『哲学は資本主義を変えられるか』竹田青嗣 角川ソフィア文庫

 ※今回はちょっと固めですがご容赦ください。

 前にも書いたことがあると思うけど、自分が日本の思想家の中で一番おもしろいと思うのが竹田青嗣氏なのだ。『現象学入門』(NHKブックス)を読んでその面白さに驚き、氏の著作を遡って読んだ後は、新たに思想入門書がでるたびに片っ端から買って読んだ。
 最初の頃の哲学者としての氏の活動は、「エロス」(注:エッチな言葉ではなく“生の躍動”といった本来の意味なのでお間違えなきよう。/笑)をキーワードにした、「生きる」ことへの思索が中心だった。しかしその後は、西研氏らと共に立ち上げた研究会でヘーゲルやカントの著書を原書で徹底して読み込むことで、新たな段階に進んでいる。(とかエラそうに書いているけど、実際には著書を読んで「ほえー」と感心しているばかりなのだ。/苦笑)
 今の氏の活動がどんな状況であるかを自分のつたない理解で要約してみると、「現象学や実存哲学をベースにしつつ、ヘーゲルが『精神現象学』で提唱した「自由の相互承認」という概念に基づいて、現実社会で誰もが幸福に暮らせるための哲学的な原理を構築する」といったところだろうか。
 「哲学なんて実際の生活に何も役に立たない」という意見は良く聞かれるものであるが、自分は(竹田青嗣氏と同様に)そうは思わない。哲学は原理的で根源的であるがゆえに却って、あらゆる社会生活の局面で考え方の基盤になりうるものだと思っている。ちなみに哲学が社会と関わり合うときの基本的なモデルは「公共のテーブル」というだと竹田氏は述べているが、これは当初ハンナ・アーレントにより提唱されたものだそうだ。たとえば科学が「唯一の真理」を追究するものだとすれば(*)、哲学はひとつのテーブルで議論しあい「真理」では無く「お互いの合意」を目指すもの。同じテーブルについた人々の間で、いかに納得のうえで合意を取り付けることが出来るかが大事であり、その材料を提供するのが哲学の社会との関わり方なのだ。なお、このあたりの思索については、柄谷行人氏の著作である『トランスクリティーク』(岩波現代文庫)を批判的に考察しつつ、建設的な提案を行った『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)に詳しい。ご興味がある方はどうぞ。

   *…科学哲学におけるクーンのパラダイム論を引き合いにだすまでもなく、
     科学で扱われるのが「唯一の真理」ではないことは承知しているが、
     ここではあくまでも便宜的にそう書かせてもらった。なので深くは突っ込
     まないで頂きたい。(笑)

 前置きが長くなった。本書『哲学は資本主義を変えられるか』は当初『人間の未来』という題名でちくま新書から出た本を改題したもので、ヘーゲル哲学を再考した前著『人間的自由の条件』への批判に応えるため議論をさらに深掘りし、前著のラストで簡単に示された展望をさらに追究したものとなっている。例によって自分の備忘録も兼ねて、内容について以下にざっと紹介してみよう。

 本書で中心となっているのは、だいたいヘーゲルおよびマルクス思想の哲学的な原理解釈。資本主義を歴史上初めて出現した「持続的な拡大再生産を可能にする経済システム」と定義して、それは「普遍交換」(≒大量輸送による商業)に「普遍分業」(≒商業により促された分業制による拡大生産)、そして「普遍消費」(≒何らかのかたちでの大量消費)という三つの原理によって支えられていると説く。(もちろんバタイユの“過剰なエネルギーの供給とその蕩尽”についても言及があったりして、消費社会という化け物のようなシステムを分析するために、色々な思想が総動員されている感がある。)
 さて、これらの原理に基づいて経済システムが動いていくわけだが、そのままでは経済格差や社会的な不平等が発生してしまう。個人の想いが違うことで強制や抑圧が起こり、国と国が互いに覇権を争うことになる。まさにホッブスが「普遍闘争状態」と呼んだ状態である。ではこの状態を解消するにはいったいどうすればよいのだろうか。本書によればその鍵となるのが、冒頭でもふれたようにヘーゲルの「自由の相互承認」であるのだという。(ちなみに竹田氏によれば『精神現象学』をはじめとするヘーゲルの思想は現在かなり誤解されているそうで、当時の社会情勢からくる問題もたしかにあるけれども、その思想の根本は今でも通用する普遍的な価値を持っているそうだ。)以下、もう少し詳しくふれてみる。
 「自由の相互承認」の元になっているのは「法(recht/レヒト)」と呼ばれている概念である。ヘーゲル独特の用法なので一般的な解釈とは違い、これは「法」と「権利」と「正義」という三つの意味を含むものなのだそう。「法(recht)」の行使は何かを「禁止」することを基本とするが、それは権威を持つ者の命令なのではなく、ただ単に「他人の自由(人格)を侵害するな」という意味らしい。(これって仏教が言うところの「自分がされて厭やことを他人にするな」という考え方に近いのではないかな。)
 放っておけば資本主義社会では個人の欲望のせめぎあいが始まり、その結果、強者による弱者からの搾取につながる。だからこそ社会をそのままの姿で放置するのではなく、「人倫(社会的な倫理)」によって制限を加えるべきだというのがヘーゲルの主張。そしてそれは「法(recht)」に基づいたものでなければいけないというのだ。(ちょっと話がややこしいがここは重要。)
 竹田氏は次にヘーゲルの主張を引き継ぐ形で、市民社会たる近代社会が構想されるにあたって一番重要だったのは「完全ルールゲーム」の理念であったと定義し、市民社会こそがそれまでの封建社会から普遍闘争状態の原因になる「暴力原理」を完全に排除して、これを純粋なルールゲームに変えるための試みであったのだと述べる。それは「ほんとう」についての秩序が存在するであろうという信憑を、人々の間につねに育て上げることなのだ。
 こうして市民社会が確立したことによって初めて、平和的議論の土台となる「公共のテーブル」が準備されたことになる。(ちなみに本書ではホッブス/ルソー/ヘーゲルという偉大な思想家3名によって示された近代国家理念の本質的概念のことを、「普遍ルール社会」と呼んでいる。)
 さてとりあえず議論の土台が出来たところで、次に行うのは人々の幸福とは何か?社会は何を目標に構築されるべきか?という考察である。たとえば目標とする理念をひとことで「最大多数の最大幸福」と呼んだところで、「一般福祉」つまり幸福の実現はどのような理念に基づいて追究されるべきかが明確でないと、アーシュラ・K・ル=グインにより短篇「オメラスから歩み去る人々」で示された問題に答えることは出来ない。本書ではそれにどのように応えたか。本書で示された意見を要約すると、おおよそ次のようになるだろう。

 ■人間の生にとって何が「善」で何が「幸福」かは本質的に多様性を持っていて
  一律には決められない。しかし各人がそれぞれの「幸福」を追求する可能性は
  確保されるべきであり、よって社会的な「善」とは、社会の人々が「自らの実存
  の独自な存在可能性」を追求しうる条件が常に確保され、また改善され続けて
  いくこと以外には内実を定位することは出来ない。(**)

 これこそが近代国家の公準(存在理由)の原理として「一般福祉」を置くことができる理由となるのだそうだ。ふむふむ。また本書ではこれ以外にも、「普遍資産」の完全に平等な配分は不可能であることと、大切なのは配分の偏りが各自の仕事の成果に応じていることが、一般福祉の成立条件として示されている。そして役割の分化は各人の資質に合わせた自由な「意志」の決定の結果として現れ、決して権威や権力によって決められたり社会的に固定されるものではないと説く。これはもしかしたら「オメラスから歩み去る人々」で示された問題のひとつの回答にもなり得るのではないだろうか。(あくまでも哲学的原理としてではあるが。)

  **…参考までにヘーゲルの言葉が本書に引用されているので抜き出しておこう。
     「おのれを善と主張する悪(が存在する)」「行為を......自分自身にとって善であ
     ると主張することができる。......そのような行為を他の人たちにとって善であると
     主張するのはいつわりないし偽善(である)」 
     ううーん、やっぱりヘーゲルすごいわ。

 さて駆け足ではあるが本書の議論の内容を見てきた。一般福祉のもととなる「事(こと)そのもの」(byヘーゲル)あるいは「公共のテーブル」(byハンナ・アーレント)という概念こそが、「自由の相互承認」の前提になる相互理解のベースであり、また唯一の方法であるという示唆が示されたことは、確かにあるひとつの社会の中では有効だろうしかし実はまだもうひとつ大きな課題が残っている。竹田氏も述べているように、近代国家同士が「普遍的闘争状態」を克服できていないことこそが問題なのだ。
 そこで終章では、新たに見田宗介氏の「限界問題」という概念を用いて、資本主義における様々な限界問題(例えば地球温暖化に代表される環境問題など)に対処する目的で、国家同士が大きな一般福祉の下に協調しあう仕組みを指し示して終わる。最後の展望がすこしあっさりしすぎて物足りないところではあるが、哲学的原理と社会における実践をつなぐものとして本書はじゅうぶん読み応えのあるものであったと思う。
 そういえば現象学の創始者であるフッサールも『イデーン』などの主著で現象学の哲学的な原理を構築したのち、晩年には『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で実社会への展望を示したのでなかっただろうか。本書も同様に「哲学は役に立たない」という主張に対するひとつの反証であるといえるかもしれない。

<追記>
 昔から「暴力」の本質とは何かについてずっと考えてきたが、なかなか自分のなかで答えは見つかっていなかった。それが本書を読んでいるうちにふと思いついたので、忘れないように追記しておきたい。
 主観としての立場からいうならば、「暴力」というのは「外部から一方的に与えられ、自らの意にそぐわぬ行いを強制する力」のことではないだろうか。圧倒し侵犯する力。そしてついでに言うなら、「信仰」とは「外部からくる暴力的な力を受容し自らのものとすること」ではないのだろうか。原始ユダヤ教などをみると、そんな気がする。
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『人形の文化史』 香川檀/編 水声社

 なぜだか分からないが昔から人形が怖かった。もしかしたら子供のころに見たテレビ番組か何かがトラウマになっていたのかもしれない。はっきり覚えているのは小学生の時に読んだ楳図かずおの「ねがい」という漫画。主人公の男の子が手作りした「モクメ」という人形が襲ってくるシーンは、夢にでそうなほど怖かった。キャラクターの人形よりも人にそっくりな人形の方が特に苦手で、ひな人形なんかでも夜中に見たらきっと泣き出したんじゃないかと思う。男兄弟だったので家にはひな人形が無かったので良かった。(笑)
 ところがそれが長じてからは、むしろ人形の展示会を好んで観るようになったのだから不思議なものだ。安本亀八の生人形などは鬼気迫る迫力があって、不気味に思うのだけれどなぜかしら目が離せない。「怖いもの見たさ」というのもあると思うが、やはり人形には昔から人を惹きつける“何か”があるのだろう。しかしそれだけ興味がある割に人形の持つ象徴性などの知識を殆ど持っていないのが我ながら情けない。意外と人形の文化的な意味について書かれた本は見つからないのだ。
 そんなわけで本書を店頭で見かけたときには、ちょっと高かったが即買いだった。副題には「ヨーロッパの諸相から」とあるから日本のオシラサマや依代としての人形については書かれていないようだが、いやなに構いやしない。ヨーロッパの幻想小説には人形が数多く登場するので、前から興味があったのだ。
 家に帰ってさっそく読み始めることに。どうやら全体は三部構成になっていて、八名の論客が人形を巡る様々な文化や思想を論じた評論集になっているようだ。
 まず第一部は「<人形幻想>の根源(ルーツ)をさぐる」。西洋世界のヒトガタ(人形)を「神をかたどったもの」として聖性と呪いという観点から論じたり、あるいは民話に出てくる人形の役割や、ヨーロッパにおける自動人形の歴史とそれが日本のからくり人形に与えた影響などが考察されている。つづく第二部は「モダニズム文学にみる人形」と題して、ホフマン『砂男』/リラダン『未来のイヴ』/マイリンク『ゴーレム』という幻想文学を代表する三つの作品のテーマと、各作品に登場する人形がそれぞれ担っている象徴性などを論じている。第三部は「危機の時代の人形愛」。ここでは世紀末から二度の世界大戦を挟む“人が人形にされた時代”に生まれた、ダダイズムによる舞台芸術やプリッツェルおよびベルメールという特異な人形作家たちの作品を紹介している。社会学や文化人類学的なアプローチによって書かれた文章はどれも読み応えがあり、さらには途中に付章としてからくり人形師・半屋春光氏と人形作家・四谷シモン氏へのロング・インタビューも掲載されているなど、ふたを開けてみればかなり“お買い得”だった。以下、順を追ってもう少し詳しくふれていこう。

 例えば第一章「神のかたどり」(踊共二氏)では、西洋における“ヒトガタ”に込められた意味と人形文化の系譜を辿ってゆく。氏によればヨーロッパにおける捉え方として、人形を人より上の存在とみるか下とみるかでまったく正反対の見方が存在するそうだ。神の被造物たる「自然」よりも、人工物たる人形を上と位置付けて偏愛するならば「反自然主義」。そして自然や人が“生”の側にあるのに対し、人形はあくまでも生命を持たぬ“死”の側にあるとするのが「自然/人間至上主義」とのこと。人形はこれら二つの立場を併せ持つ両義的な存在なのだそうだ。また第二章「民間伝承のなかの人形」(嶋内博愛氏)では、ドイツを中心として民間伝承にみられる人形の扱いを分析して、人形が動く場合には製作者などにより生命を吹き込まれて新たな“生き物”として動き出す場合と、単なる呪術の対象として人形そのまま(=非生命)で動く場合があることを明らかにする。本論を読む限りでは、ヨーロッパでは人形に最初から生命が宿っていることはないようだ。(*)うーん、なかなか深い。

   *…「日本の民話であれば、道端で拾った人形が主人公を助けるという話(中略)
      はあるが、作ったものに生命を吹き込むというものはぴんことない。人間の関
      与なしにモノに生命が宿る(ないし宿っている)ことはないのか。つまりそれは
      超自然的力の源をどこにみるかという問いともつながる。」

 この手の話に目の無い自分としては第一部もかなり面白かったのだが、やはり本書で一番愉しみにしていたのは第二部の『砂男』『未来のイヴ』『ゴーレム』の論考だった。(そして期待は裏切られず、かなりの読みでがあった。ただし作品を読んでいないとせっかくの論考が十二分に愉しめないと思うので、是非とも本書を読むときには先に作品に目を通しておいていただく方が良いと思う。)
 「E.T.A.ホフマン『砂男』と自動人形」(光野正幸氏)はホフマンの原作とそれを基にしたバレエやオペラ作品における人形の扱いの違いについて書かれていて、音楽作品には疎いのでとても興味深く読めた。
 リラダン『未来のイヴ』を取り上げた「人造人間の魂」(木元豊氏)では「人造人間に魂はあるのか?」という主題で作品を分析していく。ここで気になったのは、キリスト教における”魂”とはいったい何なのかということ。よく知らないのだが、本考を読む限りではどうやら知性や意思と同じものではないようだ。生命反応の元になる何かということなのだろうか。日本における依代とは神やその他のモノを降ろすための器なのだが、そこでは意思と生命は不可分になっている気がするので、西洋と東洋における”魂”の違いがとても気になった。
 三作品の掉尾を飾る「中欧の〈宿命的な痕跡〉を刻む人形」(桂元嗣氏)という論考は、本書の中でも出色の出来と思われた。ゴーレムを従来の映画のように“不完全な従者”の如きイメージではなく“未分化なもの”としてアフロディーテとの対比まで順に読み解いていく論考は、人形という主題から切り離しても大変に面白い。氏によればゴーレムとは旧約聖書「詩篇」第百三十九章十六節に一度だけ出てくるヘブライ語に由来するとのことで、「まだできあがらないわたしのからだ」の意味なのだとか。「神の息がまだ吹きかけられていないアダム」と位置付ける人もいるらしい。だとすればマイリンクの『ゴーレム』本来の意味に近いということになるだろう。
 第二部の最後におかれた付章②「フランスの黒人人形と植民地主義」ではフランスの万博などで展示された黒人人形の変遷を辿るもの。ヨーロッパ各国がアフリカを奴隷の供給地として位置付けるのでなく、アフリカ大陸そのものを支配する方向へ舵をきり、それが本格化するのは1880年代以降の帝国主義時代とのことで、まさにコンラッド『闇の奥』(1899)の頃というわけだ。黒人人形や日本人形はフランス人の異国への憧憬から生まれたものではないかと思うのだが、もしかしたら『ポールとヴィルジニー』(1787)のようなロマン小説の影響もあるのでは無いかとも思った。(思いつきだけど。)

