、脳が外的
       要因(例=あの道には犬がいる)に対してその人の“内的イメージ”を作り
       あげることを促す。それによって、ある特定の外部状況と感情がセットで記憶
       されることになる。これが「ソマティックマーカー」すなわち「身体的なマー
       キング機構」とでもいうべきダマシオの発見である。
 ステップ4:次に同じような環境に出くわした時には(例=同じ道を通る)、脳と身体が
       互いに以前の記憶をフィードバックし合うことで、血圧や呼吸が上がったり、
       ある種の感情(例=あの道は通りたくない)が瞬時に起こって考慮すべき行動
       の選択肢を大幅に減らせ、その結果、絞り込まれた数の問題について合理的な
       判断を脳が下すことが出来る。

 補足:上記の“内的イメージ”が役立っているのは過去の記憶の想起だけではない。
    誰しも未来の活動計画を立てるには頭の中で「ある行動をしている自分の姿を仮想/
    イメージ」しているはずだ。脳の活動においてこれらのイメージ化は、過去の記憶を
    頭の中で反芻している状態と変わりがない。何故ならどちらもリアルタイムで感覚器
    から入力されている信号ではなく、脳が自ら作り出した“内的イメージ”であるから。
    したがって日常生活における行動の計画とは、「未来の記憶」を作ることに他ならない
    のだ。(この指摘にはちょっとびっくりしたが、言われてみれば納得。)
    情動/感情は普通に考えられているように、ヒトが野生動物だったころの原始的な精神
    活動の名残りというわけではない。推論/判断のプロセスを必ずしも疎外するばかりで
    なく、むしろ推論のプロセスを助けている大切な仕組みのひとつだといえる。情動は
    理性のループの中にあるのだ。

 以上がダマシオの提唱した「ソマティックマーカー仮説」の概念。 ――この仮説って正直すごいと思う。
 情動とは脳を陰からそっと支えるコンシェルジュか、またはパソコンでいちいちURLを打ち込まなくても済むショートカットのようなものとでも考えるとしっくりくるかな?
 情動/感情がすごいのはそれだけじゃない。情動が理性と一緒になることで未来のイメージと明るさが重なり、“夢”や“希望”をもって計画的にとりくむことができる。未来の自分の姿をシミュレーションすることで、行動を起こす際に配慮しなければいけないポイントが予測できて高度な予測が出来る。また実際に行動するときも、不快や恐怖などの感情によって、いちいち理性で判断しなくても瞬時に最悪の選択を逃れることができるなど良いことがいっぱい。うーん、たしかに。

 考えてみればわかるが、実生活では推論を行うためのパラメーターが大量&不確定すぎて、理性だけで判断できることなんて殆どない。(極めて抽象的な「世界平和」とか「自分にとって人生とは」なんてことを考える程度ならまだしも。)
 たとえば会社の帰りにケーキを買うとする。その時ショーケースに並ぶ全てのケーキについて、経済学でいうところの「費用便益分析」を行って、支払い金額と購入効果を考える訳ではない。(当然、店に並ぶ全部のケーキの味を知ってるわけじゃないので効果なんか判断できないしね。)
 子供が好きなケーキを買って帰った時に、子供が喜ぶ様子を想像して選ぶだけのこと。これに限らずデカルトやカントが言うところの「純粋な理性」による判断をいちいち仰いでいては、日常生活もままならない。

 以上が「ソマティックマーカー仮説」の概要であるが、著者はさらに本書の最後で、「自己」という認識(=セルフイメージ)が、身体性を基盤にしてどのように生まれてくるかについて、この仮説に基づいて考察を加えている。
 デカルトが生きた16~17世紀ごろは、まだ哲学と自然科学や錬金術が未分化だった時代。当時の哲学は“真理(=世界の本当の姿)”を知るための学問だった。その意味では「我思うゆえに我あり」という心身二元論は正しいか正しくないかといえば確かに「正しく」はないだろう。今の哲学は「正しいかどうか」を決めるのではなくて、「納得できるかどうか」という基準で過去よりも良い生き方を追求するための手段となっている。とすれば心身二元論も数学における虚数のように、「仮定することでうまくいく概念」としてならまだまだ有効だろうと思う。(もっともデカルトのモデルそのままではなくて、そこから発展した現象学や実存主義などの形ではあろうが。)

 自分が考える限りにおいて本書の主張に隙はない。自然科学としての確からしさについては、おそらく間違いないだろう。ただ、この仮説の真価を判断するにはまだ早い気がする。この考えを哲学の領域まで昇華し得たときに、果たしてどんな新しい価値観や世界の展望が描かれるか? 判断はそれからでも遅くはない。たとえば、可愛がっていたペットが死んで悲しんでいる人に、生命活動の仕組みを説いて何になろう。生き物は寿命が来れば死ぬということは言われなくても判っているのだ。同様に、生きることの苦しさから逃れる為に心身二元論を唱えている人に対して、「それは科学的に違っている」と言っても仕方が無い。だからこそ、この新しい仮説を追求することで見えてくる「心」の在り様こそが、心身二元論を超える新しい哲学としての真価になると思うのだ。それが見えてくるその時まで、最終的な判断は保留としておきたい。
 (お気楽読書人の自分にはとてもじゃないがそんな難しいことを考えるだけの頭もないので、誰かが考えてくれるのを待つしかないけど。/笑)

<追記>
 本書の内容はとっても刺激的で愉しかったのだが、唯一の欠点は読みにくいこと。もともとの文章が悪文なのか、それとも翻訳が悪いのか分からないが、文章の意味が読み取りにくいこと甚だしい。(笑)
 もしも山形浩生あたりが訳を手掛けたなら、この回りくどい文章をどう料理しただろう? もっと読みやすくなっていたかなあ?
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR