2017年3月の読了本

今月は10冊。両親の件がだいぶ落ち着き、年度末進行の忙しさはあったがそこそこ読むことができてよかった。四月もぜひおの調子でいきたいものである。今はとにかく本が読みたい。

『分裂病の少女の手記』M・セシュエー みすず書房
複雑な家庭環境に育ち18歳で統合失調症となった女性について克明に記録した本。前半には発症から心理療法による快復までの過程を内面から描写した当人の手記を、そして後半には彼女の主治医であった著者セシュエーによる解釈を収録する。解釈の方は今の目から見るといささか古い感じがしないでもないが、何と言っても手記が圧巻だ。後半のセシュエーによる解釈に「外部の情景と彼女の内的世界との間には限界がなくなっている。自我はもはや独立した主体ではなく、外部の対象にとけ込んでしまっている」とあるが、まさしくこれはJ・G・バラードが描いた内宇宙そのものに違いない。(但しバラードの場合はその状態をある種のユートピアとして描いているわけだが。)また日常生活に突然異様な感覚が侵入してくる恐怖は、実話怪談の精神病理や或いはアンナ・カヴァンの『アサイラム・ピース』や『ジュリアとバスーカ』といった作品にも通じるものがあるだろう。
少女の快復は口の中に一片の林檎を頬張ったときから始まる。それまで彼女にとってなんら意味を成さなかった世界の全てが再び「現実」へと回帰するシーンは読んでいて感動すら覚える。「これこそはそれよ、これこそはそれよ」「これこそはそれ、あの現実よ」というのは、まさしく心からの叫びに違いない。(実際には快復の兆しを見せてからも、守られているという安心感と見捨てられたという絶望感から一進一退を繰り返し、寛解にこぎつけるにはまだ何年もかかるわけだが。)
ただ、解説については1950年の刊行ということもあり、今の目からすると仕方ないのではあろうが若干の違和感を覚えた。どうも口唇期やエディプス期といった表現が直截的に示されると気恥ずかしくなってしまっていけない。病気の症状をフロイト的な解釈で快刀乱麻を断つがごとく切っていき、「象徴的な投射」と「模倣」などの心理療法で統合失調症が本当に治ってしまったのだとしたら、すごいとは思うが、本当のところはどうなのだろう。
最後になるが、付録にある「ルネの生活歴及び病歴」は短文ながら、少女のこれまで過ごして来た家庭環境が判ってつらい。こういう人は健康になって幸せにならなければいけないと思うよ。いやほんと。

『ビブリア古書堂の事件手帖7』三上延 メディアワークス文庫
毎回違う切り口で描かれる古書の話題と、若い女性の古書店主をめぐる人間模様とで人気のミステリシリーズの完結篇。母親や語り手と彼女の関係にも一応の決着がつきほっとする。今回の本のテーマはシェイクスピアであり、蘊蓄話もいつにも増して愉快であった。なおミステリとしての本シリーズは、古書にまつわる底意地の悪い連中が語り手たちを引っ掻き回すという点で、紀田順一郎の古書ミステリの系譜につらなるものといえるだろう。主人公側の人々の性格が良いのがせめてもの救いか。ライトノベルだから読後感に注意してそのあたりを加減しているのかもしれない。

『いのちの半ばに』ビアス 岩波文庫
「兵隊の物語」と「市民の物語」の二部からなる、全二十六篇の同題の短篇集から七篇を訳出したもの。死をめぐる暗い話ばかりだが「アウル・クリーク橋の一事件」や「ふさわしい環境」など技巧に凝っていて飽きない。中でも幻想味の強い「ふさがれた窓」が好みだ。

『世紀の地獄めぐり』ブッツァーティ 創林舎
著者の遺稿となった『夜明けに発つ連隊』を始め、全部で六つの著作から選んだオリジナル短篇集。ブッツアーティ自身が語り手となる表題作はミハル・アイヴァス『もうひとつの街』を思い出した。(ここにいる悪魔はカヴェーリンの『ヴェルリオーカ』か、もしくは『モモ』の灰色の男たちに似たタイプ。)生者と死者、信仰と罪とが入り交じり、此岸と彼岸の区別ない世界では、逝きし者たちがダンス・マカブルを繰り広げる。独特の味わいである。なかでも気に入ったのは『夜明けに発つ連隊』から選ばれた四作品(「夜明け…」「ステファーノ・キャベロット」「オッタヴィオ・セバスチャン」「みんなに」)と、魔女の生涯を描く「メリンダ、魔女になる」や幻想生物「ババゥ」など。そこはかとないユーモアと哀しみがとても好い。

『人はなぜ物語を求めるのか』千野帽子 ちくまプリマー新書
人が世界を認識する方法のひとつである「物語/ストーリー」について、小説や神話から認識論や人生論、道徳哲学に果ては宗教論まで多様なジャンルを越境しながら考察する。WEB連載の『人生につける薬」に加筆修正。最後にはウイリアム・ジェイムズからエックハルトまで引合いに出し、ライフストーリーという〈懸崖〉から手を離すことの意義を説明する。「正しい私は報われ(評価)されるべきだ」という被害者意識の呪縛を解く重要性も。予想していたより遥かに射程の広い本だった。
小説に関する章では、自分がよく知らない文学理論や評論が数多く援用されていて大変に面白い。例えばフランク・カーモウドによれば、素朴な読者が物語/ナラティブに求めるのは「しかるべき論理一貫性」と「『なぜと問う』必要をなくしてくれる権威」なのだとか。人は「なぜ」を求めてしまう生き物なのだ。たとえばSFを読む面白さの一部には、たしかにこの宇宙の理/ことわり(そしてもっと言えばその意味)が書かれているという快感があり、そして神話を読む時は、(理由づけのあまりの強引さに苦笑しつつも)物語として純粋に楽しんだりする。その一方では因果関係をあえて否定する物語も存在する。本書でも言及されたカミュの『異邦人』や、もしくはロブ=グリエの『消しゴム』などがそうだ。これらの小説では主人公たちの行動の理由が一切書かれていないが、それは理由を隠しているのでなくてそもそも理由が無いのだ。
しかし我々の実際の生活ではそういうわけにはいかない。自らに降りかかった理不尽な不幸があるとすると、それが「ただの不幸なできごと」だと耐えられないので「意味のある悪い結果」としてとらえ直し、それに相応しい「悪い原因」を見つけてしまうのが人のさがというものなのだ。しかし無理やりつなげたストーリーは人を不幸にすることもあるとのこと。ふむ確かに。読んでいるうちに色んなことを考えてしまう本だった。

『物語の役割』小川洋子 ちくまプリマー新書
全部で3つのテーマからなる講演集。第一部は「物語が持つ役割」、第二部は「物語を創り出す作家としての作業」、そして第三部は「自らの読書体験を通じて読書の持つ役割を語る」というテーマで語られ、全篇を通して読書の喜びに満ち溢れている。
第一部はまさに上記『人はなぜ本を求めるのか』と響きあう内容で、「作家は特別な才能があるのではなく、誰もが日々日常生活の中で作り出している物語を、意識的に言葉で表現しているだけのことだ」といったくだりなどは『人はなぜ物語を求めるのか』に出てきた「ライフストーリー」の語り直しであるといえる。人は作家になるのでなく作家に生まれるのだ。
もしも本書のように人が物語を求めるのは世界で生きるためだとすると、音楽を求めるのは世界とつながりたいからとは言えないだろうか。人と、社会と、そして自分をとりまく世界そのものと、コミュニケーションをとりつながる手段としての音楽。(また同様になぜ本を求めるのかと問われれば、それは自分と対峙するためと答えざるを得ない。)
良い本を続けて読むことができてよかった。互いに共鳴しあえる読書はさらに大きな喜びとなる。

『植物はそこまで知っている』ダニエル・チャモヴィッツ 河出文庫
植物が持っている様々な機能を、動物の「視覚/嗅覚/触覚/聴覚/平衡感覚/記憶(手続き記憶)」になぞらえて、門外漢にもわかりやすく紹介した本。解りやすくといってもたとえば安易に植物を擬人化したりするのではなく、古今東西の科学実験の結果に基づいて説得力のある説明がなされている。エピローグでは「植物に知性はあるか?」という話題にも踏み込んでいて、読むほどに地球上に生きる多様な生命の在り方と、そして生物が生きるための精妙な仕組みに感嘆する。この宇宙の「理(ことわり)」を学ぶのが「理科」なのだとすれば、本書はまさに理科の喜びを語る本だといえるだろう。

『裏世界ピクニック』宮澤伊織 ハヤカワ文庫
実話怪談や都市伝説で語られている、現実世界と薄皮一枚で隔てられた異世界を舞台にしたサバイバルホラー小説。ネットで語られてきた「くねくね」などの恐怖が迫力を持って描かれる。本書を実話怪談の変種として読んでも面白いが、「聖痕を持つ者による妖怪退治譚」として読むこともできるだろう。途中で「ゾーン」という名前が出てくることからも明らかなように本書には『ストーカー』のオマージュの側面がある。ただし「ゾーン」に現れる謎とは違って、人間に積極的な働きかけをしてくるという点ではむしろ〈永遠のチャンピオン〉の「混沌の神々」に近いのかもしれない。(聖痕の位置が左手と片目というのは〈紅衣の公子コルム〉を連想させる。事実、目の前の現実が層をめくるように変わるところは〈コルム〉前半の『剣の王』辺りを連想させて楽しかった。)あるいは手塚治虫の『どろろ』やラムゼイの〈タイタス・クロウ〉を思わせる。本書は書こうと思う気さえあればずっと続けていける設定だと思うが、物語として決着をつけるのであれば〈タイタス・クロウ〉みたいにするか〈サザーン・リーチ〉みたいにするか難しいところかもしれない。
(マニアックな話で申し訳ないです。解らない部分はスルーしてください。)

『ぼくが死んだ日』キャンデス・フレミング 創元推理文庫
16歳のマイクは真夜中の道を車で帰る途中、ふとしたことから墓場へと足を踏み入れた。そこで彼は、9人の子供の霊が語る自らの死の物語を耳にすることになる……。魔術から宇宙の怪物まで、子供たちを襲う超自然的な恐怖と様々な「死に方」を描き、様々なタイプの怪談を愉しめるショーケースのような短篇集となっている。なかでもまるでB級SF映画のような「ディヴィッド」や魔術譚「エヴリン」、そして「猿の手」の正統的な後継「リリー」にサイコホラー的な「エドガー」辺りが好みだが、他の作品も(タイプは異なるものの)どれも怖い。また解説にもあるように全篇を通じてシカゴの歴史になっているのも好い。
ちなみに本書がなぜ単なる後味の悪い話でなく上質の怪奇小説になっているかというと、語り手が死んだ子供たち自身だということの影響が大きい気がする。怖いのは死ぬまでのことで、彼らはすでに死後の安息を得ているのだ。「すでに終わったこと」であれば、額縁に入った絵のように眺めることができる。現実はつらく哀しいが過去は甘くて苦い。だからこそ怪奇と幻想はいつも過去を語るのだろう。
おまけついで。S・キングのホラーを読んでいると段々つらくなっていくのは、きっと過去じゃなく常に現在を書いているからなのかもしれない。終わった話ではなく現在進行形の恐怖だからこそあの迫力が出るし面白くなるのだけれど、その代わりたくさん読むと胃にもたれてくる。食傷気味になるのだ。(もちろんキング作品の優劣の話ではなくて単なる好みの話。)もしかして「現在形」というのは、モダンホラーが「モダン」たる所以なのかも。またゴシック・ホラーと違って物語としての額縁が無いところなどは、実話怪談と共通するものがあるのかも知れない。考え出したら結構面白そうな話になりそうな気がする。

『江戸化物草子』アダム・カバット編 角川ソフィア文庫
十返舎一九の『妖怪一年草(ばけものひととせぐさ)』や『化物の娵入(よめいり)』などの作品を中心に、江戸時代の草双紙を翻刻とともに全五篇収録。山口昌男や辻惟雄、宮田登に小松和彦といった錚々たるメンバーによる解説も大変読み応えあり。取り上げられている話自体はたわいもないものなのだが、解説で小松和彦氏も書かれていたように、文化史や社会学的な視点でみてみると、がぜん面白くなってくる。そして「化物(妖怪)」がどのような社会的役回りだったのかを見ることで、当時の社会風俗が陰画のように眼前に立ち現れてくるのだ。

『社会学の根本概念』マックス・ヴェーバー 岩波文庫
最晩年の著者が社会学の様々な概念についてまとめた未完成の論文。複数の人間同士の相互関係を「社会的関係」とし、それにまつわる行為/秩序/闘争(淘汰)/団体/権力といった諸概念について定義を試みている。未完のまま途絶しているだけに内容には粗密があり、無味乾燥な用語の羅列や考察が不充分な部分も散見される。しかし読んでいるうち、ヴェーバーが社会学の枠組みで取り組もうとした課題の輪郭が徐々に見えてくる気がする。本書を読む限りでは社会学とは社会をいくつかの要素に分解し、それらの関係性を明らかにしようとするものといえるだろうか。ただ、各々の関係性が顕在化した部分についてのみ考察の対象としている感じもして、それらの関係性の根本原因に興味がある自分としては、少し食い足りない感じがしないでもない。(しかしヴェーバーが本書を書いた目的からしても、著者の意見に同意できるか否かはまた別の問題として考えるべきだろう。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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