 第八章は「予兆のなかのベルメール人形」。ベルマー(ベルメール)に至る前の時代に登場した、ロッテ・プリッツェルによる蝋人形の写真が妖しくも美しい。そしてダダや新しい表現主義を経て、グロテスクでエロチックなベルメール人形とシュールレアリズムが結びついてゆく......。澁澤龍彦の愛読者にはお馴染みのベルメールだが、こんな時代背景があるなんて知らなかった。(**)

  **…「人形写真」という芸術ジャンルがあるということも本書を読んで初めて知った。
      写真を撮ることで人形に生命を付与する。あるいは写真になることによって限り
      なく人間に肉薄していく。ベルメールの球体関節人形は実は写真に撮ることで
      作品として完成するものであり、実物をみてもあまり面白くないそうだ。人形の
      壊れた身体を写真で見せることで、背徳的だったり不気味であることが“生”の
      力を人形に吹き込むのだという。これはとてもよく解る気がする。

 なんだかとりとめのない話になってしまったが、人形をめぐる様々なイメージを繙いていく本書は、知的興奮に溢れたとてもよい本だった。それにしてもなぜこんなに人形が気になるのだろう。怖いもの見たさもあるけど、どうしても気になってしまうのだよねえ。もっと人形の出てくる話が読んでみたくなったので、そのうち『ピグマリオン』でも読んでみようかな。

叢書を編む

 以前、アンソロジーについての記事をブログに書いたことがある。(「アンソロジーについて(その2)」/2014.06.22)本好きな人ならば、きっと自分のお気に入りの作品ばかりで編んだアンソロジーを夢想したことがあるのではないだろうか。好きな短篇の著者と作品名をずらりと並べたリストが出来たら、眺めているだけで愉しくなる。ただし翻訳物のアンソロジーの場合は、ちょっと難易度が上がるかもしれない。
 まず世の中に既に出ている本が、訳者などによってセレクトされたものであるケースが多い。そのため自分で全く新しいアンソロジーを編もうとすれば既にある本の二番煎じになるか、それが嫌なら自分で原書から未訳作品を選ばなくてはならないわけだ。(英語圏以外のものではまず不可能。昔の雑誌に掲載されたきりで埋もれている短篇を集めるという手もあるが、古い雑誌を探すのもまた一苦労だ。)そんなわけで、時間/資金/語学能力のいずれも充分とは言えない自分のような人間にとっては、自作アンソロジーを考えるのは結構ハードルが高かったりするのだ。
 だからとりあえず試すとすれば、国内作家のアンソロジーということになる。しかしこれがまた悩ましいのだ。好きな作家の短篇を集めてこようにも、思い入れのある作家の場合は、どの作品も好き過ぎて選ぶことなんて出来やしない。また星新一氏のように多作家の人ならともかく、短篇はあまり書いていない作家だってたくさんいる。(いわゆる長篇型というやつ。)自分の好きな作家が選べるほどたくさんの短篇を書いていないからといって、色んな作家の作品から数作ずつ選んで集めたごった煮のようなのもちょっと中途半端で面白味が減るし......。
 というわけでその時ひらめいたのが、ホルヘ・ルイス・ボルヘス(*)編の『バベルの図書館』という叢書。(ふう、前置きが長かったが、やっと今回の題名につながった。)

   *…海外小説や幻想小説のファンでなければご存じないかも知れないが、
      アルゼンチン出身のそういう作家さんがいるのです。

 元々この「バベルの図書館」というのは、彼が書いた同名の短篇小説にでてくる架空の施設のこと。これまでに書かれたあらゆる本とこれから書かれるあらゆる本を収蔵しているとされる、まさに本好きの夢のような図書館だ。ボルヘスはその後この短篇と同じ名前をつけた叢書を編纂することになるのだが、これは古今東西の幻想小説を作家別に集めたアンソロジーで、収録作家はカフカやE・A・ポーといった大御所からアラルコンやヒントンといった聞いたことの無い作家まで幅広く、全て揃えるとなんと40巻にもなる。
先ほどひらめいたのは、自分もこれを真似てアンソロジーではなく既にある作家の短篇集をひとつの巻とした叢書であれば、割と簡単に編めるのではないかということだ。それからはお気に入りの短篇集に出会うたび、個人的な「幻想と怪奇のマスターピース」のリストに加えていくことにした。
 というわけで、今からご紹介するのはオリジナル叢書のためにこれまでに集めた収録作品のリスト。これからもまだ増えていくと思うが、とりあえずは現時点までの中間報告ということでご承知おきいただけると幸いである。

<幻想と怪奇のマスターピース短篇集(国内篇)>
 1)『完本 酔郷譚』  倉橋由美子 河出文庫
 2)『青蛙堂鬼談』   岡本綺堂  中公文庫
 3)『高丘親王航海記』 澁澤龍彦  河出文庫
 4)『ラピスラズリ』  山尾悠子  ちくま文庫
 5)『家守奇譚』    梨木香歩  新潮文庫
 6)『一千一秒物語』  稲垣足穂  ちくま文庫
 7)『あめだま』    田辺青蛙  青土社

 こうして並べてみると、自分の嗜好が割と静かなタイプの幻想小説であることが解って面白い。なお一応はひとり一作品という原則で選んであるが、好きな順に並べてあるわけではなく、あとから思いついたものを増やしているだけなのでリスト自体は順不同。各順位のいちばん後ろに書いてある文庫や出版社名も、現時点で入手しやすそうなのを記載しただけで他意はない。古い本だとこれまでに別の形で出版されていることもあるため、必ずしもこの文庫でなくても読めれば別にどんな版だって構わないと個人的には思う。
 とはいうものの少し悩むのは、『一千一秒物語』の扱い。今回はちくま文庫版を選んでみたが、収録作が新潮文庫版では全く違うのでそちらも面白いし、さらに河出文庫の『ヰタ・マキニカリス〈1〉』に特別収録されているので、「一千一秒物語」+『ヰタ・マキニカリス』をセットで愉しむという手もある。
 この<幻想と怪奇のマスターピース>というリストについては、これからも少しずつ増やしていって最終的には10冊ぐらいまで増やしたいと思っている。少しずつ増えていくのが愉しいのだ。また今後は、好きな海外作家の短篇集もしくは長篇で編んだ叢書も挑戦してみたい。どんなテーマで選ぶかはまだ考えていないが、この「オリジナル叢書」というアイデアは遊びのネタとしてこれからも色々と使えそうだ。

2016年5月の読了本

 またまた10冊に届かなかったが、割とバラエティに富んだものが読めたのでよかった。

『菌世界紀行』星野保 岩波科学ライブラリー
 根雪の下などに棲息して取り付いた植物を枯らしてしまう「雪腐病菌(ゆきぐされびょうきん)」を求めて、アイスランドやロシアから南極まで世界中を旅した菌類学者による旅行記。これまで聞いたことも無い名前の菌類だし、中には結構つらそうなエピソードもあるのだが、全編を貫くユーモアによって最後までとても愉しく読めた。そもそも、研究者が自らの体験を素人にも分かりやすく語ってくれる本は好きだ。また内容が専門的であればあるだけ更に愉しめる。その点では本書も青山潤著『アフリカにょろり旅』のウナギや高井研著『微生物ハンター、深海を行く』の深海微生物などと同じく、雪腐病菌などというマイナーな(失礼!)研究対象だけに文句なし。科学ライブラリーだからきっと著者が想定している読者の年齢は低めなのだろうと思うが、大人が読んでも十二分に愉しめる内容だと思う。あちこちに挿入される著者自筆のイラストも玄人裸足の腕前。山口昌男氏なども大層巧かったし、フィールドワーカーの人は絵心のある人が多いのだろうか。

『人形の文化史』 香川檀/編 水声社
 8名の論客による、人形を巡る様々な文化や思想を論じた文章を収めた本。人形の持つ象徴性のルーツや幻想文学における人形の持つ意味、そして第二次大戦(人が人形にされた時代)前後の芸術における人形など社会学や文化人類学的なアプローチによって書かれた文章はどれも読み応えがある。四谷シモン氏など人形作家へのインタビューも付いていて、かなりお得感がある。
例えば第一部。第一章「神のかたどり」では、西洋における“ヒトガタ”に込められた意味と人形文化の系譜を辿ってゆく。続く第二部ではホフマン『砂男』、リラダン『未来のイヴ』、マイリンク『ゴーレム』といった幻想小説の傑作に焦点をあてる。(なかでも桂元嗣氏による『ゴーレム』の論考は出色。ゴーレムを従来のような不完全な従者の如きイメージではなく“未分化なもの”として位置付けて、アフロディーテとの対比まで順に読み解いていく。人形から切り離して読んでも充分に面白い。)他にもフランスで人気を博した黒人人形と植民地の話だとか、ナチスによりユダヤ人が人形とされた時代の考察(「マネキンとマリオネット」)だとか、最終章ではベルメールの球体関節人形と人形写真の関係まで。ちょっと値段は張るが買った甲斐があった。人形のもつ象徴性などに興味がある方は是非。

『楢山節考』深沢七郎 新潮文庫
 「姥捨て」の伝承に題材をとった恐るべき表題作を始めとする全4編を収録した短篇集。なまなかな現実ではたちうちできないほど強いフィクションの力を久しぶりに味わった気がする。今村夏子氏の『こちらあみ子』にも似た力で、架空の歌や風習を作り上げる手法は筒井康隆にも通じる。(いや逆か? むしろ筒井氏の方がこちらを意識して書いたという方が正しいかもしれない。)他では「月のアペニン山」は怖く「白鳥の死」は読むのが辛い。(「東京のプリンスたち」はちょっと台詞に時代を感じてしまったが。)著者プロフィールを見ふと思ったのだけれど、現役作家に喩えるならオールラウンダーなところとか音楽家の資質などが、少し西崎憲氏に共通するところがありそうな気もする。

『子どもは40000回質問する』 イアン・レズリー 光文社
 「好奇心」の有無が人の脳の発達や社会的な成長の上でどのような影響を与えるかについて、豊富な事例とともに説明した本。「好奇心」全般について書かれているため話題の範囲は広い。本屋で教育の棚にあったのでてっきり子供の脳の発達についてだけだと思ったが、最終章ではマーケティングにおける効果効能にまで述べられているので、知らずに読んだ人は面食らうに違いない。(自分がそうだったように。/笑)文字通り「好奇心旺盛」な方にお薦め。

『パリ仕込みお料理ノート』石井好子 文春文庫
 83年に同文庫から出たエッセイの新装版。お得意の料理に関する薀蓄が愉しいエッセイの他、後半にはシャンソンをめぐる自らの歌手としての体験や、プロデューサーとして多くのシャンソン歌手と交流した様々な思い出が語られる。どちらの章も味わい深い。初出は1970年なので、当時はレモン絞り器やホットサンド用のホッターなども珍しかったのだろう。今読むと家庭に浸透している料理や調理道具も多い。時代は少しずつ変わっているのだ。

『黒後家蜘蛛の会 1』 アイザック・アシモフ 創元推理文庫
 極めてオーソドックスな謎解き型ミステリの短篇集。トリック重視というよりも作者によるウイットに飛んだ解釈の妙が主役。給仕役のヘンリーによる鮮やかな謎解きもさることながら、そこに至るまでのメンバーの蘊蓄や丁々発止のやりとりがとても愉しい。本格ミステリで「よくぞこんなに凝ったトリックを思いついた」というのも好きだが、本書はそれより「あ、こんな解釈もあったか」という愉しみ方に近いかも。時には強引な結末の作品も無きにしも非ずだが、それすらも著者が作品を書き終えたあとで、「どうだ♪」と得意げな顔をしている様子が頭に浮かぶようで微笑ましい。実は今回初めて読んだのだが、口当たりが良くていくらでもいけてしまう感じかがした。そして本書を読んでいるうち、ミステリにおけるトリックとはウィットの一種ではないかと思えてきた。本当かどうか(=確からしさの検証)とは一切関係なく、作中人物(=読者)をいかに納得させることができるかが大事。そしてそのためには、謎が魅力的であればあるほど良いのだ。まさに殺人事件なんてうってつけといえる。

『魍魎の匣』京極夏彦 講談社文庫
 何度目かの再読だが何度読んでもすごい。魍魎という“此岸”と“彼岸”の境界に湧くモノ(もののけ)を題材に、科学と宗教と生きることの意味を穿ち、アクロバティックな展開がラストに至って奇跡のように着地する。そもそも京極堂シリーズの面白さは猟奇的で民俗学的な香りのする事件と、奇矯なキャラのオンパレードにあるのだと漠然と思っていたのだけれど、今回読み返してみて新たな発見があった。キャラ立ちするのは、心理描写も含んだ複数のキャラの視点が入り混じっているからなのだと思う。関口、木場、榎木津といった常連キャラの他、女子高生・楠本頼子や福本巡査、そして青木刑事ら複数の視点が順に移り変わりながら、徐々に物語の全体像が見えてくるところは圧巻。そして物語の鍵となる最重要人物でありながら、決して京極堂の視点では決して語られないというのも面白い。これ、全て作者流の小説作法にならったものなのだ。
 また、京極堂シリーズで描かれるのは悪ではなくて不幸であるというのも興味深い。中禅寺秋彦は「犯罪を暴く」のではなく「真相を暴く」だけ。そしてその目的は犯罪を糾弾することではなく、不幸な境遇の人々の心を癒やすことなのだ。当然ながら読後感がいいから後を引く。うまいこと出来てる(笑)。初読の際に、次の日も仕事だというのに、夜中の2時過ぎまでかけて読み終えたのを思い出した。

『黄金の壺/マドモアゼル・ド・スキュデリ』ホフマン 光文社古典新訳文庫
 ホフマンの色々な作品をサンプルケースのように並べた入門編の一冊。表題作のひとつ「黄金の壺」は魔法の飛び交う錬金術的な世界の物語。少し滑稽なところもあって気軽に読めるファンタジーに仕上がっている。ハッピーエンドなのも好い。もうひとつの表題作「マドモアゼル・ド・スキュデリ」はまたうって変わってデュマを思わせるような犯罪活劇物語であり、残りはオペラ「ドン・ファン」論をテーマとする掌編と架空の楽長クライスラーの言行録「クライスレリアーナ」からの抜粋を収録。著者を代表する幻想小説と探偵小説の嚆矢と言える中篇が読めるだけでもお買い得といえる。古典新訳文庫さん、やるねえ。

ゴーチエ『死霊の恋/ポンペイ夜話 他三篇』 岩波文庫
 フランスの幻想小説家による短篇集。妖艶な吸血鬼クラリモンドに誘惑される若き司祭の苦悩を描く「死霊の恋」も、火山の塵と化した若き女性が二千年の時空を超えてひとりの青年の前に現れる「ポンペイ夜話」のいずれも、この世の現実に背を向けてひたすら夜の別世界に心惹かれた者たちの体験する幻想と死の物語。解説によればゴーチエはホフマンの熱心なファンだったらしいが、いかにもそんな感じのする表題作だ。他の三篇「二人一役」「コーヒー沸かし」「オニュフリユス」の中では、「二人一役」がユーモラスな小品ながらぴりっとした感じでかなり気に入った。また「オニュフリユス」の扉には「あるホフマン賛美者の幻想的なるいらだち」とあり、一方で「オニュフリユス」自体の中身は夢見がちな芸術家たちを揶揄・糾弾する類ものであるため、それはそのまま作者の自虐ではないかとも思えてくる。大変愉しい一冊だった。たまに読む幻想小説は心に沁みるようだねえ。(笑)
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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